センター試験「倫理」の設問で、毎年、どのような仏教(真宗)の問題が出るか楽しみにしています。今年も、いくつか出ていました。
第2問―問5
仏教では、人間は愛するものと必ず別れねばらないという苦しみを有しており、それが四苦の一つである。
西原祐治コメントー回答は×です。四苦八苦の八区の方に入るからでしょう。そうだとは思いました。
第二問―問7 下線部面に関して,ブッダの示した修行方法である八正道についての説明とし、最も適当なものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
①「正語」とは,ブッダの語った言葉を正しく記憶することである。
②「正見」とは,清らかで正しい生活を送ることである。
③「正精進」とは,肉食を避け正しく食事を取ることである。
④「正定」とは,正しい瞑想を行い、精神を統一することである。
西原コメント―回答は④だそうです。私も当てました。次の設問は、難しい。
問8 下線部(h)に関して,次の文章は,大乗仏教における「菩薩」の行うべき実践についてプッダが説いたとされているものである。ここで述べられていることについて,大乗仏教の思想を踏まえて説明した文章として最も適当なものを,下の①~④のうちから一つ選べ。
菩薩の道を志したものは,ここでつぎのような考えを起こさなければならない。……「彼ら(衆生)すべてを,私は,涅槃の世界に引きいれなければならない。しかもなお,たとえそのように無数の衆生を涅槃:に導いたとしても,実はいかなる衆生も涅槃にはいったのではない」と。
それはなぜかというと,もしも菩薩に衆生という観念が生ずるならば,彼を菩薩と呼ぶべきではないからである。それはまたなぜか。もし彼(菩薩)に自我という観念が生ずるなら,あるいは衆生という観念,命あるものという観念,個我という観念が生ずるなら,彼を菩薩と呼ぶべきではないからである。
(「金剛般若経」より)
① 菩薩はまだ仏ではないため,衆生の固定的実体をすべては把握できない。それゆえ,菩薩は、衆生を導く働きを放棄し,自分の悟りの完成を目指して努力すべきである。
② すべての衆生は,いかなる固定的実体ももってはいない。そのことを理解したうえで,菩薩は、導く自分にも導かれる衆生にも執着することなく,衆生を涅槃へと導くべきである。
③ 菩薩はまだ仏ではないため,衆生の固定的実体をすべては把握できない。それゆえ,菩薩は,まずは自分にとって身近な衆生から徐々に涅槃へと導くよう努力すべきである。
④ すべての衆生は,いかなる固定的実体ももってはいない。そのことを理解したうえで,菩薩は,まずは自分が悟りを開き仏となり,その後,衆生を涅槃へと導くべきである。
西原コメント―なんとか正解しました。回答は②だそうです。
第三門―問2
問2 下線部(5)に関して,天台宗の僧侶であった源信の説明として最も適当なものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
① 諸国を旅し,井戸や池を掘り,阿弥陀仏の名をとなえながら野原に遺棄された死者を火葬して歩き,阿弥陀聖と呼ばれた。
② 日本において往生を遂げたとされる人物の伝記を集め,『日本往生極楽記』 を著し,後世の往生伝や説話集に,大きな影響を及ぼした。
③ 念仏をとなえれば誰でも往生することができると説き,行き合う人々に念仏札を配りながら諸国を遊行し,捨聖と呼ばれた。
④ 極楽浄土や地獄について述べた書物を著し,浄土に往生するためには,阿弥陀仏の姿を心に思い描く必要があると説いた。
西原コメントー回答は④、難なくクリアー。
以上、26年1月のセンター試験倫理から。
第2問―問5
仏教では、人間は愛するものと必ず別れねばらないという苦しみを有しており、それが四苦の一つである。
西原祐治コメントー回答は×です。四苦八苦の八区の方に入るからでしょう。そうだとは思いました。
第二問―問7 下線部面に関して,ブッダの示した修行方法である八正道についての説明とし、最も適当なものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
①「正語」とは,ブッダの語った言葉を正しく記憶することである。
②「正見」とは,清らかで正しい生活を送ることである。
③「正精進」とは,肉食を避け正しく食事を取ることである。
④「正定」とは,正しい瞑想を行い、精神を統一することである。
西原コメント―回答は④だそうです。私も当てました。次の設問は、難しい。
問8 下線部(h)に関して,次の文章は,大乗仏教における「菩薩」の行うべき実践についてプッダが説いたとされているものである。ここで述べられていることについて,大乗仏教の思想を踏まえて説明した文章として最も適当なものを,下の①~④のうちから一つ選べ。
菩薩の道を志したものは,ここでつぎのような考えを起こさなければならない。……「彼ら(衆生)すべてを,私は,涅槃の世界に引きいれなければならない。しかもなお,たとえそのように無数の衆生を涅槃:に導いたとしても,実はいかなる衆生も涅槃にはいったのではない」と。
それはなぜかというと,もしも菩薩に衆生という観念が生ずるならば,彼を菩薩と呼ぶべきではないからである。それはまたなぜか。もし彼(菩薩)に自我という観念が生ずるなら,あるいは衆生という観念,命あるものという観念,個我という観念が生ずるなら,彼を菩薩と呼ぶべきではないからである。
(「金剛般若経」より)
① 菩薩はまだ仏ではないため,衆生の固定的実体をすべては把握できない。それゆえ,菩薩は、衆生を導く働きを放棄し,自分の悟りの完成を目指して努力すべきである。
② すべての衆生は,いかなる固定的実体ももってはいない。そのことを理解したうえで,菩薩は、導く自分にも導かれる衆生にも執着することなく,衆生を涅槃へと導くべきである。
③ 菩薩はまだ仏ではないため,衆生の固定的実体をすべては把握できない。それゆえ,菩薩は,まずは自分にとって身近な衆生から徐々に涅槃へと導くよう努力すべきである。
④ すべての衆生は,いかなる固定的実体ももってはいない。そのことを理解したうえで,菩薩は,まずは自分が悟りを開き仏となり,その後,衆生を涅槃へと導くべきである。
西原コメント―なんとか正解しました。回答は②だそうです。
第三門―問2
問2 下線部(5)に関して,天台宗の僧侶であった源信の説明として最も適当なものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
① 諸国を旅し,井戸や池を掘り,阿弥陀仏の名をとなえながら野原に遺棄された死者を火葬して歩き,阿弥陀聖と呼ばれた。
② 日本において往生を遂げたとされる人物の伝記を集め,『日本往生極楽記』 を著し,後世の往生伝や説話集に,大きな影響を及ぼした。
③ 念仏をとなえれば誰でも往生することができると説き,行き合う人々に念仏札を配りながら諸国を遊行し,捨聖と呼ばれた。
④ 極楽浄土や地獄について述べた書物を著し,浄土に往生するためには,阿弥陀仏の姿を心に思い描く必要があると説いた。
西原コメントー回答は④、難なくクリアー。
以上、26年1月のセンター試験倫理から。