いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

直視すべきこと、心が洗われる目。 eyes cleanse the mind

2011-05-05 19:45:43 | 日記
 (1)①原発問題を題材にした著書もある人気作家が、「地震国」日本での原発の危険性を指摘し、必要性について否定意見を述べていた。
 ②経産省原子力安全・保安院は、東日本大震災による原発事故発生時に電源喪失のために原子炉内の状態を外部に伝える「緊急時対策支援システム」が機能しなかったことを、ようやく初めて公表し、担当責任者(審議官)は「地震による(電源)喪失はそもそも想定していなかった。今後どうしたらいいかを考えたい。」と言う。(報道)

 原発の安全性、問題に対するこの両者の認識のギャップの「対極的」ともいう大きな違いが、「社会良識」と「政策政治」のギャップそのものであり、政治が憲法に基づいて保障すべき国民の「安全」の程度、度合いのあまりの「低さ」を示すものだ。
 国民に開かれた政治、民主主義を唱えながら、政治は終始「国策」と引き替えに重要な肝心な「情報」は開示せずに、高度な専門分野の特異性のもとに身を隠して、勝手に独善的な野望政治の「犠牲」を国民に強いてきた結果だ。

 「社会良識」も一部、原発の安全性に問題を指摘しながら社会の有意性、有利性、有益性の国策のもとに「力」及ばすに妥協しても来た。
 しかし、東日本大震災が発生して原発事故が国民に犠牲の追い打ちをかけるその「責任」の重さは、比較しようもなく政治にあるのは言うまでもない。

 原子力安全・保安院審議官の地震国日本の「地震想定外」の発言には、真正直(keep straight)以上どう理解すべきなのか、原発同様に人間の思考も制御不能に落ち入らせるものだ。
 
 GDPは世界3位、教育力、先端科学技術開発力は高く、次世代型社会の社会資本整備にも前向きな、しかしこの日本の「現実」を直視(look straight)したいものだ。

 (2)被災地、避難所での子ども達の笑顔、ひたむきさの「目」に合うと本当に心が洗われる(eyes cleanse the mind)。
 特に、子ども達にとっては本当に自分たち「誰のせい」でもない、苛酷な犠牲を強いられていながら、その目は、そして多分「心」も、「誰も責めてはいない」かのようだ。いや、きっと誰をも責めてはいないはずだ。

 5月5日、被災地では両親を亡くした、不明のままの子どもがわかっているだけで132人、今後(願いたくもないが)増える可能性もあると言われる。

 誤解を恐れずに言うなら、実際に被災に遭って避難生活を強いられている人の身になれば政治、東電の対応、見識を責めるのは当然のことではあるけれど、5月5日だけでも「誰を責める」のでもない、立ち上がって自らの不幸に立ち向かう気力と意欲の「目」をせめて子ども達に向けてほしい。

 被災地でひたすら、大きく口をあけてパックのカレーを口にほおばる子どもの、ただ前を見た澄んだ心の「目」が救いだ。心が洗われる(cleanse the mind)。

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