「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)に対する声明(三)
このたびご消息として発布された「新しい領解文(浄土真宗のみ教え)」(以下、「新しい領解文」)について、勧学・司教有志の会は、まず「声明(一)」では、特にその第一段落について、宗祖親鸞聖人のご法義に重大な誤解をもたらすおそれのあることを指摘した。続く「声明(二)」では、「新しい領解文」という名称そのものや、この文章を聖教として扱うことの問題性について指摘した。この「声明(三)」では、第二段落〈師徳〉について、「ご門主さま」というお立場を傷つけかねないことを指摘しておきたい。
これもひとえに
宗祖親鸞聖人と
法灯を伝承された 歴代宗主の
尊いお導きに よるものです
この一段は二〇二一年四月一五日に発表された「ご親教(浄土真宗のみ教え)」には存在しなかった部分であり、「新しい領解文」として発布されるにあたり挿入された部分である。
まず本段の冒頭には「これ」という指示語が存在しているが、「これ」が何を指すのかが明確ではない。第一段落は、その末尾に「仏恩報謝のお念仏」という文言が添えられているものの、内容的には阿弥陀如来の救いのはたらきを述べようとしたものになっている。したがって「これ」が指しているのは、その阿弥陀如来の救いのはたらきと受け取るのが普通の読み方であろう。しかしながら阿弥陀如来の救いのはたらきを指して、それがひとえに親鸞聖人と歴代宗主のお導きによると繋げるのは、ご法義に照らして不適切である。親鸞聖人と歴代宗主のお導きにより阿弥陀如来が救済活動をおこなうわけではないからである。今回、「新しい領解文」がこれだけの物議をかもしているのは、宗意安心上における危険性もさることながら、こうした文章の構造的な問題による理解しにくさにもある。
またこの一段で、宗祖親鸞聖人と歴代宗主を並列的に扱っている点も極めて危険である。歴代宗主には、ご門主さまも含まれることになる。つまり本段の内容からいえば、本願寺派は、宗祖親鸞聖人とご門主さまとを同一視していると受け取られても仕方がない。その問題は、従来の「領解文」の〈師徳〉の段と比較してみると一層明らかとなる。従来の「領解文」では、
この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人(親鸞)御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。
とあるように、「この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと」について〈師徳〉が述べられている。すなわち具体的には前段で示されている自力を捨てて他力に帰する〈安心〉と、その上での〈報謝〉の称名という法義の領解を指している。その領解をみずからがいただいていることを受けて、まず宗祖親鸞聖人の「御出世の御恩」が示されているのである。それは宗祖が九〇年のご生涯をもって、いかなる行を修めても執われの心を離れることが出来ない凡夫の姿をお示しになり、その自力無功の凡夫こそが如来の本願の目当てであることを教えてくださった御恩にほかならない。そして何よりも『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)を著して、立教開宗してくださったことの御恩である。
また、宗祖のみ教えを私に伝えてくださった「次第相承の善知識」の御恩については、「御開山聖人の御出世の御恩」とは別に示されていることも重要な点である。「善知識」とは、ご法義をよろこぶ一人ひとりが、みずからにお念仏を伝えてくださった大切な方々を思うことのできる言葉であり、直接的には歴代宗主に限定する言葉ではない。しかし「次第相承の」という文言が添えられていることによって、出言する私たちが、おのずと法灯を護り伝えてくださった歴代宗主のご恩を思い浮かべることができるように表現されているのである。
それにひきかえ「新しい領解文」では、何を受けて〈師徳〉が示されているのかが不明瞭である。しかも宗祖と歴代宗主とに限った形で〈師徳〉を併記したことにより、ご門主さまの名のもとに発布されるご消息において、ご門主さまが親鸞聖人とみずからとを尊い導き手として同一視されているようにも読めてしまう。
我々を含め、全国各地の僧侶、門信徒の方々がこれまで「ご門主さま」という存在を心から敬慕してきたことは言うまでもない。しかしながら、そのことを当代のご門主さまの方から、「ご消息」として、このように語らせてしまうようなことはあってはならない。
このような文章が、十分な検討を踏まえることなく挿入され、ご門主さまの名のもとに「領解文」として発布されることで、どれほどご門主さまを傷つけ続けることになるのかを、本願寺総局は思い至らなかったのであろうか。そのことに私たちは深い悲しみを覚える。速やかに「新しい領解文」を取り下げ、真にご門主さまを尊ぶ姿勢に立ち戻るべきである。
最後に、この声明文は本願寺派の勧学・司教有志により発するものであるが、その「志」(こころざし)とは、ご法義を尊び、ご門主さまを大切に思う、愛山護法の志であることはいうまでもない。
合掌
二〇二三年 四月二二日
浄土真宗本願寺派 勧学・司教有志の会
代表 深川 宣暢(勧学)
森田 眞円(勧学)
普賢 保之(勧学)
宇野 惠教(勧学)
内藤 昭文(司教)
安藤 光慈(司教)
楠 淳證(司教)
佐々木義英(司教)
東光 爾英(司教)
殿内 恒(司教)
武田 晋(司教)
藤丸 要(司教)
能仁 正顕(司教)
松尾 宣昭(司教)
福井 智行(司教)
井上 善幸(司教)
