昨日、今日と早朝は氷点下の気温だった。以前、朝一番の称名念仏のとき、今まで念仏を称えていなかったことを思うと書いた。大方、歩き始めてすぐ称名するが、称名して称名していなかったときのことを思うことは不思議な感じがする。
昨日は歩き始めると景気のいいオナラがでた。そのとき称名と同じように、今までオナラしていなかったことを思った。少し理屈っぽくなるかもしれないが、歩きながら生きていることを実感することもある。もちろん生きていることを実感したときだけ生きているのではない。生きている実感を通して生きている身であること意識するにすぎない。
オナラをして、今までオナラをしていなかったことを思うことも、オナラをする身であることに思いが及ぶことでもある。同様に念仏して今まで念仏していなかったことを思うことは、念仏を称ええる身であることを思うことで、どうも口称にでる念仏が尊いのではなく、念仏を申す身であることが尊いようだ。
だから念仏を称えている時も称えていない時も、同じく念仏を称える身であることには変わりがない。念仏を称えることの中に、念仏を称える身であることを実感するにすぎない。こう頂くと念仏を称えていない時のわが身も尊く思えてきた。
昨日は歩き始めると景気のいいオナラがでた。そのとき称名と同じように、今までオナラしていなかったことを思った。少し理屈っぽくなるかもしれないが、歩きながら生きていることを実感することもある。もちろん生きていることを実感したときだけ生きているのではない。生きている実感を通して生きている身であること意識するにすぎない。
オナラをして、今までオナラをしていなかったことを思うことも、オナラをする身であることに思いが及ぶことでもある。同様に念仏して今まで念仏していなかったことを思うことは、念仏を称ええる身であることを思うことで、どうも口称にでる念仏が尊いのではなく、念仏を申す身であることが尊いようだ。
だから念仏を称えている時も称えていない時も、同じく念仏を称える身であることには変わりがない。念仏を称えることの中に、念仏を称える身であることを実感するにすぎない。こう頂くと念仏を称えていない時のわが身も尊く思えてきた。