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自分.3

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さて、どうでしょう?

ここまでで、「自分が存在している」という当たり前な事の不可思議さが、なんとなくでも伝わっておりますでしょうか?

この疑問の解釈がずれていると、この先どうにも話が噛み合わないままになってしまいますので、ちょっとしつこいぐらいに話を重ねていきたいと思います。

(なかなか先が見えない展開に、まどろっこしさを感じる方もおられるかもしれませんが、そんなアナタは、そういう寸止め状態に快感を覚えるぐらいの、立派なマゾっ子を目指してみるといいですよ☆)


と、いうことで、再度、僕が「不可思議だよね?」と問いかけている内容を整理しますと…

「自分」とは、『これが自分です。』と指し示す事ができるものなのか?

と言うことなんです。

「この“身体”が自分です。」とか、「この“脳”が自分です。」とか、「この“DNA”が自分です。」とか「この“意識”が自分です。」とか、「この“心”が自分です。」とか、これら全部なんか違和感ない?

って事なんです。

前回の続きを考えて、やっぱり「脳が自分」とか「DNAが自分」としてもですよ、どうやったって、その脳やDNAから「思い」や「感情」「喜怒哀楽」などを取り出して見ることが出来ないんですよ。

DNAに進化の情報が蓄積されているとしても、その蓄積された情報を元に、今こうして「自分とはなんぞや?」と問うているところの「自分」は何なんだ?ってことなんです。

「DNA=自分」なのだとしたら、僕のDNAを受け継いで生まれてきた竹彩は、イコール僕?

両親のDNAを受け継いで生まれてきた僕は、イコール両親?

それが「自分」って事でいいですか?


アタマを割って脳を見ることも、顕微鏡を覗いてデオキシリボ核酸を見ることもできますが、「それが自分なのか?」と問うているところの「自分」は見ることも触れることもできないんです。

また、

仮に「いやいや、やっぱり身体や脳やDNAが自分なのではなく、“意識”が自分なんだよ。」って事だとすると…

「じゃあ、例えば交通事故なんかで意識不明になった時、その人の存在自体はどこへ行っちゃうの?身体はあるけど、その人は“存在していない”って事でいいの?意識が戻った時、その人の存在(自分)は、一度無くなって、また新たに出来上がったってことなの?」

っていう、変な事になっちゃうし。


どうでしょう?

僕のこの「問い」自体の意味が通じてますでしょうか?



←あ。いや…寸止め?
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自分.2

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☆ちょっとウンチク☆

前回のコメント欄で、面白い書き込みをいただいたので、ご紹介させていただきます。

自分とは…

>「自ら」を「分け」たもの?
>「自ず」と「分かる」もの?

Σ( ̄Д ̄;)ハッ! どっちだろう!?

そう思いましてね、早速「自分」の語源を調べてみました。


【自分の語源・由来】

自分の「分」は、本来備わっている性質を意味する「本分」の「分」で、自らの力量をさす語であったが、古くから「私自身」を意味する言葉としても用いられた。

(参考元:語源由来辞典


へ~! そうだったんだ~。

「自分」とは…『自らに本来備わっている性質』

ふむふむ。これは面白い。

勉強になりました。<(_ _ )>


でも…pyoさんの『「自ず」と「分かる」もの』ってのも、なんだかしっくりくるよねぇ。


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さて、「自分」って、そもそも何さ?って事をテーマにお話を進めておりますが…

どう? 普段あんまり考えたこと無いかも知れないけど、考え出すと不思議でしょ? でしょ?

「身体=自分」で考えるのならば、あなたはすでに、この記事を読み出した時とは、別人になっているんですよ。

だって、この短時間のうちに、細胞はすでに生まれ変わってるんですから。
(人間の小腸の場合、1秒間に170万個の細胞が生まれ変わってるんだって。コレだけを見てもスゴイよね。)


こういう話をしても、

「いやいや、身体が自分じゃないと言うのはなんとなく分かったけどさ、でも、その細胞の生まれ変わりをコントロールしてるのは、やっぱり“脳”なワケだし、脳が無ければ「僕は何者だろう?」なんて考えることすら出来ないワケだから、『自分=脳』だったら、やっぱり成立するんじゃないの?」

なんてお思いの方もいらっしゃるかと思います。

でもね、ここでも一度ゆっくり考えてみましょう。

「自分=脳」だとしたら…

脳に障害が出た場合、その人は「自分」を失ってしまうのでしょうか?

