昨日は当寺の仏教講演会と新年会でした。講師は手弁当で住職。
お話は社会や悲しみ苦しみといったできごとを、私がどう意味づけていくか。そこに無限の可能性がある。しかし浄土真宗は、阿弥陀如来が私を浄土に生まれていく命であると意味づけてくださる教えである、といったところでした。
1988(昭和63)年ころであったか、仏教情報センターの相談員をしていた。オウム真理教が事件を起こす前で、オウム真理教被害者の会合が、オウムで出家してしまった子どもの父兄の方々が集まり、情報センターの事務室で開かれていた。私の何度か出席し、またひとりですが救出に関わったことがあります。
父母の集まりでは、主に母親でしたが、出家者は個室に閉じ込められ、大音流のボリュームで尊師の言葉を聞かされ続けるなどの話が出ていた。その時は、オウムの反社会的な動静は闇の中にあり、また宗教の性善説という常識がありました。だから父母たちの話を聞いていて、心理的には親よりも子どもたちの方が真実とは何かに向かい合っているので、正しいという思いがありました。
そして10年して自己啓発セミナーが流行しだした。これも仏教の立場からか考えると、方向的には「自己とは何か」を問う営みなので仏教的には否定しづらいものがあります。
出家するという人の思い、その出家を志す者の親の悲しみ、オウムの被害者の会で感じたことが、未解決のまま今に至っているようです。
自己啓発セミナーの団体は内容に似たり寄ったりですが、自己の成長が金儲けの手段となったときの危険性をはらんでいます。
自己啓発セミナーは、大方3段階の内容となっています。生まれてから身につけてきたビリーフ(価値観・考え方、執着や人生観)から解放されて、自分自身の個性や可能性を発揮して、ハイになって生きることを目指すものです。そのためにレクチャー(講義)と実習(体験学習)で、古い自分の殻を脱皮する体験学習を積み重ねていきます。
こうした自己啓発セミナーの体験や私が思い違いをしていたオウム真理教の若き出家者の動機づけと、仏教や浄土真宗が提供しようとしているものとが、何が相違し何が同じなのかを整理する必要があります。
村田静照和上(故人、浄土真宗僧侶)に次のような言葉があった。正確な言葉は本の中にあるのですが、いま記憶の中にある言葉でいえば「欲捨てよと説き、拾うて歩くは寺の住職」といった内容でした。
自我からの解放を説く集団とお金儲けが結びつくと危険だということです。これはお金でなく思想信条でも同じことです。
ビリーフからの解放は、苦悩や苦悩の原因である執着といった克服すべきものがはっきりしていないと、ビリーフからの解放は社会性を失ったり、人間関係が壊れたりして、自己満足という個性を持て余してしまうことになります。
真宗でいう「機の深信」という自分を否定する側面が伴わないと、悟りに執着するように、成長の概念そのものが有害なものとなってしまいます。有害か無害か。判断の基準は動機付けが自己満足かどうか。達成された成長には自己を否定する要素があるかないかです。
お話は社会や悲しみ苦しみといったできごとを、私がどう意味づけていくか。そこに無限の可能性がある。しかし浄土真宗は、阿弥陀如来が私を浄土に生まれていく命であると意味づけてくださる教えである、といったところでした。
1988(昭和63)年ころであったか、仏教情報センターの相談員をしていた。オウム真理教が事件を起こす前で、オウム真理教被害者の会合が、オウムで出家してしまった子どもの父兄の方々が集まり、情報センターの事務室で開かれていた。私の何度か出席し、またひとりですが救出に関わったことがあります。
父母の集まりでは、主に母親でしたが、出家者は個室に閉じ込められ、大音流のボリュームで尊師の言葉を聞かされ続けるなどの話が出ていた。その時は、オウムの反社会的な動静は闇の中にあり、また宗教の性善説という常識がありました。だから父母たちの話を聞いていて、心理的には親よりも子どもたちの方が真実とは何かに向かい合っているので、正しいという思いがありました。
そして10年して自己啓発セミナーが流行しだした。これも仏教の立場からか考えると、方向的には「自己とは何か」を問う営みなので仏教的には否定しづらいものがあります。
出家するという人の思い、その出家を志す者の親の悲しみ、オウムの被害者の会で感じたことが、未解決のまま今に至っているようです。
自己啓発セミナーの団体は内容に似たり寄ったりですが、自己の成長が金儲けの手段となったときの危険性をはらんでいます。
自己啓発セミナーは、大方3段階の内容となっています。生まれてから身につけてきたビリーフ(価値観・考え方、執着や人生観)から解放されて、自分自身の個性や可能性を発揮して、ハイになって生きることを目指すものです。そのためにレクチャー(講義)と実習(体験学習)で、古い自分の殻を脱皮する体験学習を積み重ねていきます。
こうした自己啓発セミナーの体験や私が思い違いをしていたオウム真理教の若き出家者の動機づけと、仏教や浄土真宗が提供しようとしているものとが、何が相違し何が同じなのかを整理する必要があります。
村田静照和上(故人、浄土真宗僧侶)に次のような言葉があった。正確な言葉は本の中にあるのですが、いま記憶の中にある言葉でいえば「欲捨てよと説き、拾うて歩くは寺の住職」といった内容でした。
自我からの解放を説く集団とお金儲けが結びつくと危険だということです。これはお金でなく思想信条でも同じことです。
ビリーフからの解放は、苦悩や苦悩の原因である執着といった克服すべきものがはっきりしていないと、ビリーフからの解放は社会性を失ったり、人間関係が壊れたりして、自己満足という個性を持て余してしまうことになります。
真宗でいう「機の深信」という自分を否定する側面が伴わないと、悟りに執着するように、成長の概念そのものが有害なものとなってしまいます。有害か無害か。判断の基準は動機付けが自己満足かどうか。達成された成長には自己を否定する要素があるかないかです。