まだむ日記

マダムの日常生活と大好きな旅行の日記です。

元ラダックの王宮

2010-08-31 | 日常
 
午後も遅く希望者だけでタクシーを頼んで昔のラダック王国時代の王宮を見学に行く。

王宮はレーの街を一望に出来る山の上にあるため ただでさえ標高の高い所であるから

タクシーを降りて坂や石段を上るのは息切れがする。

王宮はいまはチベット仏教の僧院になっておりタルチョ(お経を書いた小さな旗を繋げたもの)

が吹き上げる冷たい風にはためいていた。

何処から来たのか1匹の犬が何人もお仲間がいるのに 何故か我々夫婦にペッタリくっついている。

何かが欲しいのか? 何も無く飴が2~3個あるのみ、

その飴をあげると 美味しそうに食べる、またやる また美味しそうに・・・

Γもう無いよ・・・!」と両手を横に振るとその場にペタリと横座りして涼しそうな顔をしていた。

言葉と言うより 人間の心を読み取るのであろうか。

昔 トルコで遺跡観光していた時も今回の様に犬が何処までも着いてきたので

Γお座り!」と言うとチョコンと座る、歩きだすとついてくる。

Γお座り!」と言うとまたチョコンと座る、何べん繰り返しても同じである。

Γついてきても 何にもないよ」と言って両手を横に振ったら 

くるりっと向きを変えトコトコと行ってしまったことがあった。

言葉(日本語)が分かるはずはない、やはり心を読むのであろう・・・・と思う。



レーの街の散策

2010-08-29 | 日常
 午後は自由行動ということで 夫と連れだって街へ散策に出た。

小さな街であるから歩いて充分回ることが出来る。

まず 郵便局へハガキを出しに行く。

インドはポストに投かんしたら手紙は、まず絶対と言うくらい届かない。

ラダックの人情ではそんなことは考えられないが心配するより確実を考え

郵便局へ行き目の前で消印を押してもらった。これで安心。

レーの銀座通りなる所へ行ってみたが、この時期は観光客は全くない季節ということで

殆んどのお店は閉まっている。

そんな中 開いている店を見つけた。

カシミヤに刺繍をしたストール等の店、やったー! 大好きなストールの店である。

早速店に入ると停電中で薄暗くローソクを灯しての商売である。

超ハンサムな店主は この季節にカモが来たー! と言わんばかりに愛そう抜群

今回 両替したお金はこの日までお店らしいお店が無かったため殆んど残っている。

カシミヤに刺繍したストールがネパールで買った時より安い、

ヨーシ 気合いをいれて見立てよう・・・・

しかし店内は暗く あれこれと表に持ちだして色を確かめる、

黒と思ったら紺色だったり その逆だったり・・・・

お友達のお土産にもと結局6枚買ってしまった。

タンスの中には一体全体何十枚あるのやら数が分からないくらいあるが

それでも買うのである。

包んでくれた6枚のストールを抱えて店を出ようとすると

店の主人が 見えないように隠して持つように・・・とのこと。

リュックにギュウギュウ詰めにしてホテルに帰ったが 

何故? 不用心なの? それは分からず終いであった。




レーに戻る

2010-08-26 | 日常

最後の花見をして 途中時間があったのでニムー村で一休みしてチャイ休憩、

お茶の他 サモサとほうれんそうとポテトのてんぷらが出た。

タレの様なものをサモサやてんぷらに付けて食べるのだとかで 

そのたれををつけて口に入れたら ひぃ~~! 口の中が火事状態、もの凄く辛かった。

ラダックの料理は 辛い物は殆んどなかったが中には辛い物があることを知る。 

ラダックの中心地レーは、デリーから飛行機できて最初に降り立った所、

ラダックの中でもここレーが一番標高が高いので身体が馴染んだ最後の滞在と言うわけである。

今晩のホテルはラダックに着いて最初にひと休みしてお茶したホテルである。

そのホテルの庭のあんずの蕾は固かったが 6日振りで戻ると2分?3分?咲きくらいになっていた。

このあんずがの花が 今回の旅の本当に最後の花ということである。

そして ランチを最後にガイドのパルダンさんともお別れということで

最後の昼餐は お礼の言葉やらで話は尽きなかった。







アルチとお別れ

2010-08-24 | 日常

相変わらずホテルの寒い夜であったが

今日はアルチともお別れとなると 寒さなんて何処へやら 名残惜しいというか寂しいものである。

ホテルのオーナーが 干しあんずと杏の種をお土産に・・・と皆に隠してそっと渡してくれた。

あんずの木は沢山あって沢山の実を収穫する様であるが

彼等にとっては大切に、大切に食べる貴重な食料のようである。

それを こうしてそっと渡してくれる・・・・胸がキューンとする。

我々夫婦は この旅のために用意した厚手のパジャマや厚手のセーター、日本の菓子類

日本の小物類等をたーくさん置いていくことにしたら 大変喜んでくれた。

別れは辛く お互いの国の言葉で別れを言うがサッパリ通じない。

でも心ははシッカリ通じていることを痛感する。

ホテルとも別れ くじ引きで決まった車に乗り レーに向かって出発する。

レーまでは80キロ 道路も良いので途中脇道に入り最後のお花見をすることにした。

そのゲラ村も Kさん絶叫の吊り橋つきのお花見である。

この村のあんずの花は 散り桜ならぬ 散りあんず、我々の出発を惜しむかの如く

はらはらと散っていた。と言っても桜の様に花びらが散るのでなく、花が房ごと散る。

本当に沢山の村を巡り とても、とても沢山の花を見た。

何回も言うが この美しさをいくら沢山の言葉を並べても表現出来ないのが残念である。

この美しさをシッカリ脳裏に焼き付けて、大切な思い出とすることにする。 


懐かしいアルチのホテル

2010-08-21 | 日常


 ホテルの夕食は 春巻き、野菜団子、焼ソバ、我々の口に会う食事でホッとする。

私にはマトンの肉は胃にもたれてどうにも馴染めない。

その点 ここのホテルの料理は本当にありがたい。

ホテルの食堂の壁には 年に1度はこの村にも訪れるという

ダライ・ラマ14世と村人達、勿論このホテルのオーナーも写っている写真が掛けてあった。

ダライ・ラマ14世と言えば チベットを思い出すことがある。

ダライ・ラマ14世が1959年インドへ亡命した後 次のダライ・ラマを選ぶ時

チベットが選んだ子どもは消えてしまい、中国側が擁立した子どもが

その地位に着いたのは誰もが知っていることであるが

漢民族の我々のガイドに そのことを質問したが何も応えてくれなかった。


チベットで後継者の選び方(ダライ・ラマ14世の時)

