仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

宗教の公益性

2010年01月23日 | 都市開教
昨日、宗派(本願寺派)の出版社から送られてきた本願寺新報に「宗教の公益性」について、教団人のコラムが掲載されていた。(以下記事抜粋)

「宗教の公益性」とは

では私たちの宗門において、「公益性」をどのように考えるべきでしょうか。
 宗門の最高法規である「宗制」では、この公益という概念を「貢献」という言葉を用いて、「本宗門は、その教えによって、本願名号を聞信し念仏する人々の同朋教団であり、あらゆる人々に阿弥陀如来の智慧と慈悲を伝え、もって自他ともに心豊かに生きることのできる社会の実現に貢献するものである」と提示しています。ここで表現された「社会」とは、同朋教団のめさす社会ということですから、「御同朋の社会」であるといえます。御同朋の社会とは、「基幹運動総合基本計画」では「それぞれのちがいを尊重し、ともにかがやくことのできる社会」であると表現されています。 この「宗制」の「貢献」という言葉にに基づいて考えると、まさに御同朋の社会をめざすことが、浄土真宗の公益性の発揮ということになるのだと思います。(以下略)

なんとも杓子定規コメントを書くものだと思った。同時に、現実社会と本願寺教団のメッセージのかい離、これが現教団の病巣だとも思った。そして、鎌倉中期、仮名まじり文で書かれた. 仏教説話集である 『沙石集』の一節を思い出した。少し正確を期すために本箱にある『沙石集』を開いた。

「律学者の学と行と相違せること」という中に

子どもが生きた魚を水ですすいで煮えたぎった鍋に入れた。坊の主は「よし、よし良くやった」という。弟子の僧が火を焚きながら「これは犯戒には、なんという戒にあたりますか」ときく。坊の主の僧は「声聞戒には、滅罪できる罪、波逸堤(はいつだい)といい、菩薩戒では教団を追放されるほどの罪である波羅夷(はらい)といいます」。

そんな逸話です。戒律の学問は明晰だが、実技は散々で、学と行が伴っていないと僧侶の姿勢を作者の無住禅師は茶化している。

学と行のかい離は、すでに750年前の僧侶集団から続いている病根だということであろう。

理想と現実とのかい離、それが宗門の抱えている問題であり、私もその渦中にある。
コメント
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