ハッカー伝言板改めえむびーまんの日記帳(山本隆雄ブログ)

日本コンピュータクラブ連盟・日本霊能者連盟・日本占い師連盟各理事長・メイドリラク萌とカードカルト経営者 山本隆雄の日記帳

本日は50年間東住吉区に住んでいるに一度も行ったことのなかった阿麻美許曽神社(あまみこそじんじゃ)へ。おみくじは42番末吉。東住吉区最南端へ。

2021-05-29 22:43:58 | 神社・仏閣めぐり

本日は、天気が良いのでどこかに行きたくなりました。
50年間東住吉区に住んでいるのに行ったことのない神社。大和側の南側。松原市に食い込んでいる阿麻美許曽神社へ。当然、自転車で。
電車で行くには、今川駅で近鉄南大阪線に乗り、針中野、矢田、を経て、河内天美へ。そこから徒歩となります。
大和川以南は、松原市と思われていますが、この神社の周辺と参道の片側だけは、東住吉区矢田となっています。

近鉄電車に沿ってなんか、矢田地区をこわごわ通過。矢田駅以南の近鉄線路沿いの矢田を通るのは、生まれて初めてです。

そして、大和川へ。

近鉄南大阪線の鉄橋。一昨年だったか、大雨でずれて、近鉄南大阪線が2日間不通。MSNニュースなどネットニュースでは、どこも、連日トップで。が、地方蔑視のNHKニュースでは、全国ニュースで一度も扱われることなく、ローカルニュースだけで。もし、多摩川にかかる鉄橋が同じことになったら、NHKでは、連日トップニュースで報道していたはず。
大阪市南部では、NHKに受信料を支払っていると近所に知られると非国民扱いを受けます。

下高野大橋を通ります。

橋を渡って坂を下ると阿麻美許曽(あまみこそ)神社がありました。
松原市で最大の人口5万人を数える天美地区。その天美の地名の元となった神社です。

以下は、松原市のサイトから。

18 阿麻美許曽神社と渡来人

阿麻美許曽神社の画像

本殿前の一対の狛犬台座に「天見山」「阿闍梨快道之代」(文化4年9月)の銘があり、神仏習合がわかる

天美の地名の由来となった氏神社

 河内天美駅を出た近鉄電車が大和川を越える手前、西側を見るとうっそうとした森が目に入ります。それが阿麻美許曽神社です。

 同社は下高野街道に面し、鎮座地は大阪市東住吉区矢田ですが、松原市天美地区の城連寺・油上・芝・池内の氏神です。天美という地名も阿麻美許曽に由来すると思われます。

 「許曽」とは珍しい呼び名です。その語源は、朝鮮半島の古代国家新羅の言葉からきたようです。「許曽」は新羅で祭祀や神社の森を意味します。新羅神話によると、神社の起源は、新羅の初代王赫居世を祀る祖神廟からおこったと伝えています。赫が名で、居世はその治世をさす尊称ですが、この居世がなまって「許曽」となったといわれています。

 「許曽」名をもつ神社は、全国に百数十社を数えます。各社は朝鮮半島から来た渡来人が、自分たちの祖先を祀って創祀したものが多いと考えられます。 阿麻美許曽神社は、延喜式内社で、社伝によると平安時代初期の大同年間(806~809)の創建と伝えていますが、その由緒はもっと古いでしょう。

 7~8世紀ごろ、天美地区は河内国丹比郡依羅郷とよばれ、依羅連という氏族の居住地と想定されます。依羅連は、「新撰姓氏録」(9世紀初頭成立の氏族名簿)によると、「その祖先は、(朝鮮半島の)百済の国人で素禰志夜麻美君である」と記しています。
 つまり、依羅連は朝鮮半島からやってきた渡来系氏族でした。同氏の祖先とされる素禰志夜麻美君の「夜麻美」がなまって「阿麻美」となり、現在の「天美」に転化したと推察されます。元来、依羅連の祀った氏神が阿麻美許曽神社の創祀と考えることができるでしょう。

 同社は素戔鳴命を主神とします。一説には、この神は、飛鳥時代の斉明天皇2年(656)、新羅の牛頭山から京都祇園の八坂神社に移されていましたので、牛頭天王ともよびます。

 境内には、明治初年まで天見山の山号を持つ神宮寺がありました。廃仏毀釈で寺は廃されましたが、今でも同寺山門は境内出入口となっており、神仏習合の景観がしのばれます。

 手洗舎の東側には「行基菩薩安住之地」の石碑が建っています。確証はありませんが、天見山宮寺に奈良時代の僧、行基が居住していたという伝承が江戸時代ごろからあります。行基は、百済系渡来人の高志氏(堺市家原寺が本貫地)の出身であること。さらに、行基の師僧である道昭が丹比郡の人で、百済系渡来人の船氏の出身であることから、百済系渡来人の依羅連と結びついたのでしょうか。

