まだむ日記

マダムの日常生活と大好きな旅行の日記です。

世界遺産・ポトシ銀山

2008-10-31 | 日常

 ポトシは標高4090Mにあり、人が住む都市としては世界最高地点である。

ポトシ銀山はスペイン統治時代は金、銀を多く産出していたが 19世紀になり枯渇

19世紀からはスズが大量に産出されている。 現在は鉱物資源の高騰により 活気を取り戻している。

スペインの統治下にあり強制的に集められたインディオの奴隷により採掘が行われたのである。

一説によれば800万人が犠牲になり 「人を食う山」 として恐れられたとも・・・。 

1989年世界遺産に指定されたが奴隷制度の象徴として 負の世界遺産 にも数えられている。

その 鉱山の見学であるが まず 鉱山の見学をするには 抗夫に手土産が必要である。

その土産とは コカの葉、タバコ、度数96度のアルコール等を専門のお土産物屋で買い求める。(ダイナマイトもあるがこれは危険だからやめる)

山の標高は更に高く4160Mでありゆっくり、ゆっくりの行動 そして空気を吸いまくる過呼吸である。

坑道に入るためにまず身支度をする。 赤いズボンに同じ赤い上着、赤いヘルメットに長靴を履き

腰にはバッテリーを縛りつけ(このバッテリーが重い)バッテリーからコードが伸びており

その先にランプ そのランプをヘルメットに取りつけ前をてらし、手に持った懐中電気で足元を照らしながら

坑内へ入っていきました。

スクレからポトシへ

2008-10-30 | 日常
 スクレを出発して一路銀山の町ポトシへむかいます。

途中グロリエタ城で写真ストップ 

この城 銀鉱山で富を得た人が豪勢な世界旅行をして世界のお城を見て歩き

自分もお城を・・・・と建てたものである。

良いとこ取り・・・というか 自分の好きな形、所ばかりを取り入れて作った城であるから

ユニークと言えば聞こえがいいが 寄せ集め的? 城である。

その城も今は住む人も無く荒れて 公的なものになっているが費用の都合で修理、補修ができないとか・・・

広大な屋敷は警察の訓練所になっており、あっちはカメラ駄目 こっちも駄目・・・と制約ばかりであった。

更に進むとスクレとポトシの県境のピルコマーヨ川に架かるメンデス橋で休憩

橋も美しいが 満開のジャカランタの美しさは格別であった。

ポトシまでは約4時間のバスの旅 毎日のっているこのバスであるが

なんとも面白い? バスである。

運転席と座席の間に仕切りがあり助手席側から階段を上がり中央のドアを開けて入る仕組みである。

座席はくぼんでおり お尻がスッポリ沈み込む深さである。

そこにきて 座席からは仕切りのため前方を見る事が出来ない。

その上ガタガタのオンボロバスであるから 排気ガスがモロに車内へ

空気が薄いため過呼吸をしなければならない・・・

排気ガスまじりの空気を 臭い~!臭い~!・・・と言いながら一生懸命吸うわけである。

誰もが 気分悪くなったがどうする事も出来ないのである。

そして走っているとしょっちゅうドアが座席側へバターンと開いてしまう。

添乗員かガイドが閉める役であるが、あまりにも度重なるため開けた状態にして紐で何処かに縛り付けていた。

日本の中古バスならこんなこともないのに・・・・と思うことしきりであった。



高地への準備・・・

2008-10-28 | 日常
 ディナーの後 明日から標高が高くなるのに備えて血中酸素濃度、脈拍を測って書き込む 健康手帳なるものを渡され記帳の仕方の説明である。

パルスオキシメーターで1日3~4回血中酸素濃度と脈拍を測り、その他 起床場所の標高、昨日の行動時間、

起床時間、睡眠状態・・・・それに 健康状態を約20項目に細かく答えて書き込む・・・

そして添乗員に渡すと彼が一人一人の身体の状態をチェックして返す・・・仕組みである。

お仲間の1人の男性が 夕食前に部屋で持参したウイスキーを飲んだと赤い顔・・・

皆が 標高3000M以下とは言え心配したがご本人様は「大丈夫!大丈夫!」と至ってごきげんである。

我が夫も好きなお酒を成田を発つからグッと我慢しているのに 彼は半端なお酒好きではないんだ~・・と思う。 

今回の旅は国が国だけに 旅行前に 

「高山病を理解して自分の責任で参加します・・・」の誓約書に署名捺印しての参加である。

いつもの旅はカードに付随の保険ですましていたが

今回は 高山病は疾病であり カード保険ではダメ・・・

高山病の病気治療、高山病で低い所へ下す時の費用(例えばセスナ機やヘリコプターをチャーターする費用)

