仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

光 風のごとく⑬

2011年07月26日 | 日記
拙著『光 風ごとく』(探究社刊)より

まま

どうにもならぬままが
私(わたくし)のこんにちあるく
道でございました

[榎本栄一]『煩悩林』(難波別院刊)より。

仏道には、二通りの道がある。一つは〝どうにかしよう、どうにかしよう、どうにかしたい〟と自分を励まし理想を追求する道。この道は未来に希望を見ていくという社会の常識にマッチして受け入れやすい。

もう一つの道は、〝どうにもならぬ、どうにもならぬ、どうにもならぬ〟と、自分の理想を放棄していく道。この道は、〝どうにかしよう、どうにかしよう〟という捉われから解放されていく道だ。この道は〝そのままでいいんだよ〟と私のすべてを受け入れてくれる阿弥陀さまの慈しみの中に、自分を捨てていく道です。




わづかなるにわのこ草のしら露をもとめてやどる秋のよの月

[西行法師(さいぎょうほうし)]『山家集』より。

[一一一八~一一九〇]平安後期の僧・歌人。諸国を行脚して歌を詠む。家集『山家(さんか)集』ほか。

月の光は、草の白露の上にも大海の水面にも、また濁った水たまりにも厭うことなく、月の全体の姿を宿す。それは草や水たまりが生み出す月の姿ではなく、ひとえに月の光の働きによる。
私は、水や空に、重力、太陽の光、大地など無条件の恵みの中に生きている。これが第一の恵みです。私はといえば、それらの恵みに感謝することもなく、私という色メガネで生活している。その私を無条件に慈しみ、抱き取ってくださる阿弥陀如来が、「なんまんだぶ」の称名となって私のところに来てくださっている。月の光のように。これが第二の恵みです。身も心も無条件の中にあることの幸せを思う。
どんな楽しいことでも、それが失われるとき全てが虚しいものになってしまう。逆に、どんな辛いことでも、それによって何か素晴らしいことと出会ったとき、辛かったことが意味を持ってくる。
かといって、辛いことより楽しいことを望むのが人の世の常。この人の世の常を唯一の価値観として生きる人を、裁けるほどの徳はない。そんな私なればこそ、常に私を肯定し意味づけていくことの難しさが思われる。仏道とは、「人として生まれて良かったなあ」と思えるものとの出会いの道です。
コメント
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