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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

かっとなって何をするか分からない症候群

2009年08月28日 | 現代の病理
「かっとなってやった」。近年、やたら多くなった。それも殺人となれば、もはや現代の病理だろう。

今日の新聞報道に
野良猫の餌やりを注意されたことに腹を立て、近所の女性を刺したとして、千葉県警船橋東署は27日、船橋市習志野台、無職林喜市容疑者(70)を殺人未遂容疑などで現行犯逮捕した。(中略)
 林容疑者は、昨年秋から野良猫に餌をやるようになり、岡戸さんに注意されていたといい、「かっとなってやった」と供述しているという。
(2009年8月27日19時55分 読売新聞)

15年前、娘が幼稚園に行っていたとき、幼稚園の父母の会の会長を仰せつかった。幼稚園でわたしの講演会もやって頂いたが、わたしが推薦して児童精神科医の佐々木正美先生をお招きして講演会を開催した。佐々木先生はエリクソン(Erikson, E. H.)の理論(http://rzt.sakura.ne.jp/shinri/2006/01/post_1.html)を継承する方です。

講演の中で、大学医学部で解剖の実験中でも、学生が叱責に相当する行為をしても、教授はまともに叱れない。後で場所を変えて注意すると言われていた。その先生の言葉を不自然におもわず聞き流したので、その当時すでに、カーとなる刺激を与えたら何をするか分からないという青年像があったのだろう。ところが現在はそれが蔓延して老若男女をとわず「なーとなったら何をするか分かれない」状態になってしまったようだ。

こうした病理を作り出している原因はいろいろであろうが、その1つに、反省が個人主義化していることがあげられるかもしれない。反省が個人化するとは、自分の誤りを正すとき、自分の理性をよりどころとすることに始終することです。以前は、無意識のうちに他者、社会、自然、歴史、神仏に照らして慚愧するということがあったと思う。その理性がかっとなりコントロール不能になれば、何をするか分からない。

精神衛生的にも毎朝、先祖や仏様に手を合わすことの利点を文化をして見直すぎりぎりの所に来ている気がする。
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