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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

苦しみの意味

2024年05月08日 | 現代の病理
本願寺発行の月刊「大乗」にこの4月~連載しています。「なるほど仏教ライフ」5月号“苦しみの意味”を転載します。


『共感という病』『「普通がいい」という病』『母という病』『健康という病』『「つながりたい」という病』『「認められたい」という病』『自尊心という病』『家族という病』『「自己啓発」という病』『甲子園という病』『「ボケたくない」という病』、実際に最近読んだ『…という病』の本の一部です。どのような価値あるものでも内実には不完全さを抱えているということでしょう。
「やさしく」「ケンカをしないように」など、さも普遍的と思われる考え方も、状況によって不完全となります。土井義孝著『「優しい関係」の社会病理』に、現代の若者の人間関係の病理を解明したものだが、優しい関係を築こうとするのは、対立の忌避であり、自分を肯定する感覚が脆弱になっているからだと指摘されています。若者の優しい関係は、お互いの対立点の顕在化を隠す行為であり、友人同士の対立を回避するために、外部にいじめの対象を作り、集団内はゆるやかで軽い関係を継続する。だから今の若者は、親友でもけんかなどお互いに傷つく危険を回避しようとして、人間関係を意図的に希薄な状態に保っているのだそうです。
浄土真宗という仏道は、私の不完全さが明らかになり、その不完全なものが肯定されていくみ教えです。その不完全さのうずきが苦しみです。苦しみを通して、自分の不完全さが明らかになることが重要なのです。
『モリー先生との火曜日』(NHK出版刊)に掲載されている小話があります。この本はALS(筋萎縮性側索硬化症)に侵されていたモリー・シュワルツ教授と、スポーツコラムニストとして活躍する著者ミッチ・アルボムさんが死の床で行った「ふたりだけの授業」の記録です。
 「この間おもしろい小ばなしを聞いてね」とモリーは言い出し、しばらく目を閉している。ぼくは待ちかまえる。
「いいかい。実は、小さな波の話で、その波は海の中でぶかぶか上がったり下がったり、楽しい時を過ごしていて気持ちのいい風、すがすがしい空気--ところがやがて、ほかの波たちが目の前で次々に岸に砕けるのに気がついた。
 『わあ、たいへんだ。ぼくもああなるのか』
 そこへもう一つの波がやってきた。最初の波が暗い顔をしているのを見て、『何かそんなに悲しいんだ?』とたずねる。
 最初の波は答えた。『わかっちゃいないね。ぼくたち波はみんな砕けちやうんだぜ! みんななんにもなくなる! ああ、おそろし』
 すると二番目の波がこう言った。『ばか、わかっちゃいないのはおまえだよ。おまえは波なんかじゃない。海の一部分なんだよ』」(以上)
 波の中に『わあ、たいへんだ。ぼくもああなるのか』という混乱が起こった。それが苦しみでもある。その混乱は、真(まこと)なるものからの問いかけによるともいえる。もっと言えば真実からの働きかけによって、私の不完全さが暴かれていく。これが混乱の真相でしょう。
その時代には、その時代特有の大きな物語があります。近代という時代を特徴づけた「大きな物語」は理性主義、科学主義、進歩主義だともいわれます。また人類を貫く大きな物語もあるようです。それは「人類は常に完全を求めて指向してきた」ということでしょう。親鸞聖人は鎌倉時代に、「当今は末法なり。この五濁悪世には、ただ浄土の一門ありて、通入すべき路なり」(『註釈版』391頁)と道綽禅師の『安楽集』をご引用になり、末法の世において、完全さを指向する物語は破綻していると説いておられます。現代においては、完全を求めることではなく、自己の不完全さが明らかになり、その不完全な者が肯定されていく道こそ、すべての人が共有できる唯一の道だということです。『~の病』ではなく、人間性そのものが病の中にあるということしょう。
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