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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

公認されない悲嘆

2024年05月04日 | セレモニー
『グリーフサポートと死生学』 (放送大学教材・2024/3/20・石丸彦・山崎浩司著)からの転載です。

2。ペットロスによるグリーフ
 ペットロスは,大切な人との死別と同じく,多くの人につらい経験と認知される。また,ペットロスにより生じるグリーフも,基本的に人との死別に伴うグリーフと同様に理解できる部分が多い。「ペットロス症候群」なる名称も存在するが,対人喪失によるグリーフと同じく,ペットロスに伴うグリーフの多くは治療的介入を要さない通常悲嘆(第1章)である。
 しかし,これも対人喪失の場合と同様にペットロスでも精神医学的治療が必要になるほど重度の悲嘆が遷延することもある。ある調査では,ペットロス後,2か月および4か月の時点で,約半数の遺族がうつ病と診断されうる状態にあったと報告されている(木村ら,2016 ;木村,2017)。
 さらに対人喪失体験によるグリーフでは,外傷後成長が生じることがあることが知られているが,ペットロス後にも同様の現象が見られることがわかっている(Packman et a1.,2017)。坂口らが実施した大学生対象の質問紙調査では,約66%の者が「ペットを亡くした体験は私を成長させてくれたと思った」と回答している(坂口ら,2018)。
 以上のように対人喪失によるグリーフとの共通点が多くある一方で,ペットロスによるグリーフに特異な点も存在する。それらは,・「たかがペットの死」や「また飼えばいい」という公認されない悲嘆,・終末期動物医療における安楽死の選択にまつわる悲嘆,・死を予期しにくいことにより重篤化しかねない悲嘆,・子どもや若者にとって初めての死別体験として生じる衝撃的な悲嘆,の4つである。

(1)公認されない悲嘆:「たかがペットの死」
 ペットロスに直面している人は,周囲の者から投げかけられる「たかがペットの死」ではないかとの言葉に,しばしば傷つけられる(木村,2009)。ただでさえ最愛のペットを喪って深く悲しんでいる当事者は,たかが動物であるペットの喪失体験が,対人喪失体験と同等の衝撃や悲しみをもたらすはずはないという周囲の反応から,二重に苦しめられる。そして,この周囲の反応により,ときにはペットロスの渦中にある当人自らが,人間の死ならまだしも動物の死でこれほど苦しむ自分は異常なのではないか,と戸惑ってしまうこともある。
 また,周囲の者が励ますつもりで言った「代わりのペットを飼えばいい」という言葉で,ペットロスの当事者が傷つけられることもある(木村,2009)。当人はかけがえのない(代替不能な)存在を喪ったと感じていても,周囲の者は人間ではなくペットなのだから替えが効く(代替可能である)と考えており,認識が大きく食い違う。この認識のギャップも,ペットロスによるグリーフに直面する者をさらに苦しめることになる。
 以上のように喪失体験者が社会から悲しむ権利を認めてもらえない状況では,公認されない悲嘆(第1章)が生じる。「たかがペットの死」という反応は,その人が最愛の対象を喪失した事実それ自体を認めていない姿勢の表れであり,したがってクリープも生じていないか,生じていても対人喪失によるグリーフと比べて遥かに軽微なものと認識される。しかし,喪失対象が人であれ動物であれ,グリーフの軽重を左右するのは対象との親密さであって対象の違いではないことが,研究により明らかにされている(Eckerd et al.,2016)。
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