確かに記憶がなくなったり、自分が誰なのか分からなくなったり、人格そのものが変わってしまったりすることはありますが…

その人だって、「自分は自分(ここにこうして存在しているのは自分)」と自覚しているワケです。

気付いたら「他人」ってことは無いわけです。

僕もね、記憶障害という脳の障害を経験した一人です。

でもね、ああやって脳の病気になったとしても、やっぱり「僕は僕」なんです。

病気の時は別人だったのかというと、そんなワケはない。


仮に、他人から見て多重人格状態であったとしても、本人にとっては「自分は自分」なワケです。


必ず、そこには「自分」が存在しています。


さらに、脳が身体をコントロールしているのが事実だとしてもですよ、じゃあ、その脳をコントロールしてるのは誰だよ?っていう疑問は残ったままになるんです。


と、こういう話をしても…


「いやいや、それはあらかじめDNAとかに情報がプログラムされていて、脳自らが脳をコントロールできているんだろ?」

なんてお思いになる方もいるかも知れませんが…


「じゃあ、そのDNAに情報をプログラミングしたのは誰だよ?」ってことになりますでしょ?



←記憶から消さずにポチッと。
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自分

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モッサモサに伸びて膨らんだ頭を何とかしようと、整髪料の力を借りて無理やりサラッサラヘアっぽくしてみたところ、なんだかインチキ韓流スターみたいな雰囲気を醸し出す結果となってしまいました。

アンヨクセヨ!…もとい、アンニョンハセヨ!黒斎です。


えー。

突然なんですけどね。自分って、なんだと思います?

当たり前に「自分は自分」って思ってるけど、何を指して「自分」なんですかね。

自分って、そもそも何者なんでしょう?

この疑問、「哲学」だと思います? それとも、「スピリチュアリズム」だと思います?

どちらにせよ、この疑問を突き詰めて考えていくと、「霊を信じる・信じない」なんて話のレベルを超えた世界が見えてきます。


では、早速はじめてみましょう。

僕の本名は福○雅○ですが、その名前が「僕」ということではありません。

もちろん、雲でも、黒斎でもありません。

それらの「名前」は、あくまで「僕」を指し示す「記号」であって、「僕」そのものではありません。

僕は「韓流スターっぽい会社員」ですが、「韓流スターっぽい会社員」が「僕」なのでは、ありません。

僕が会社を辞め、アルバイトをしてしまえば、簡単に「韓流スターっぽいフリーター」になってしまいます。

「韓流スターっぽい会社員」は僕の「肩書き」であって、僕ではありません。

僕は竹彩の「父」ですが、「父」が僕なのでもありません。

竹彩が生まれたからこそ「父」になったのであり、ゆえに、「父」が僕なのではありません。

そういったものを全て消去していくと、自分が何者なんだか分からなくなっていくのですが、それでも「僕は何者だろう?」と問うている「自分」がいるのはゆるぎない事実なんです。

じゃあ、その「僕は何者だろう?」と問うている「自分」はどこにいるんでしょう。

うん。間違いなく、「ここ」にいる。


でも、今ここにいる自分とは、何者なのか、いや、何なのかが分かりません。


以前、身体は「借り物」っていうことを「レンタカー」を例にお話ししたことがありますが、「そう聞いても自分の身体を借り物だとは思えません。」っていう方が大半だと思うんですよ。

でもね、ちょっと考えてみてください。

アナタの身体は、ホントにアナタですか?


