富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「わたしは福音を恥としない」 ローマの信徒への手紙1章16-17節

2021-09-04 03:02:01 | キリスト教

              ↑ Paul Mosaic at Chora Church Istanbul

       

     イスタンブールのコラ教会内にあるパウロのモザイク画

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・ FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

聖霊降臨節第16主日 2021年9月5日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

      礼 拝 順 序

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 206(七日の旅路)

交読詩編   96(新しい歌を主に向かって歌え)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ローマの信徒への手紙1章16-17節(新p.273) 

説  教  「わたしは福音を恥としない」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                      

讃美歌(21) 405(すべての人に)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏   

〇 オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、申し込みください。ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。

                                                次週礼拝 9月12日(日)午後5時~5時50分    

                                                聖 書 コリントの信徒への手紙8章7-13

                                                説教題  「愛による解決」

                                                讃美歌(21) 16 492 27 交読詩編 79   

   本日の聖書 ローマの信徒への手紙1章16-17節

1:14わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。 15それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。 16わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。 17福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

本日の説教

 パウロがローマの信徒への手紙を書いたのは、第三回目の伝道旅行中、コリントに三か月滞在している時で、紀元56年ごろでした。パウロは福音を伝えるために召され、これまで、地中海東部の小アジア(現在のトルコ)、マケドニア、アカイア(現在のギリシア)等の広い地域にわたる伝道を一応終えて、長年の念願であった当時の世界の中心地ローマに伝道した後で、更に世界の西の果てと思われていたイスパニア(スペイン)にまで福音を伝えたいと計画していました(15:22-24)。ユダヤ教の一宗教に過ぎなかったキリスト教を、世界的宗教にまで発展させたパウロの貢献は、実に偉大でした。ことに、新約聖書の四割に近いぺージ数を占めるパウロが諸教会の信徒に宛てた13通の手紙は、後に聖書の正典とされ、福音を伝える何にもまさる貴い遺産となっています。世界の人を救うキリスト教を発展させたパウロの貢献は実に偉大です。神は必要な時に必要な人間をもちいて、人間を救う神の御計画を実現なさるのです。パウロは神に選ばれ、福音を伝える使徒とされたのです。

 パウロは今、ローマへの信徒に、「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです」(1:14)と言ったあと、「わたしは福音を恥としない」と語っています。このことばには大きな決意がひめられています。なぜ「恥としない」という消極的に思える言い方をしたのでしょうか。

 パウロがこれから福音を告げ知らせるために行こうとしているローマは、当時地中海沿岸の小アジア、ヨーロッパ、アラビア、アフリカ北岸一帯を支配したローマ帝国の首都であり、莫大な富をたくわえた文明都市であり、文化都市です。

パウロが手紙を宛てたローマの信徒の集会は、恐らく最初はローマ在住のユダヤ人にもたらされたキリスト教が次第に異邦人に及び、パウロが手紙を書いた時には異邦人を中心にして成立していたと思われます。パウロはまだ訪問したことのないローマの教会に手紙を送ったのは、自己紹介をすることにありました。伝道者の自己紹介は、自己の福音理解を整理し伝えることにありました。

 パウロは、「ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にも、ない人にも」、使徒として、すべての異邦人を、「信仰の従順に至らせるように」する責任があると言います。そのために自分は恵みと使徒の務めを受けたのであると言います。

「わたしは福音を恥としない」とパウロは言います。福音とは喜ばしい音ずれのこであります。それはイエス・キリストに関する喜ばしい音ずれです。イエス・キリストがこの世においでになり、私たちのために十字架にかかり、そして復活したという、イエス・キリストの出来事に関する喜ばしい音ずれです。

 しかし、当時のユダヤ人にとっても、ギリシア人にとっても、イエス・キリストの出来事は、喜ばしい音ずれどころではありませんでした。第一に、ナザレの大工の息子イエスが救い主であることは、当時の人々にとって簡単に受けいれられることではなかったでしょう。

 第二に、恥ずべき十字架刑に処せられた人物が救い主がであるということは、耳にするだけで忌まわしい事であったでしょう。

 第三に、処刑されて、死んだ者が復活したということ、さらに、昇天し、神の座につかれたとは、到底あり得ない馬鹿げた話してだと思われたことでしょう。

 パウロはこのことを充分知っていたのです。パウロはかつて、十字架にかけられたイエスが神の子であると信じ、律法を無視するキリスト教徒を、神を冒涜する者達と思い、熱烈に迫害したのです。