高山病で死んだ時の死亡保険、死ななくとも後遺症が残った時の後遺症保険と保険ずくし? での参加である。

その他に 食べる酸素を食べ、高山病対策のくすり(これは緑内障の眼圧を下げる薬で利尿作用あり)を飲み、

腕にはゲルマニュウムのブレスレット、下着は身体を締め付けないダブダブ、ズルズルである。

ここまでくると 何でもござれ「イワシの頭も信心から・・・」でいいと言う事は何もかも・・・である。

(ボリビアの国章) 

スクレのスーパーマーケット

2008-10-26 | 日常
 タラブコから帰ったが まだディナーには早い

ホテルの近くのスーパーマーケットに行ってみた。

店は大きくて広いが人はまばらである。

この店では民族衣装の人は全く見かけない。ここへ買い物に来る人はスペイン系の人ばかりの様である。

原住民インディヘナ(インディオとも言うがこの呼び方は彼らを軽蔑している呼び方であ
り失礼、欧米人が日本人を軽蔑してジャップと呼ぶようなもの・・・)はこういう店では買い物をしないのである。

スーパーには何でも売られているが やはり海のない国、魚類は冷凍物がほんの少しあったのみであった。

パパイヤ、アボガドの大きさには驚きであった。パパイヤは日本の冬瓜くらい、

アボガドはマスクメロンを楕円形にしたくらいである。

いろんな国を歩いたが これ程大きいパパイヤ、アボガドを見たのは初めてである。

ホテルやレストランでのお茶は殆んど コカ茶 である。

ティーパックだったり乾燥した葉っぱがそのままカップに浮いていたりする。

マーケットにもコカ茶やコカとカモミールをブレンドしたティーパックが沢山売っている。

コカ茶はここでは日本の緑茶みたいなものである。

しかしコカの葉は麻薬の コカイン の原料であるから麻薬と同じ扱いで 日本への持ち込みは絶対禁止である。


タラブコの日曜市

2008-10-24 | 日常

 スクレから車で1時間半の所にタラブコ族(勿論インディヘナ)の村があり 毎週日曜日に開かれる日曜市が有名である。

ボリビア旅行は この日曜市に合わせて日程が組まれているが 

この日の明け方まで行われていたグアダルーペ祭の影響か 

日曜市に来ている現地の人々の出が少なく 賑わいにかけている・・・とか

町の通りや広場には農産物、生活用品、民芸品、民族衣装(ここの人には日常の衣類である)

等が売られている。

かっては物々交換であったが 今はそれは少なくなった・・・とのことである。

ビーズや刺繍で飾りがついたとても綺麗な帽子(未婚、既婚で飾りが違う)やタイヤ?チュウブ?

で作られたサンダル式の履物が印象的であった。

売る女性も、買い物に来た女性も民族衣装にカラフルなシマ模様の風呂敷に売るもの、買ったものを包んで

肩だすきにかけ胸の所で縛るスタイルである。(勿論 赤ちゃんや子供も同じやり方でおんぶ?である)

われわれ一団はあるおばさんの店でトウガラシの粉や桂皮を買った。

その売れ行きの嬉しい忙しさに「アイャー アイャー・・・」と言いながらニッコニコで袋ずめしていたが

この言葉 どこかの国でも聞いた事がある。

人間は嬉し 忙しの 時に出る言葉は国を問わず同じであるのだなぁ~・・・・と思った。

フクロウの置物を買った店のおばさんにボールペンをプレゼント・・・と差し出したが

字が書けないからいらない・・・と断られた。計算は早いのに・・・??(この国は義務教育がない)

日本では民族衣装である和服を着る人をほとんど見かけなくなったが ここでは着ているのが当たり前

民族衣装はいいなぁ~・・と眺め、私ももっともっと和服を着よう・・と思った次第でした。

ボリビア国の始まり

2008-10-23 | 日常
 睡眠不足のボーッとした頭で 観光に出発である。

昨日の賑わいは嘘の様に静か お祭りの公園は人影が無くひな壇だけが昨日の面影を残しているのみである。

賑わった中央公園に面した 自由の家 の見学です。

これは 1825年スペインから独立して シモン・ボリバルが アルト・ペルー国(今のボリビア国)

の独立宣言をした場所である。

その彼の名前に因んで ボリビア と言う名前の国にしたのである。

彼は海軍大将 と言うのもその以前は ペルーもボリビアも一つの国でありスペインの植民地

ペルー側に海があるから・・(その名残で今もボリビアには海は無いのに海軍があり、チチカカ湖で訓練している)