とても当たり前の話をします。

アナタの身体は、アナタが今までに食べたものと、飲んだもので出来上がっています。

自分が摂取した以外のもので身体が出来上がるなんて事はありません。

と、言うことはですよ、

アナタの肉も、骨も、臓器も、血液も、ξ毛も、その他もろもろも…ぜ~んぶ、元はアナタの身体ではなかったんです。

自分ではなかったもので、自分の身体が出来上がっているんです。


分かります? この不思議な感じ。


こんなワケの分からないことを考えている、この「脳」ですら、元は自分じゃないんですよ。


そして、自分だったはずの細胞も、いずれその役目を終え、役目を終えた細胞は排泄され、いつの間にか、また自分以外のものになるんです。

自分ではなかったものがいつの間にか自分の身体になり、そして、また自分の身体ではなくなっていくんです。

『死んで土に帰る』とか、そういう次元ではなく、日々確実に自分の身体がスクラップ&ビルドを続けているんです。(だって、毎日うんこしてるじゃない。うんこが出づらい人だって、垢がでるじゃない。)

※人間の体は約60兆個の細胞から構成されています。そのうち、毎日約7000億もの細胞が生まれ変わっています。


っていうことはですよ、

やっぱり「身体」は、あくまで自分の「身体」であって、「身体」が「自分」なのではないよね?

「名前」や「肩書き」同様に、「身体が自分である」とか、「脳が自分である」っていうのは、変だよね?





さて、とりあえずここまで読んでみて、どんな感じです?



←ミタラオセヨ(若干舌っ足らずな感じで発音)
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意味のありか

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今日は、ちょっと変な話をしてみたいと思います。
(「いつでも変じゃないか。」というツッコミは却下。)

なんの話かといいますと…「ウンコクサイ」という「形容詞」についてです。

先日ね、黒妻さんにツッコミ入れられて気付いたんですが…

僕の中で、「ウンコクサイ」という言葉が、すっかり「普通」になってしまいまして、日常生活において、ついつい「普通」に使っているのです。

「ウンコクサイ」を「ウンコクサイ」と分かっている人との間で使用するのであれば、「ウンコクサイ」は「ウンコクサイ」の意味で通じるのですが、「ウンコクサイ」の意味を知らない人がいる公共の場で「いや~、ぼんじょるさんって、ホントにウンコクサイよね。」みたいな会話をしていますと、話し声が聞こえていた周りの人は、「ギョッ」としてしまいます。

「え!? ぼんじょるさんって、うんこ臭いの!?」っていう事になってしまう。

このままだと、「ぼんじょるさんは、ウンコの後でも、おしり拭かない人みたいだよ…ひそひそ…」なんて事になりかねません。


そういう事がありまして、黒妻さんから、「ウンコクサイ」を公共の場で使用するのは止めていただきたいと、そういう要請が出たんですね。レストランやスーパーの食品売場なんかで、「うわ~。ウンコクセ~。」とか言うのは止めてくれと。ある意味営業妨害だと。(なるほど、ごもっともだ。)

でも、困ったことに、我が家で繰り広げられる話の内容ってのは、大概どこか「ウンコクサイ」話なんですよ。

なので、どうしても、話のなかで「ウンコクサイ」という形容詞を使いたくなるんです。

さて、ここで。

じゃあ、「ウンコクサイ」に代わる形容詞で、会話すればいいじゃないか、と言うことになったのですが…


見つからないんですよ。「ウンコクサイ」に代わる形容詞が!


このblogをご覧の皆様が「ウンコクサイ」と聞いて思い浮かべる意味は、当然のことながら、本来の「うんこ臭い」とは違っていますよね?

嗅覚で捉える話ではない。

どちらかというと、「胡散臭い」に近い意味で捉えられていると思います。

でも、やっぱりちょっと、「胡散臭い」にはない「ニュアンス」を含んでいて…

「ウンコクサイ」=「胡散臭い」ではない。


で、面白いのは、こういった何とも捉え所のないニュアンスの形容詞であるにも関わらず、何でだか、ここに集う方々には、ちゃんとその意味合いやニュアンスが通じているということなんです。

なんで通じてるの?ってこと。

だって、いままで一度も「ウンコクサイとは、これこれこういう意味を含む形容詞でありまして…」みたいな説明なんてしたことないんですよ。

なのに、ちゃんとその説明出来ない意味を「共有」できている。


「名詞」の意味を共有するってことなら、分かるんですけどね。

そこに、その物があって、「これが、それだよ。」と言えばいいんだから。

でも、「形容詞」ってのは、あくまで「形容」だから、「そのもの」を指しているワケではないんです。


あくまで、「ウンコクサイ」何か、「ウンコクサイ」誰か、って事になる。

だから、その「何か」でも、「誰か」でもない「何か」を「ウンコクサイ」と認識している。

この時、何を認識してるんでしょう?


