集団的自衛権行使容認が閣議決定された7月1日の晩、一気に読み終えたのがこの漫画です。
「凍りの掌~シベリア抑留記」(おざわゆき著)は、第16回文化庁メディア部門新人賞を受賞した漫画。作者の父親の体験がもとになってできた作品です。
昭和20年1月、東京の大学の予科に通っていた作者の父は出征。名古屋を出発して兵庫で訓練を受けます。それもたった2週間で終り、行き先を知らされないまま博多へ。途中列車の窓を開けることは禁止されていたのですが、彼は窓の隙間から「開けてはならぬ理由を」垣間見ます。それは、沿線の都市の空襲の跡。真実を国民に知らせないまま、どんどん戦争を拡大していったのです。そして船に載せられ釜山へ。満州のハルピンを過ぎ、さらに北上して真冬の2月末、北満州の関東軍の兵舎に入ります。
彼らは補充兵としてつれてこられたのですが、当地にいたのはわずかな兵だけ。日ソ不可侵条約をたのみにしていた関東軍は、「将校以下すべて」を南のレイテに投入していたのです。わずかな訓練のみで、しかももったいないからと実弾の射撃訓練をしていない初年兵と、二ヶ月後にやってきた古参兵だけを、敵国との国境近くの警備に残しておくとはおどろきです。
そして8月9日、ソ連軍が突如侵攻。彼らはソ連軍に捕まり、捕虜としてシベリアに送られます。収容所までの広大な原野をひたすら歩かされた彼らは、「絶望の入り口に飲み込まれるよう」な恐ろしさを味わいます。
捕虜に支給する食料はなく、ソ連兵は荒れた農園のような場所を指差すだけ。そこで兵隊達はカチカチのジャガイモを掘り出し、生で食べさせられます。収容所到着後も、食事は、黒パン一切れに高粱のおかゆが1日2回だけ。氷点下30度というのに、暖房はほとんどなく、夜具は毛布二枚。この劣悪な環境で重労働を強いられるので、当然栄養失調で捕虜は死にます。
彼が最初にいた収容所では、この年、半数が犠牲となったそうです。酷寒でも病舎や兵舎にはしらみがいます。ベッドに寝かされていた病人がなくなったとたん、病人の体中にたかっていたしらみがぞろぞろと宿がえをはじめる光景を主人公は目撃します。
「病院の死亡者は(中略)解剖に舞わされる。頭をまっふたつにしてその中も調べる。終わったら裏山の白樺林に埋められるのだ。(中略)オレらは・・・白樺の肥料になりに来たんか・・・」どんなにつらくても、希望があれば我慢できるでしょうが、絶望しかないときは、つらさにおしひしがれそうになるとおもいます。
その後、収容所を転転とするのですが、しだいに、共産主義教育が収容所の捕虜に対してすすめられるようになります。スターリンへの賞賛の言葉を口にしないと帰国できないといううわさが立ち、中国の文化大革命のときのように、同輩をつるし上げ自己批判させる日々がつづきます。
シベリアの捕虜の悲惨さは、過酷な環境の下での重労働を強いられたというだけでなく、旧日本軍の上下関係をそのまま温存して、捕虜同士で統制させたところにもある、という話を聞いたことがあります。つまり、戦争に勝つためという大義がなくなってからも、上官によっての理不尽なしうちは存在し続けたのです。
しかし、つらいのはそれだけではなかった。仕事場への行きかえりに、日本の流行歌や唱歌を全員で唱和するのがわずかな慰めだったのに、それも、「インターナショナル」や「赤旗の歌」を歌うことを半ば強制されます。唯一ロシア語が話せて、捕虜の待遇改善に尽力した元記者?は、人民裁判にかけられ、半死半生の目にあいます。
4年後、突然帰国命令が下ります。しかし、ナホトカにつくまでに、「(共産主義にそわない)反逆者は選別され」「そわない連中はまたここで強制労働に逆戻り」するので、気が抜けません。そしてようやく日本の船に乗船。