藤田 祥道(司教)
武田 一真(司教)
井上 見淳(司教)
他数名
このたびご消息として発布された「新しい領解文(浄土真宗のみ教え)」(以下、「新しい領解文」)について、勧学・司教有志の会は、まず「声明(一)」では、特にその第一段落について、宗祖親鸞聖人のご法義に重大な誤解をもたらすおそれのあることを指摘した。続く「声明(二)」では、「新しい領解文」という名称そのものや、この文章を聖教として扱うことの問題性について指摘した。この「声明(三)」では、第二段落〈師徳〉について、「ご門主さま」というお立場を傷つけかねないことを指摘しておきたい。
これもひとえに
宗祖親鸞聖人と
法灯を伝承された 歴代宗主の
尊いお導きに よるものです
この一段は二〇二一年四月一五日に発表された「ご親教(浄土真宗のみ教え)」には存在しなかった部分であり、「新しい領解文」として発布されるにあたり挿入された部分である。
まず本段の冒頭には「これ」という指示語が存在しているが、「これ」が何を指すのかが明確ではない。第一段落は、その末尾に「仏恩報謝のお念仏」という文言が添えられているものの、内容的には阿弥陀如来の救いのはたらきを述べようとしたものになっている。したがって「これ」が指しているのは、その阿弥陀如来の救いのはたらきと受け取るのが普通の読み方であろう。しかしながら阿弥陀如来の救いのはたらきを指して、それがひとえに親鸞聖人と歴代宗主のお導きによると繋げるのは、ご法義に照らして不適切である。親鸞聖人と歴代宗主のお導きにより阿弥陀如来が救済活動をおこなうわけではないからである。今回、「新しい領解文」がこれだけの物議をかもしているのは、宗意安心上における危険性もさることながら、こうした文章の構造的な問題による理解しにくさにもある。
またこの一段で、宗祖親鸞聖人と歴代宗主を並列的に扱っている点も極めて危険である。歴代宗主には、ご門主さまも含まれることになる。つまり本段の内容からいえば、本願寺派は、宗祖親鸞聖人とご門主さまとを同一視していると受け取られても仕方がない。その問題は、従来の「領解文」の〈師徳〉の段と比較してみると一層明らかとなる。従来の「領解文」では、
この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人(親鸞)御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。
とあるように、「この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと」について〈師徳〉が述べられている。すなわち具体的には前段で示されている自力を捨てて他力に帰する〈安心〉と、その上での〈報謝〉の称名という法義の領解を指している。その領解をみずからがいただいていることを受けて、まず宗祖親鸞聖人の「御出世の御恩」が示されているのである。それは宗祖が九〇年のご生涯をもって、いかなる行を修めても執われの心を離れることが出来ない凡夫の姿をお示しになり、その自力無功の凡夫こそが如来の本願の目当てであることを教えてくださった御恩にほかならない。そして何よりも『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)を著して、立教開宗してくださったことの御恩である。
また、宗祖のみ教えを私に伝えてくださった「次第相承の善知識」の御恩については、「御開山聖人の御出世の御恩」とは別に示されていることも重要な点である。「善知識」とは、ご法義をよろこぶ一人ひとりが、みずからにお念仏を伝えてくださった大切な方々を思うことのできる言葉であり、直接的には歴代宗主に限定する言葉ではない。しかし「次第相承の」という文言が添えられていることによって、出言する私たちが、おのずと法灯を護り伝えてくださった歴代宗主のご恩を思い浮かべることができるように表現されているのである。
それにひきかえ「新しい領解文」では、何を受けて〈師徳〉が示されているのかが不明瞭である。しかも宗祖と歴代宗主とに限った形で〈師徳〉を併記したことにより、ご門主さまの名のもとに発布されるご消息において、ご門主さまが親鸞聖人とみずからとを尊い導き手として同一視されているようにも読めてしまう。
我々を含め、全国各地の僧侶、門信徒の方々がこれまで「ご門主さま」という存在を心から敬慕してきたことは言うまでもない。しかしながら、そのことを当代のご門主さまの方から、「ご消息」として、このように語らせてしまうようなことはあってはならない。
このような文章が、十分な検討を踏まえることなく挿入され、ご門主さまの名のもとに「領解文」として発布されることで、どれほどご門主さまを傷つけ続けることになるのかを、本願寺総局は思い至らなかったのであろうか。そのことに私たちは深い悲しみを覚える。速やかに「新しい領解文」を取り下げ、真にご門主さまを尊ぶ姿勢に立ち戻るべきである。
最後に、この声明文は本願寺派の勧学・司教有志により発するものであるが、その「志」(こころざし)とは、ご法義を尊び、ご門主さまを大切に思う、愛山護法の志であることはいうまでもない。
合掌
二〇二三年 四月二二日
浄土真宗本願寺派 勧学・司教有志の会
代表 深川 宣暢(勧学)
森田 眞円(勧学)
普賢 保之(勧学)
宇野 惠教(勧学)
内藤 昭文(司教)
安藤 光慈(司教)
楠 淳證(司教)
佐々木義英(司教)
東光 爾英(司教)
殿内 恒(司教)
武田 晋(司教)
藤丸 要(司教)
能仁 正顕(司教)
松尾 宣昭(司教)
福井 智行(司教)
井上 善幸(司教)
藤田 祥道(司教)
武田 一真(司教)
井上 見淳(司教)
他数名