しかし、キリスト教徒を撲滅するためにシリアのダマスコに向かったが、その郊外にさしかかったとき、天から彼に語りかける主イエスに出会い、回心してキリストを信じる者となったとき、イエス・キリストの福音を恥じることのない者とされたのです。したがって、「恥としない」という否定形は、「誇りとする」よりはるかに強い確信に満ちた信仰告白なのです。

なぜ恥ずべき十字架に磔にされた人物を宣べ伝えるのか。このキリストは、「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが」、キリストを信じるように「召された者には、神の力、神の知恵である」(コリント一1:22-24)からですと、パウロは言っていたが、この手紙では、福音を恥としない理由として、福音は「ユダヤ人を始め、ギリシア人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である(1:16)」といっています。パウロはその神の力を自ら体得したのです。

「福音」とは、「良い知らせ」を意味し、父なる神の御子イエス・キリストによってもたらされた人類の救いについての知らせです。特に、イエス・キリストの十字架の死による贖いの業を信じるすべての者が、罪の赦しを受け、永遠の生命を与えられるのです。これが福音のメッセージ(使信)です。

この福音は、信じる者すべてに「救いを得させる神の力」である、とパウロは語ります。この力はダマスコにおいて、パウロ自身にあらわれたのです。そして迫害者パウロを造り変えて、福音を伝える使徒としたのも、この力でした。

ここで言われている「救い」とは、すべての人間がおちいっている滅びの状態から救い出されることです。3章23節に「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」と書かれています。本来人間は神の似姿としてつくられ、神の栄光を反映している存在でした。それなのに人間はアダムの堕落によって罪がこの世に入ってきたため、「義人はひとりもいない」(3:10)という状態になり、だれひとり神の栄光を受けることとができなくなったのです。このような滅びの状態から救い出されるためには、キリストによる罪のあがないが必要なのです。そして、キリストの生命と栄光にあずかることが救いです。このような救いを、「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたす神の力」が福音です。それゆえ、パウロは「福音を恥としない」のです。

1章17節には、「福音には、神の義が啓示されています」とあります。福音が救いを得させるには、福音の中に神の義が啓示されているからだというのです。「神の義」とは、一つは神は義であるという意味と、もう一つは神から人間に与えられる義という意味になります。神は義であるとすると、罪人を罰する神の義になり、神の前に安らかな心を持つことはできません。神の義のもう一つの解釈は、神の義は、救いを作り出す神の活動ということになります。神の義が福音のなかに啓示されるとは、この神の創造的な救いの活動が福音の中にあらわれるという意味になります。

 神の義を、ルターは神から賜る義、神からの賜物の義としてとらえるに至りました。ルターの福音の再発見でした。

 さらにパウロは、神の義は福音の中に啓示されるといったのち、続けて「それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」と言っています。神の救済活動も、神からの賜物として与えられる義も、それを信仰をもって受けとめる時に、自分の現実となるからです。しかし信仰は神の働きを受けるための人間の側の条件ではなく、神の力がわたしたちに働きかけて、わたしたちのうちに信仰を起こし、信仰を与えるのです。信仰とは神の恵みに対するわたしたちの信頼なのです。それをパウロは「初めから終わりまで信仰を通して実現される」と表現したのです。その聖書的根拠として、ハバクク書2:4の言葉、「正しい者は信仰によって生きる」を引用しています。「正しい者」は、ハバククでは、「神に従う人」と記されており、律法を守った者の意味ですが、パウロは自由に解釈して、業によってではなく、信仰によって義とされた人という意味に解釈しました。福音が救いを得させる神の力として働くのは、信じる者に対してなのです。信じない者には、愚かなものでしかないのです。

救いか滅びか、その分かれるところは、この十字架の福音を信じるか、否かにかかっているのです。この愚かなものと思われる十字架の福音のうちに、わたしたち人間の罪と死の支配から解き放ち、永遠の命にあずからせる力がこめられているのです。だからパウロはあえて「わたしは福音を恥としない」と言うのです。この言葉に、ローマのあらゆるこの世的な巨大な威力の前に、神の愛と力を受けて、福音を伝えようとするパウロの気魄と意気込みが込められているのです。

パウロは弟子のテモテに、「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわtしたちにくださったのです。だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。」(テモテ二1:7-8)と手紙を送っています。わたしたちも、「主を証しすることを恥じてはなりません」とあるように、福音を恥とすることなく、主を証しする者となりましょう。

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