仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

慈しみという仏さま

2011年07月11日 | 仏教とは?
自身の慈しみ(愛)に癒されるということがあります。10数年前、目がご不自由であるWさんと会話をした時のことです。
会話の中でWさんが「目が見えなくなったのは、子どもが一人前になってからでよかった」と何気なく言われたことがあります。私はその言葉の中に、親が子を思う優しさによって、親自身が救われていく世界があることが思われました。目が見えなくなったのは、今であって良かったという頷きです。

 私も同様な体験があります。二番目の子どもが一歳になる前、私はジンマシンになったことがあります。身体中の皮膚が赤く興奮し、かゆくてかゆくて眠れない夜を過ごしました。明け方のことです。傍らに寝ている幼児を見ながらふと、「もしこのジンマシンが、言葉のないこの幼児であったらどうだったか」と思いました。その時「私であって良かった」という思いと共に、私に安眠が訪れたのです。

 子どもへの慈しみ。その慈しみによって潤うのは、子どもの側です。しかしそれだけにとどまらず、慈しみを発した私が、その慈しみによって救われていく。「この子でなくて良かった」とかゆいという症状を受け入れた私。「子どもが一人前になってからでよかった」と、現実を受け入れているWさん。共に子どもへの優しさによって自分が救われています。

 慈しみや優しさは、他者への働きかけですが、慈しみや優しさを発した自分が潤っていく。何とも不思議なことになっています。
それは慈しみという働きこそが仏さまであり、仏さまであるが故に自他ともに救われていくのでしょう。(続く)
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