 今も同社西側の大和川に架かる橋を行基大橋と呼ぶのも、こうした行基居住伝承が残るからです。行基は、「行基年譜」によれば松原近辺に狭山池院や石原布施屋を造り、布教や社会事業を広めたのでした。

 
 

以下は、東住吉区のサイトから。

003 阿麻美許曽神社

2020年12月17日

ページ番号:32765

神社は矢田村の氏神であるので、大和川の付替後にも松原市に属さず、松原市天美西3丁目と天美北7丁目の間にある370mの道路(旧府道26号線)は、象の鼻のように細長く、現在も東住吉区矢田7丁目とされています。矢田村氏神の参道として残されているのでしょう。旧狭山西除天道川は、この参道の東側をジグザグに北上していたと思われますが、大和川の開削後は干拓されて元の川は西除川として浅香山の方向に付け替えられています。
現在の祭神は素戔鳴尊、天児屋根命、事代主命と一般に知名度の高い神様が並んでいますが、金剛寺本では1座とあり、主祭神名は不明です。
式内社調査報告書(河内国編)、381頁によれば、「神名帳考證」を引用して、主祭神を「中臣の祖、大小橋命の子で阿摩比古命(アマノヒコノミコト)であろう」と推定しています。
須牟地寺や中臣須牟地神社が中臣氏に縁が深いことからもわかるように、この辺りが中臣家の支配地であったこと、および神社名の許曽は尊称を意味することから、「アマノヒコを祭神とする説」は説得力があります。
一方、「河内国式神私考」によれば、舊事記に見える「彦己蘓根命(ヒコミソネノミコト)」とする説があり、「河内国造の祖で、丹比の天見丘に葬る」(春原政包日記)とあります。
この説の理由には、「物部氏が滅びた後に中臣氏がこの地を占拠し、祭神を阿摩比古命に入替えた可能性がある」ということにあるようです。
先代舊事本紀巻第十国造本紀には「神武朝期に河内国造に彦己曽保理命が任命された」と見えるので、この神社を物部系の神社に分類する人があり、そこで上記のような仮説が考えついたのではないかと考えられます。
拝殿は文久3年(1863年)建造のもので、本殿は独特の阿麻美造で昭和35年(1960年)に再建されました。 樹齢500年の楠木の群は大阪市条例で保存樹林に指定されています。
阿麻美許曽神社

手洗舎の東側に「行基菩薩安住之地」の石碑が建っています。 
 行基はその師の道昭とともに、民衆への伝道に力を入れました。   しかし、「行基の天美での滞在は行基年譜に見えない」ので、この石碑の裏付けが難しいともいえます。
一方、中臣須牟地神社伝承から、天神山(矢田北小学校や城南学園用地)に行基建造の呉坂院が建造されていたと考えるなら、天神山は当神社から北々東に僅か1.6kmであるので、この神社付近も行基が関与した可能性があるともいえます。

隙間から見える本殿。

おみくじは200円。自販機タイプで200円とるとこは初めてです。

社務所。いろいろなおみくじが300円です。相場より高いと思われます。

7福神みくじ。再度山大龍寺では100円ですが、

拝殿から真南を見ます。
参道の片側(東側)だけが、東住吉区で松原市に食いこんでいるのはテレビでよくやっています。

詳しくは阿麻美許曾神社があるのは、松原市?or 大阪市? - 南河内に何がある?|南河内の観光スポットを紹介 (travel-minakawa.com)

 

門の向かいの東側の家の住所は、東住吉区矢田です。

参道を挟んだ向かい(西側)の家は、松原市天美西です。

参道を南下。東側の住所は東住吉区矢田のままです。

このあたりまで、東住吉区矢田が松原市に食い込んでいるようです。遥か向こうの突き当りの森が神社。

神社に向かって戻りました。左手が神社。右手が下高野大橋へ行く道です。

下高野大橋を渡ります。向こうに見うるのは、行基大橋です。行基がこの辺に住んでいたからだそうです。

川を渡ってそのまま南下。
ふれあい温泉矢田の前へ。
もちろん行ったことがありません。
うわさによるとヤッターマン以外が利用すると、じろじろと見られるという事です。
本日は、機器の故障で休業のようでした。


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (アスペまさ)
2021-05-30 02:22:30
山本許曽準神様🇰🇷⛩🇰🇵
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Unknown (アスペまさ)
2021-05-30 14:43:45
1番目のアスペまさはパチモン
返信する

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