1935年7月6日、チベット北部アムドのタクツェルの小さな農家にて9人目の子供として生まれた。

なお 生家は小農であったが、地主に従属する小作人というわけでもなかった。

貴族階級でもない。わずかな土地を人に貸し、自分達でも大麦、ソバ、トウモロコシなどを栽培しており

ゾモというヤクと牝牛の雑種を5~6頭、80頭あまりの羊や山羊、2~3頭の馬、2頭のヤクを

飼っていたいたという。

生家はチベットならどこにでもあるなんの変哲もないありふれた民家だったという。

幼名はラモ・ドンドゥブとなずけられた。これはΓ願いを叶えてくれる女神」という意味である。

見知らぬ人を少しも怖がらぬ子だったと、母親は後に語ったという。

3歳になるかならないかという頃、ダライ・ラマの化身を見つけるためにチベットの政府が

派遣した捜査隊が、さまざまなお告げに導かれてクムブム僧院にやってきた。

お告げのひとつは、1933年に死去したダライ・ラマ13世の遺体が埋葬前の安置期間中に

頭の向きを北東に変えたこと。

他には、高僧が聖なる湖で湖面にAh、Ka、Maのチベット文字が浮かび上がるのをΓ視た」

続いて 青色と金色の屋根の3階建ての僧院とそこから一本の道が丘の上につづいている

映像をΓ視た」、そして最後に変な形をしたΓ桶」のある小さな家をΓ視た」ことだという。

僧は Ah 地名アムドの A だと確信して捜査隊をそこへ派遣したという。

Ka の文字はクムブクの K に違いないと思ってクムブクにやってきた捜査隊は

クムブクの僧院が青くて3階建てであることを発見してその読みが正しかったと確信する。

捜査隊は付近の村を探し回り、やがて屋根にこぶだらけの杜松が走っている民家を見つけた。

捜索隊は身分を隠していたのにそこに含まれていたセラ僧院の僧を「セラ・ラマ」と呼んだという。

また、ダライ・ラマ13世の遺品とそれそっくりの偽物をいくつかその子供に見せたところ、

いずれも正しい遺品のほうを選び「それ、ボクのだ」と言ったという。

上にあげたようないくつかの確認の手続を経てさらに他の捜索結果も含めて政府が厳密に審査した結果、

この子は3歳の時に真正ダライ・ラマの化身第13世ダライ・ラマトゥプテン・ギャツォの

転生と認定され、ジェツン・ジャンペル・ガワン・ロサン・イシ・テンジン・ギャツォ

(聖主、穏やかな栄光、憐れみ深い、信仰の護持者、智慧の大海)と名付けられた。


アルチへただいま~

2010-08-19 | 日常

3日振りに、ラダックでの最初のホテルへ戻ってきました。

ホテルのオーナー夫妻は玄関に出てΓおかえり~」とハグで迎えてくれた。

日本での生活ではハグをしないが、ここでは何の抵抗もなく出来るものである。

お土産のパンはもの凄く喜んでくれた。

アルチの村には2軒のお店やさんがあるが売っているものは本当に限られた品だけ

物珍しくてお店やさんを覗いて見たが 欲しいものは何もない。

見るだけでは悪いと思い、100ルピー分飴を買った。

店のご主人が幾つものガラス瓶に手を突っ込みあれこれ出しては数える。

どうも 50~60個を茶袋にいれてくれた。

それを持って散策していたらかわいい子供たちが・・・早速プレゼントする。

子供たちの喜び様を見ると いつもはなかなか飴も口にしていない様子である。





僧院の小僧さん

2010-08-17 | 日常

 心も身も軽くなり気分爽快。

小僧さん達が勉強しているところを見学するとのことで

また坂を上った別棟に・・・・

建物の中に入ると5歳~10歳くらいの13人の子供たちが

粗末な自分のベットの上でそれぞれ本を広げ口々にブツブツ何かを唱えている。

今はお経の勉強の時間とか、広げている本を覗いたがチンプンカンプンであった。

昔はもの凄く多くの子供が僧院で生活していたが、今は世の中を知るすべがあるため

