旅限無(りょげむ)

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『坊っちゃん』危篤!

2006-03-28 14:49:42 | 日本語
■山籠もり中ではありますが、知人からの連絡で、四国松山の学生が漱石の『坊っちゃん』を読んでいないという調査結果が有るという衝撃的な事実を知りまして、新聞記事を調べて見ましたら、本当でしたぞ!何と調査対象となったのは愛媛県立松山東高校ではありませんか!私事ながら尊敬するK先生が奉職なさっている高校でもあり、1895年4月から漱石が英語を教えた『坊っちゃん』の舞台となったと考えられている学校ですから、これは本当に衝撃的であります。読売新聞の記事を引用します。

夏目漱石が教鞭を執り、『坊っちゃん』の舞台となった愛媛県立松山東高(旧制・県尋常中)の1年生のうち、同作を読んだ生徒は約4割で、約10年前の約7割を大きく下回っていることが、市民でつくる「松山坊っちゃん会」(頼本富夫会長)のアンケートでわかった。19日、松山市であった「坊っちゃん」100年記念愛媛大学シンポジウムで報告された。

■或る人の言葉に、「名作を読む目的は、それは読んだと言う為である」というような物が有りましたなあ。トルストイの『戦争と平和』だのロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』だののバカ長い名作でも、友人との会話の中では「ああ、それは読んだよ」の一言で済んでしまうものですが、この一言でだらだらと無駄話をする時間を節約出来るものです。どれ程不埒(ふらち)で下世話な冗談を言い合って笑っていても、読むべき本を読んでいる友や、自分が読もうと思いつつも読破していない名作を読んでいる友との交流は、人生を豊かにしてくれますし、相手の心の中を少しばかり理解する助けになるものです。

■それは音楽や美術作品にも言える事で、たとえ身近に音楽ホールが無くても、有り難いことに技術の進歩で各種の音楽ソフトや映像ソフトが簡単に入手出来るようになっているのですから、昔に比べれば格段に優れた作品に接する苦労は無くなったような物です。大都市でしか観られない演劇も、テレビやビデオ映像などで楽しめるのも有り難いところです。優れた職員と議員に恵まれている地方なら、公立図書館にさえ行けば見事な画集や映像・音楽ソフトが揃っていますから、貧富の差も余り大きな問題では無くなっています。しかし、理論的には日本人の教養と知識は再現も無く向上して行くはずなのですが、現実はそうは成らないのが不思議ですなあ。

■拙著『チベット語になった「坊っちゃん」』の収蔵状況を調べようと、全国公立図書館検索サイトで執拗にトレースしてみると、地域間格差の大きさに愕然とします。毎年、200万円の「図書購入費」が公布されているのに、何処かの地方自治体ではほとんど図書資料などには使わずに、訳の分からない予算に流用されている事が指摘されてはいましたが、検索サイトの画面に次々と現れる市町村立図書館の立派な「建物」に感動して所蔵内容を調べると、何とも貧弱で住民の皆さんの知識と教養は大丈夫だろうか?と心配になってしまう場所が、驚いたり呆れたりするほど多いのです。

■平成の大合併の大混乱の後、もう誰も「地方の時代」などと言わなくなったようですが、このまま地方「分権」となってしまったら、碌な蔵書の無い高価な図書館の「建物」が虚しく並ぶ知的廃墟があちこちに出現しそうですなあ。いざ、自分の教養に危機感を覚えて駆け込んだり、新聞や雑誌では分からない事を調べようと足を踏み入れても、さっぱり知識が深まりもせず拡がらないような、名ばかりの図書館が林立していても、まったく意味は無いでしょうなあ。それぞれの土地柄に合った他では御目に掛かれない貴重な資料を蒐集(しゅうしゅう)している図書館も有る一方で、最近話題になって短期間で消えて行くと分かり切っている本を熱心に集めているだけの所も有りますぞ。

■出版不況の中で、やっとヒット作を生み出してみたら、さっさとベスト・セラーが何冊も公立図書館に収まって、売れるはずの本が売れない!と出版社は悲鳴を上げています。その一方で、一生の間に読んでおくべき本、年齢相応に読み直し続けるべき本が揃っていない貧弱な図書館が増えて行くことになるでしょう。残念ながら、ベスト・セラーの中で5年後も読者を集める本は殆ど無いのではないでしょうか?憲法に「愛国心」を書き込むかどうかの不毛な議論をする前にやるべき事は多いようですなあ。