昭和24年11月、船は舞鶴港に入港します。日本は戦後の混乱が落ち着き始めた頃なのですが、彼らシベリア抑留から帰ってきた人たちは、今度は「アカ」とみなされて就職できなくなります。他国で捕虜になった人もふくめて、復員兵には補償金が出たのだそうですが、抑留者は「終戦後は捕虜とはみなされない」とされて、補償金がもらえなかったことも、今回知りました。
そして、1956年、日ソ共同宣言が採択。その際、両国は倍賞請求権を互に放棄します。
裁判所に提訴した抑留者もいたそうですが、原告側の敗訴がつづいたということです。
つい、ながながと紹介しましたが、ほんわかとした軽いタッチの漫画なのに、描いてある現実はとても重い。単純な描線ががかえって想像力をかきたてるのか、つらさが直接しみこんでくるような気がしました。
作者の父は、娘に聞かれるまで、妻に対してすら抑留時代の話はほとんどしなかったそう。尋ねられて初めて思い出したことなどもあり、封印しないでいられないほどの非常につらい記憶だったことがわかります。
抑留という言葉すらしらない世代が増えている現在ですが、せめて、簡単に読めるこうした漫画で、ひどかった時代があったことを知ってほしいとおもいます。
本の帯に、ちばてつやがこう書いています。
「暖かく、やさしいタッチのマンガ表現なのに そこには「シベリア抑留」という氷点下の地獄図が深く、リアルに、静かに語られている。日本人が決して忘れてはいけない暗く悲しい67年前の真実。次代を担う若者たちには何としても読んで貰いたい衝撃の一冊。」
同じ作者で、名古屋の空襲を扱った作品があり、ただいま1冊だけ単行本が出ています。続編の刊行が待たれます。
「凍りの掌~シベリア抑留記」(おざわゆき著)は、第16回文化庁メディア部門新人賞を受賞した漫画。作者の父親の体験がもとになってできた作品です。
昭和20年1月、東京の大学の予科に通っていた作者の父は出征。名古屋を出発して兵庫で訓練を受けます。それもたった2週間で終り、行き先を知らされないまま博多へ。途中列車の窓を開けることは禁止されていたのですが、彼は窓の隙間から「開けてはならぬ理由を」垣間見ます。それは、沿線の都市の空襲の跡。真実を国民に知らせないまま、どんどん戦争を拡大していったのです。そして船に載せられ釜山へ。満州のハルピンを過ぎ、さらに北上して真冬の2月末、北満州の関東軍の兵舎に入ります。
彼らは補充兵としてつれてこられたのですが、当地にいたのはわずかな兵だけ。日ソ不可侵条約をたのみにしていた関東軍は、「将校以下すべて」を南のレイテに投入していたのです。わずかな訓練のみで、しかももったいないからと実弾の射撃訓練をしていない初年兵と、二ヶ月後にやってきた古参兵だけを、敵国との国境近くの警備に残しておくとはおどろきです。
そして8月9日、ソ連軍が突如侵攻。彼らはソ連軍に捕まり、捕虜としてシベリアに送られます。収容所までの広大な原野をひたすら歩かされた彼らは、「絶望の入り口に飲み込まれるよう」な恐ろしさを味わいます。
捕虜に支給する食料はなく、ソ連兵は荒れた農園のような場所を指差すだけ。そこで兵隊達はカチカチのジャガイモを掘り出し、生で食べさせられます。収容所到着後も、食事は、黒パン一切れに高粱のおかゆが1日2回だけ。氷点下30度というのに、暖房はほとんどなく、夜具は毛布二枚。この劣悪な環境で重労働を強いられるので、当然栄養失調で捕虜は死にます。
彼が最初にいた収容所では、この年、半数が犠牲となったそうです。酷寒でも病舎や兵舎にはしらみがいます。ベッドに寝かされていた病人がなくなったとたん、病人の体中にたかっていたしらみがぞろぞろと宿がえをはじめる光景を主人公は目撃します。