厳しい修行をしてお坊さんになる子供が少なくなったとか。

優秀な子供はいい教育を受け都会に出てしまうし、

僧院に入る子供はあまり優秀ではい・・・・様なニュアンスであった。

チベット仏教のお坊さんは厳しい戒律をキチッと守り 

生涯厳しい生活をするわけであるから余程の覚悟がないと・・・らしい。

それに比べ 日本のお坊さんはお酒は飲み放題、肉食妻帯、贅沢三昧、と何でもアリでいいですよね。


僧院のトイレ

2010-08-15 | 日常

 ランチが終わり部屋の脇にあるトイレを借りた。

民家のトイレには ヤクの糞の乾燥したのが置かれていたが僧院のトイレには灰が置かれていた。

そうか 僧院にはヤクがいないので灰を・・・な~るほどと納得する。

部屋を出て 僧院の中の見学の頃から どうもお腹の調子が お か し い 。

ランチをした部屋のトイレをお借りようと 戻ってみたがガッチリ大きな南京錠が掛けられている。

いや~まいった、 人影は無い 僧院のあっちの棟、こっちの棟と探しまくり

入口らしき所を片っ端から叩いてみたり、大声をあげて呼んでみたりしたか

反応ゼロ、♪どーすりゃいいの~よ♪ 思案橋♪ 状態。

犬をつれたおじさんが来たのでトイレは何処? とジェスチャーと言うか仕草で尋ねたが

首を傾げて去ってしまった。

外人らしきカップルがいたので英語の単語を並べて尋ねたがΓ知らない」とつれない返事。

脂汗が流れ出てくる状態、もうダメ・・・・お腹の中の大蛇が暴れまくっている。

その時 パルダンさんが案内が終わり出て来たので大慌てで案内してもらう。

そこは なんと観光客専用のレストラン、大変立派な水洗トイレがあるではないか

ふぅぅぅぅ~~~ 間に合った。 ホッとしてへたり込んでしまう位であった。




ラマユル僧院

2010-08-13 | 日常

車は峠をしばらく下ると ラマユル僧院が見えてきた。

山の斜面に造られた僧院は幾棟にもなっている大きな僧院である。

この僧院はかってパルダンさんも修行した僧院で 今、彼の友人が偉いお坊さんとなり

この僧院にいて 子供たちの先生もしているとか。

僧院に着くと その友人のお坊さんの部屋(と言っても独立した建物)の部屋を借りて

ランチをとる。

ホテルが用意してくれ持参したランチボックスとパルダンさんの友人が入れてくれたお茶、

添乗員さんが用意してくれたおにぎりと日本から持参したえのき茸と春雨のスープ(インスタント)

の熱々が出た。

やはり 日本食が一番、おにぎりとお茶とスープでお腹いっぱいである。

残ったランチボックスは この僧院で寝泊まりして勉強している

貧しい家の子供たちのおやつにするとのことで、皆の手を付けなかった品々をキレイにまとめた。

きっと 彼らにとっては久し振りのご馳走かそれとも初めて口にするご馳走であろう。

贅沢の極めつけの日本では考えられない話である。











峠のタルチョ

2010-08-11 | 日常

 ムルベクを出発して間もなくガソリンスタンドで5台の車が給油をしたが

軽油1リットル39ルピー、日本円に換算すると約80円 ラダックの収入から考えると

とんでもなく高い料金である。

いくら高くても 車どころかネコ車もない生活の人々には全く関係ない代物である。

車はナミカ・ラ(ナミカ峠)標高3720m、フォトゥ・ラ(フォトゥ峠)標高4029mで

車をとめて写真ストップしたが、何れの峠にもタルチョ(お経が書かれた小さな旗を繋げたもの)が

峠を吹き抜ける冷たい風にはためいていた。

チベットの峠と全く同じ眺め、自分が今一体何処にいるのか?? 不思議な感覚である。

ここはラダックであるが昔はラダック王国という独立した国であった。

チベットとは、お隣同士で宗教、生活習慣、服装、等同じの国であったが

ラダック王国はインドが、チベット王国は中国が・・・。

今は、近くてとても遠い国ということである。