この自由の家は ボリビアの歴史を知る上で非常に重要な博物館でした。

独立宣言書(レプリカ)やその当時の議会場、そして独立戦争時の英雄の肖像画や

このスクレの町の由来ともなったアントニオ・ホセ・デ・スクレの功績などの品が展示されていました。

その左手がかっての大統領府(現在は県庁)その並びにカテドラル、自由の家の隣は市長舎と

スクレはボリビアにとって大変歴史的に重要な場所であった。

(独立宣言の署名が行われた議会場)
  左:アントニオ・ホセ・デ・スクレ
  中央:シモン:ボリバル
  右:ホセ・バリビアン

ホテルのベット

2008-10-21 | 日常

 スクレのホテルは 素敵であるが少し気になることがある。

それは ベットが偉く高いのである。

大げさに言えば 梯子をかけて上がらなければ・・・と思うくらいである。

とても 腰を下ろすことなど出来なくマットが腰の辺りに・・・

なぜこんなにベットが高いのか理解できない。

足の長い? 私は椅子を踏み台にしてベットに上がり下りした。

しかし 夜中酸素が薄いのと 花火がうるさいのとで目ばかり覚めトイレに頻繁に行くのであるが

ボーッとした頭であるから ベットが高いのを忘れて いつもの様にベットからずり降りる・・・

すると前につんのめって倒れたり、椅子で向こうずねをしたたか打ったり 散々であった。

スペイン人に合わせて?? いやスペイン人はそんなに背は高くないと思うが・・・

マットの厚さを計算しないで作ったのかな?? ベットを眺め考えてしまったホテルであった。



グアダルーペ祭

2008-10-19 | 日常

 今日はスクレで年に1回のグアダルーペのお祭りである。

サン・フェリペ教会見学の後は自由行動 ホテルからすぐ傍の中央公園へ

お仲間と3人でお祭りを見に出かけた。

凄い人出、着飾った男女、賑やかな楽隊の演奏 お祭り一色である。

道路の片側は高いひな壇の観覧席、反対側には椅子がびっしり 全て指定席である。
我々は 人をかき分け図々しく一番前の道路に座り込み見学する。

地域ごとなのか 1チーム20~30人ぐらいの団体で 男性の楽隊の演奏に合わせ チーム独自のコスチュームの

女性が踊るのである。踊る・・? といっても ステップを踏みながら腰を振るダンス?みたいなもの・・・

ほとんどのチームはスペイン系の人たちであるが インデェヘナばかりのチームもある。

そちらは ケーナ、サンポーニャの演奏で民族衣装の女性が踊る・・・と素朴である。

しかし この祭りキリスト教(カトリック)の祭り・・・

と言うことは スペイン人がこの地を植民地化してからのものと思われる。

それにしてもカラフルで綺麗(彼女たちの脚線が美しい) そして賑やかなこと

それも 毎年2日間の祭りが 内戦のため昨日は中止、今日1日だけとあり 盛り上がりが半端じゃないのだ。

その日は一晩中 いや翌朝まで花火が上がりっぱなし 耳元での花火 寝るに寝られず大変な夜であった。




サン・フェリペ教会

2008-10-18 | 日常

 ランチの後 午後の観光はサン・フェリペ教会である。

この教会はフランス系で修道院と学校も併設されている。

今日は土曜日学校はお休み静かである。広い中庭を囲むように一辺が修道院、一辺が教会

そして 学校等々が整然としている。

玄関ホールの脇の広くないスペースに 大きな絵 が飾ってあった。

この絵??? 何処かで見た絵?? どこかで・・・??

そうだ! この絵 映画「ダビンチコード」に出てきた絵だ~!!

最後の晩餐 の絵でキリストに寄り添っている女性はキリストの恋人・・・とか?

後の説明で やはりそうであった。

ここで この地で あの絵に出会えるなんて 凄い不思議を感じました。

狭く真っ暗な螺旋階段をのぼり教会・修道院の屋上から 360度見渡し

美しい世界文化遺産 スクレの古都 の家並みを心行くまで堪能した。

そうです、この白い街 スペインのアンダルシアを思い出させられる景色でした。



スクレのホテル

2008-10-16 | 日常

 レコレッタの丘から いったんホテルに入り ランチである。

このホテル250年前に建てられたものとの事であるが 新築? と思うくらいきれいである。

コロニアルスタイルの街並の一角にあるこじんまりとしたホテルは

入口は小さいが中に入ると 中庭を囲むようにして一部3階建のとてもオシャレな建物である。

壁面は真っ白、吹き抜けの通路や手すりには色とりどりの花のゼラニュウムの鉢植えや観葉植物が置かれたり

吊る下げられており 「素敵! きれ~い!」の連発であった。

部屋に入ると 全て木造りの上 重厚な彫り物のあるドアや窓、天井からのシャンデリアはさすが歴史を

感じさせられるものであった。

こんなホテルなら2泊だけではなく幾日も滞在したい気持ちである。

ランチのパスタ これがまた美味し~い! 最高~!
(聞けばこのホテルの料理は有名とのことであった)

食事の間も 添乗員は額や頬を氷で盛んに冷やしていた。 

「見た目はひどいですが大したことありませんから・・・」と言っているが 相当痛いと思われる。