漱石は1895年4月から約1年間、同尋常中で英語を教え、ここでの体験をもとに「坊っちゃん」を書いた。アンケートは今年2月、1年生414人に実施。「全部読んだ」が168人、「部分的に読んだ」が137人で、「読んでいない」とした109人は「まったく興味がない」「身近に本がなかった」「読みにくい」などと答えた。

■比較的短い作品である『坊っちゃん』を「部分的に読んだ」という学生は、出だしだけは読んだという事なのか、それとも、あんなにテンポの良いストーリー展開を、途中で投げ出したという事なのでしょうか?それは考え難いですなあ。自分の良心に反する「読んだ」とウソは言えないものの、「読んでいない」と答えるのは情けない、そんな躊躇(ちゅうちょ)が先行しているような気がします。「読んでいないた」理由が、このアンケートの価値を高めてくれますぞ。「まったく興味がない」と正直に答えた109人の生徒諸君に感謝します。どんどん薄くなり続けた国語の教科書は、古典や伝統的な名作の影が薄い内容なのですから、見事に「ゆとり」教育世代らしい開き直り現象を暴露してくれましたなあ。

■「読みにくい」と答えた生徒の中に、食わず嫌いとしか思えない思い込みが浸透している事が透けて見えますぞ。もっと正直に、「昔の本だから、きっと漢字が多いだろう。漢字なんか読めないよ」と答えてくれると、もっと調査の価値が上がりましたなあ。国語教育を専門的に研究している学者の中にも、文科省の中にも「漢字撲滅」を生涯の仕事だと信じ込んでいる人が居るのですから、若い日本人が「日本語」の能力を減退させるのは、彼等が大喜びする事なのです。何とも恐ろしい話です。漢字は小中学校時代に記憶の基礎を作っておかないと、後が大変です。「格差社会」を強固にしようとする隠された目的を持って発動された「ゆとり教育」政策ですから、漢字の重要性を知っている親を持つ子供と、うっかりしていたり、本当に仕事で草臥れ切って学校に任せ切っている親を持つ子供との間には、生涯埋められない亀裂が入ります。間も無く、漢字は専門の機関で有料サービスを受けないと身に付かない時代になるでしょう。

■「身近に本がなかった」と答えた生徒は、自分の家には本らしい本が無い!と保護者の責任を言い立てているのかも知れませんが、学校の図書館や公立図書館に足を向けない自分を恥ずかしく思った方が良いでしょうなあ。そもそも、どうして本を読むのか?と考えて見れば、世間に対して恥ずかしい、これが最初の動機となるでしょう。子供社会のイジメにも通じる仲間意識を生み出して強化する共同感覚には、共通の体験と言葉と情報が不可欠です。ですから、残念ながら「朱に交われば赤くなる」の諺通り、仲間に恵まれないと人生を棒に振ることになりますなあ。ろくな本も読んでいない、下手をすると漢字も扱えないような「トモダチ」と付き合わねばならなくなった子供は悲劇です。「あの本読んだか?」と声が掛かる仲間を持つかどうかで、人生の入り口が決められてしまうのは恐ろしい事ですが、それが現実でしょうなあ。

■本を読んでいる大人や教師の姿や言動に「カッコよさ」を感じた子供は、本に手が伸びますし、思春期から20歳までに決定的な読書体験をした人間はずっと本を気にして生活するようになるようです。名作の中には、この時期にしか手を出せない作品が多いので、本当は周囲が急かして上げた方が良いのですが、残念ながら読書経験の無い大人にはそんな助言は無理ですなあ。長い間、漱石の『坊っちゃん』は、絵の無い本として生涯で最初に読破した作品の第一位の地位を独占していたものです。それさえも読んでいない日本人となると、その中には本らしい本を読まずに、競馬新聞とパチンコ必勝法と不埒な漫画しか目玉と脳味噌を通過しないような悲しい人生を送る人も含まれるのでしょうなあ。人に生まれ、日本人に生まれついたのですから、『坊っちゃん』から始まる読書生活を送れないというのは、実に残念な話ですなあ。

■拙著にも書きましたが、チベットの山奥で、「漱石の『坊っちゃん』は面白いですね」と声を掛けられた日本人が答えに窮するようになったら御仕舞いですぞ!

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1 コメント

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福沢先生。 (じょりー)
2006-03-28 16:10:24
有名なんだけども読んだ事のない本・・・

福沢諭吉先生の「学問のススメ」もそれに近いかもしれませんね。

かくゆう私も、最近になって始めて読みましたし。



そう考えると致し方ないのかもしれません。



が、読み書きは勉強の基本ですので、子供にはしっかりとさせていきたいと思います。
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