『逆襲する宗教 パンデミックと原理主義』 (2023/2/9・小川忠著)
本の紹介文
イランのイスラム革命に象徴されるように、世界は1970年代から宗教の季節を迎える。それはイスラム教に限ったことではなく、アメリカやロシアなどの大国をも含む複数の国で「宗教復興」とでも言うべき現象が起こり、その勢いはいまなお衰えをみせない。
イスラム教においては、その一部がジハード主義者たちのテロ行為へとつながっていくが、そこで標的となったアメリカもまた、「宗教復興」と無縁ではない。それを示すのが、1980年の大統領選におけるロナルド・レーガンの逆転勝利である。このときアメリカが直面したキリスト教保守主義vs.世俗リベラルの図式は、今日いっそう深刻な分断となって我々の前に立ち現れている。
宗教が各地で影響力を強めていくなかで突然訪れた世界規模のパンデミックは、感染防止のための礼拝の禁止や宗教施設の閉鎖をめぐって大きな反発を生み、各国で思いがけない事態を引き起こした。その一方で、広く影響力をもつ宗教勢力と協力して、危機を乗り越える力を得た国もある。
世界情勢はもはや宗教なしに理解することが不可能となりつつある。本書は、国際交流基金に長く勤めた経験のある著者ならではの筆致で、危機の到来によって急激に前景化した宗教と社会の関係を各国ごとに明快に解き明かす。(以上)
本からの転載です。
社会の片隅に追いやられてきた宗教
そもそも近代以前まで、人類の長い歴史のなかで宗教は、「なぜ人は存在するのか」、「なぜ人は病み、そして死ぬのか」という人間の生き方をめぐる問いから、「なぜ季節は移ろうのか」、「なぜ地震は起きるのか」という人間をとりまく自然環境に関する問いに至るまで、究極的な疑問に答えを用意してくれる、社会において揺るぎなき存在だった。
しかし、近代が宗教の地位を変えた。近代社会の要件には、政治には「民主主義」、「法の支配」、「世俗主義(政教分離)」、経済的には「資本主義」「産業化」、思想的には「個人主義」、「合理主義」などが挙げられる。
近代が始まった欧州では、教会(宗教)が政治に介入し、信仰の自由、思想の自由を奪い人々から創造性を奪ったそれまでの社会に対する反省から、宗教と政治を切り分け、宗教が政治に口をはさまない、あるいは政治が特定の宗教を支援/規制することを戒める「世俗主義」が、社会の主流となった。そして近代の世俗化された社会では、宗教は個人の内面に属する事柄とする「宗教の私事化」が進行した。
なお「合理主義」とは、理性を知識の基礎として、人々の暮らしのなかで合理主義を貫こうという姿勢を示す。「合理主義」が社会の構成員に浸透すると、呪術的要素などは非合理な「迷信」と否定され、かえりみられなくなる。
かくして、近代化とともに宗教は私事化し、社会の構成員が合理的な思考を身につけると、存在感を失い、衰退していくものと二〇世紀半ばまでは考えられてきた。
ところで一九七〇年代以降の宗教復興を別の角度からみると、近代そのものに限界が見えてきたことが、宗教の再評価をもたらし、復興のうねり生じさせている、ともいえるだろう。すなわち七〇年代頃から、科学万能に対する確信が揺らぐなか、科学が満たしてくれないものを求めて個人の内面でスピリチュアリズムを追求する「精神世界」、「ニユーエイジ」と呼ばれる運動が目立つようになった。日本の宗教学者島薗進は、この宗教復興現象を「新霊性運動・文化」と呼ぶ。(以上)(つづく)
本の紹介文
イランのイスラム革命に象徴されるように、世界は1970年代から宗教の季節を迎える。それはイスラム教に限ったことではなく、アメリカやロシアなどの大国をも含む複数の国で「宗教復興」とでも言うべき現象が起こり、その勢いはいまなお衰えをみせない。
イスラム教においては、その一部がジハード主義者たちのテロ行為へとつながっていくが、そこで標的となったアメリカもまた、「宗教復興」と無縁ではない。それを示すのが、1980年の大統領選におけるロナルド・レーガンの逆転勝利である。このときアメリカが直面したキリスト教保守主義vs.世俗リベラルの図式は、今日いっそう深刻な分断となって我々の前に立ち現れている。
宗教が各地で影響力を強めていくなかで突然訪れた世界規模のパンデミックは、感染防止のための礼拝の禁止や宗教施設の閉鎖をめぐって大きな反発を生み、各国で思いがけない事態を引き起こした。その一方で、広く影響力をもつ宗教勢力と協力して、危機を乗り越える力を得た国もある。
世界情勢はもはや宗教なしに理解することが不可能となりつつある。本書は、国際交流基金に長く勤めた経験のある著者ならではの筆致で、危機の到来によって急激に前景化した宗教と社会の関係を各国ごとに明快に解き明かす。(以上)
本からの転載です。
社会の片隅に追いやられてきた宗教
そもそも近代以前まで、人類の長い歴史のなかで宗教は、「なぜ人は存在するのか」、「なぜ人は病み、そして死ぬのか」という人間の生き方をめぐる問いから、「なぜ季節は移ろうのか」、「なぜ地震は起きるのか」という人間をとりまく自然環境に関する問いに至るまで、究極的な疑問に答えを用意してくれる、社会において揺るぎなき存在だった。
しかし、近代が宗教の地位を変えた。近代社会の要件には、政治には「民主主義」、「法の支配」、「世俗主義(政教分離)」、経済的には「資本主義」「産業化」、思想的には「個人主義」、「合理主義」などが挙げられる。
近代が始まった欧州では、教会(宗教)が政治に介入し、信仰の自由、思想の自由を奪い人々から創造性を奪ったそれまでの社会に対する反省から、宗教と政治を切り分け、宗教が政治に口をはさまない、あるいは政治が特定の宗教を支援/規制することを戒める「世俗主義」が、社会の主流となった。そして近代の世俗化された社会では、宗教は個人の内面に属する事柄とする「宗教の私事化」が進行した。
なお「合理主義」とは、理性を知識の基礎として、人々の暮らしのなかで合理主義を貫こうという姿勢を示す。「合理主義」が社会の構成員に浸透すると、呪術的要素などは非合理な「迷信」と否定され、かえりみられなくなる。
かくして、近代化とともに宗教は私事化し、社会の構成員が合理的な思考を身につけると、存在感を失い、衰退していくものと二〇世紀半ばまでは考えられてきた。
ところで一九七〇年代以降の宗教復興を別の角度からみると、近代そのものに限界が見えてきたことが、宗教の再評価をもたらし、復興のうねり生じさせている、ともいえるだろう。すなわち七〇年代頃から、科学万能に対する確信が揺らぐなか、科学が満たしてくれないものを求めて個人の内面でスピリチュアリズムを追求する「精神世界」、「ニユーエイジ」と呼ばれる運動が目立つようになった。日本の宗教学者島薗進は、この宗教復興現象を「新霊性運動・文化」と呼ぶ。(以上)(つづく)