そして、この「ウンコクサイ」という言葉になる前からあった、このウンコクサイという「感覚」は、どこにあったんだ?

「脳」か? 「心臓」か? 「心」か? 「魂」か? そのどれでもないのか?


さらに、どこかにあるとしても…

それは元から持っていたのか?

それとも、どこかで受け取ったものなのか?





まぁ、そう言った事は一旦おいといて、僕はこれから公共の場で、「ウンコクサイ」の代わりに、なんと言えばいいのでしょう?



  ←ウンコクサク押して下さい。
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内観.3

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「現在地」を知る方法は、思いのほか簡単です。

「素(す)」の自分を「自覚」すること。

自分で、自分についている嘘を見破ること。

これだけです。



悲しいことは悲しいし、悔しいことは悔しいし、腹立たしいことは腹立たしいし、嫌なものは嫌なんです。

一度、そういう自分の気持ちを素直に受け入れちゃうんです。

だって、そう「思っている」んだからしょうがないぢゃない。

そういう思いを、自分に嘘をついて、心の奥底に「隠し」たり「仕舞いこんだ」としても、その思いが「無くなった」ワケではありません。

「隠し」たり「仕舞っているだけ」だから、しっかり「残して」しまっている。^^;

なので、まずは自分についてきた嘘の数々を、全部見破っていく。


そのために…

「現在(今)」、目の前にあることに「地」に足をつけて、しっかりと向き合うんです。


悲しいと思ったとき、どうして悲しいと思うのかを考える。

悔しいと思ったとき、どうして悔しいと思うのかを考える。

腹立たしいと思ったとき、どうして腹立たしいと思うのかを考える。

嫌だと思ったとき、どうして嫌だと思うのかを考える。


ええ。こんなこと、考えたことはないかも知れません。


「悲しいものは悲しいし、悔しいものは悔しいし、腹立たしいことは腹立たしいし、嫌なものは嫌だ! 私のような状況であれば、そう感じて当たり前じゃないか!」

もしかしたら、あなたはそう言うかもしれない。


でも、「当たり前だ」と決め付けちゃったから、それ以上考えなくなったんだと思うんです。

「しょうがないんだ」と言って、それ以上考えることを放棄しているから、「当たり前」のことが「分からないまま」になっているんだと思うんです。


分からないことを、分からないままにしておくことを「悩み」といいます。

「分からない」ということを自分で認識しているから「悩み」なんです。


分からないなら、「どうしたら分かるのか?」と『考え』ればいい。


「考える」は、「悩む」とは違うんです。


「悩む」ってのは「思い患う」ってことです。「思い」が「患って」いる。

「患って」いるから、『動けない』。

「考える」ってのは「筋道を立てて頭を働かせる」ってことですから、

『動き回っている』。


「静」と「動」の違いがあります。


だから、「考える」ことで、すでに「悩み」ではなくなっている。



で、考える時に大切になるのは、

「ネガティブ」と向かい合うことではなく、「自分の弱さ」と向き合うと言うこと。


「出来事」が辛いのではなくて、その出来事を「辛いと思う自分」が辛い。

だから、「出来事」と向かい合うのではなくて、「そう思っている自分」と向き合う。

「なぜそう思うのか?」と考える。


冷静に考えていくと、

自分が当たり前のことを「分かっていない」状態であることが「分かる」ということに気付くでしょう。

でも、「分かっていない」と思っているということは、すでに「分かっている」ことの存在を知っているからこそ、「分かっていない」と判断出来るのです。


分かるかなぁ?




  ←いや、向き合っているだけではなくて…
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