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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

見玉尼のこと

2020年12月13日 | 浄土真宗とは?

法話メモ帳より

 

 見玉尼は、文安五年(一四四八)上人三十四歳のときに誕生した。当時の本願寺は、祖父である存如上人が第七代として細々と住持しており、いまだ部屋住みの身であった父・蓮如上人は、次々と生まれてくる子女を手元で育てることもままならず、子の多くを他の寺院へ預けることを余儀なくされていた。見玉尼もまた、初めは禅宗の寺へ喝食として出されていたが、後に大叔母である摂受庵の見秀尼の弟子として、浄土宗の一条流(浄華院流)の教えを相伝したことが伝えられている。見玉という法名が、見秀尼と同じ、見の一字を持つのは、あるいはこの法名を大叔母よりもらったことを示すものであろうか。

 見玉尼が真摯に求めていたこの一条流の教えは、とも一に阿弥陀仏を尊崇し浄土往生を願う浄土教ではあるが、わが身の浅ましさを知り、わがはからいを捨てて、ただ一途に弥陀の救いを仰ぐ浄土真宗の教えとは、いささか相違するものであった。数多くの僧侶や門徒たちを正しい真宗の教えに導く一方で、成長したわが娘の信仰を上人はどのようにご覧になっていたのであろう。おそらくは、さまざまな縁のなせるわざと見守りながらも、自分自身に対するもどかしさを感じられていたのではないだろうか。ところが奇しくも、文明二年(一四七〇)の叔母(蓮如上人の二番目の内室。見玉尼の生母の妹にあたる)の死、翌年の姉の死と肉親の不幸がうち続き、そのたび重なる悲しみが一つの縁となって、ついに見玉尼は、上人のもとで浄土真宗の教えに深く帰依し、信心をよろこぶ人となったのである。けれども、肉親の死をいたむ見玉尼の悲歎は、彼女に信心をもたらしたと同時に、その身体の健康を損なうものでもあった。

 九十四日間の闘病もむなしく、文明四年(一四七二)八月十四日の辰の刻、見玉尼はわずか二十五年の短い生涯を閉じた。越前吉崎の地で、数万人の弔いを受けて荼毘ふせられた。葬送を終えて、蓮如上人は一通の御文章(帖外御文章真宗聖教全書5-306)を認められた。

臨終の床にあって見玉尼が口にしたことは、真宗の信心を確かに得たよろこび、看病の人々への感謝、常日頃の思いであったという。そしてその死を知った人々は、誰ひとりとして涙を禁じ得なかった、と上人は伝えている。かくいう上人もまた、限りある命と知りつつも、先立った娘の死に涙したに違いない。かつて、真継伸彦氏は小説『鮫』の中で、主人公・鮫を信仰へと導いた人として見玉尼を登場させ、「静かさ」「清浄」「信心一途の清い生涯」といったイメージを描き出したが、その生涯を純粋に生ききった静やかな人、おそらくそれは、この上人の御文章に触れた誰もが思い描く見玉尼のイメージと言えるであろう。

 ところで、この御文章には、ある人の夢想として一つの象徴的な話が記されている。それは、荼毘に付された見玉尼の白骨の中から三本の青い蓮華が現れ、その花中より一寸ほどの金の仏が光を放って出現し、やがてそれが一匹の蝶となって飛び去っていったというものである。そして、蓮如上人はこの話に寄せて、“見玉“の名のいわれを語っている。「見玉という名は真如法性の玉を見るということ。青蓮華の中から金色の仏が現れたのは、まさしく真実の玉を現したことを意味している。そして、そのたましいは蝶となって真実の極楽世界へ往生した」。先に触れたように“見玉“という法名はおそらく蓮如上人が与えた名ではないであろう。しかしながら上人は、 娘を失った悲しみの中にも、二十五年の見玉尼の生涯は、その名が示すとおりに真実を見据えるいのちの歩みであったと確信されたのではないだろうか。

三男十四女という多くの子女に恵まれた蓮如上人。 多くの子女が上人の意志を継ぎ、北陸・近畿への本願寺の教線の発展に手腕を発揮したのであった。その中で、信心の人として上人の前に現れ、そして消えていった見玉尼。上人にとっても、見玉尼は一人の善知識であったのだろうか。「比丘尼見玉のこのたびの往生をもって、みなみな善知識と思い、一念帰命の信心を得よ」と、 この御文章は結ばれている。

 

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