「病院の死亡者は(中略)解剖に舞わされる。頭をまっふたつにしてその中も調べる。終わったら裏山の白樺林に埋められるのだ。(中略)オレらは・・・白樺の肥料になりに来たんか・・・」どんなにつらくても、希望があれば我慢できるでしょうが、絶望しかないときは、つらさにおしひしがれそうになるとおもいます。
その後、収容所を転転とするのですが、しだいに、共産主義教育が収容所の捕虜に対してすすめられるようになります。スターリンへの賞賛の言葉を口にしないと帰国できないといううわさが立ち、中国の文化大革命のときのように、同輩をつるし上げ自己批判させる日々がつづきます。
シベリアの捕虜の悲惨さは、過酷な環境の下での重労働を強いられたというだけでなく、旧日本軍の上下関係をそのまま温存して、捕虜同士で統制させたところにもある、という話を聞いたことがあります。つまり、戦争に勝つためという大義がなくなってからも、上官によっての理不尽なしうちは存在し続けたのです。
しかし、つらいのはそれだけではなかった。仕事場への行きかえりに、日本の流行歌や唱歌を全員で唱和するのがわずかな慰めだったのに、それも、「インターナショナル」や「赤旗の歌」を歌うことを半ば強制されます。唯一ロシア語が話せて、捕虜の待遇改善に尽力した元記者?は、人民裁判にかけられ、半死半生の目にあいます。
4年後、突然帰国命令が下ります。しかし、ナホトカにつくまでに、「(共産主義にそわない)反逆者は選別され」「そわない連中はまたここで強制労働に逆戻り」するので、気が抜けません。そしてようやく日本の船に乗船。
昭和24年11月、船は舞鶴港に入港します。日本は戦後の混乱が落ち着き始めた頃なのですが、彼らシベリア抑留から帰ってきた人たちは、今度は「アカ」とみなされて就職できなくなります。他国で捕虜になった人もふくめて、復員兵には補償金が出たのだそうですが、抑留者は「終戦後は捕虜とはみなされない」とされて、補償金がもらえなかったことも、今回知りました。
そして、1956年、日ソ共同宣言が採択。その際、両国は倍賞請求権を互に放棄します。
裁判所に提訴した抑留者もいたそうですが、原告側の敗訴がつづいたということです。
つい、ながながと紹介しましたが、ほんわかとした軽いタッチの漫画なのに、描いてある現実はとても重い。単純な描線ががかえって想像力をかきたてるのか、つらさが直接しみこんでくるような気がしました。
作者の父は、娘に聞かれるまで、妻に対してすら抑留時代の話はほとんどしなかったそう。尋ねられて初めて思い出したことなどもあり、封印しないでいられないほどの非常につらい記憶だったことがわかります。
抑留という言葉すらしらない世代が増えている現在ですが、せめて、簡単に読めるこうした漫画で、ひどかった時代があったことを知ってほしいとおもいます。
本の帯に、ちばてつやがこう書いています。
「暖かく、やさしいタッチのマンガ表現なのに そこには「シベリア抑留」という氷点下の地獄図が深く、リアルに、静かに語られている。日本人が決して忘れてはいけない暗く悲しい67年前の真実。次代を担う若者たちには何としても読んで貰いたい衝撃の一冊。」
同じ作者で、名古屋の空襲を扱った作品があり、ただいま1冊だけ単行本が出ています。続編の刊行が待たれます。
一昨日見た韓国映画「マイウェイ」でも、抑留生活のようすが登場しました。凍傷が見つかると、そくざに殺されるシーンが。捕虜を労働力としてしか見ていないから、病人を生かすつもりはないのです。すさまじい話です。