仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

仏教の有用性

2010年01月21日 | 都市開教
日本航空の会社更生法の適用申請と企業再生支援機構の支援決定(22.1.19)の報道があった。ふと「優良な大企業がつぶれると困る人が多いからなー」と思った。その次に「浄土真宗本願寺派がつぶれても政府はなしのつぶてだろうし、社会的には門信徒以外は困る人はいないだろうなー」とも思った。
それが契機となって「人の役に立つとは一体なんだろ」と考えた。宗教法人の社会貢献が叫ばれるし、宗教の有用性が曖昧になっている時代でもある。

そのことを考えるには「役に立つと何か」を見定める必要がある。「役に立つ役に立たない」で思い浮かぶ言葉は「無用の用」だろう。ネットの辞書には「『老子(ろうし)』や『荘子(そうじ)』にみえる中国の道家(どうか)思想の術語。役にたたない実用性のないようにみえるものに、実は真の有益な働きがある、ということ」とある。階段の足跡以外のスペースや、音符と音符の間の空白などのことを指すようだ。結局のところ、無用の用は「役に立つことがよいこと」との価値観に立っている。

また役に立つことでも、薬害のようにその時は有益であっても、長い目で見ると害であったということもある。本当に役に立つことの見定めも必要だろう。
仏教は「役に立たないこともある」ことを積極的に認めていく考えだ。というよりも「役に立つ、役に立たない」という小さな価値観に縛られているところに人の苦しみがあるといったところだろうか。
「役に立つ、役に立たない」をネットで検索したら、どこかに書いた私の文章があった。これはある本に社会の差別についた書いた私の文章です。

 死は敗北のいう観念は、いのちの価値を有用性(役に立つ)に見る価値観がら生まれています。いのちの価値も物の価値と等しく、役に立つ、有益であるという観点からのみ量られ、老人や病人は、役に立たない存在であり、自身がそうした状況に陥ることは不幸なことであるという考え方です。老病死のいのちに対する排除の価値観、それが老病死への差別です。
 浄土真宗の教えは、消えゆくいのちの終わりであっても、そのいのちが見捨てられることなく阿弥陀如来の慈悲に摂取される。すなわち仏に成るという意味づけされた存在であるという、いのちの尊厳を明らかにしてくれる教えです。終末期におけるいのちの尊厳への差別は、生命倫理の問題と共に、今後ますますクローズアップされていくことでしょう。(以上)

これはものすごく長い文章の一段にすぎません。死の差別、あまり聞きなれない言葉ですが、浄土真宗以外は多くこの考え方を取り入れています。
たとえば靖国神社は、国家に有益な死に方ををした人を祭ります。ここに死の差別があります。良い死に方といった考えや、浄土宗のような生前の行為の如何によって、浄土に生まれる人と生まれない人がいるという考えも、広い意味で死の差別化です。

浄土真宗は死を差別しない考え方(弥陀の本願)に、意識が開かれていくことなので、死を差別していません。むしろ死を差別しない考え方を拒否する(不信)人は、その拒否する考え方によって、自らを死の差別の闇に貶めると説きます。

役に立つ立たないから、大分離れてしましました。浄土真宗の社会にとっての有用性(役に立つ)は、役に立つ立たないという損得の考え方でない価値観があることを社会に伝えることと、損得の価値観に巻き込まれて傷ついた人の苦しみに対処することだろう。それが門信徒以外の人に対して、どれだけ実行され、そのメッセージが伝わっているかは疑問です。
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