富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「夕べ(就寝前)の祈り」 詩編4篇1-9節

2021-09-30 22:53:47 | キリスト教

      「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、わたしをやすらかに(眠らせ)住まわせてくださるのです。」詩篇4:8(9)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第20主日 2021年10月3日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                           礼 拝 順 序

                                                             司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 220(日かげしずかに)

交読詩編    4(呼び求めるわたしに答えてください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)詩編4篇1-9節(旧p.836) 

説  教      「夕べの祈り」     辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                     

讃美歌(21) 214(わが魂(たま)のひかり)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

           次週礼拝 10月10日(日)午後5時~5時50分 

           聖 書 詩編6編1-11節

           説教題  「主の慈しみによる魂の救い」

           讃美歌(21) 474 441 27 交読詩編 5   

  本日の聖書 詩編4編1-13節

   4:1【指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩。】
2呼び求めるわたしに答えてください。                     わたしの正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください。   憐れんで、祈りを聞いてください。
3人の子らよ、いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか。
むなしさを愛し、偽りを求めるのか。〔セラ
4主の慈しみに生きる人を主は見分けて、                呼び求める声を聞いてくださると知れ。
5おののいて罪を離れよ。                             横たわるときも自らの心と語り、そして沈黙に入れ。〔セラ
6ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。
7恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。           主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。
8人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。                    それにもまさる喜びを、わたしの心にお与えください。
9平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。                         主よ、あなただけが、確かに、わたしをここに住まわせてくださるのです。

      本日の説教

 【指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩。】(4:1)

 この音楽に関する表題は後世の人がつけたもので、神殿の祭儀のときに音楽として歌うための指示を与えています。指揮者に伴奏楽器や曲を指示するもののようです。これをダビデの作と断定する必要はないようです。この詩は救いを求める個人の祈りであり、信頼の祈りです。9節にちなんで「夕べの歌」と呼ばれています。一日の終わりに際して床の上でささげる祈りにふさわしい内容です。

「呼び求めるわたしに答えてください。わたしの正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください。憐れんで、祈りを聞いてください。」(4:2)

 <呼び求めるわたしに答えてください>ということばは、祈る者が苦難から解き放たれることを願っているのです。友人たちの非難にによっていたく傷つけられています。この詩が示す具体的な状況を見きわめることは不可能ですが、この祈りの響きは嘆きというよりも信頼に満ちています。詩人は主を「わたしの正しさを認めてくださる神よ」と呼んでいます。預言者イザヤも同じような言葉を述べています。「わたしの正しさを認める方は近くにいます。・・・誰がわたしを罪に定めえよう。」(イザヤ50:8-9)頼るべき正しさを、自分にではなく、神に置いている者であることを言い表しているのです。その信頼をもって神に訴え、助けてくださるようにと願っています。

 「人の子らよ、いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか。むなしさを愛し、偽りを求めるのか。〔セラ」(4:3)

 <人の子らよ>と言われているのは、反抗する友人たちのことです。この詩人は、自分にとって絶対確実なものとして置かれている信仰体験を確信することによって、侮辱を加えた人々を叱責しています。彼の個人的な体験の背後に神自身が立っていることを知っているのです。したがって、作者を中傷し、彼についてデマを広めている者は、単に彼の人間的な名誉を踏みにじっているだけでなく、間接的に、彼の背後に立つ神をも踏みにじっていることになるのです。彼の名誉とは、彼の信仰にほかなりません。〔セラ〕は小休止を意味していて、しばらく祈りを中止し、応答の讃美歌に移るための備えとしたのかも知れません。

 「主の慈しみに生きる人を主は見分けて、呼び求める声を聞いてくださると知れ。」(4:4)

 友人たちがこの真相を知ったならば、彼らの非難と疑いがいかにむなしいものであるかを思い知るに違いありません。

そのためにこの詩の作者は、彼らの目が開かれて、目に見える苦難から目に見えない救い主の方に彼らのまなざしが転じることを望んでいます。彼自身も、くすしき導きによってそのような救い主に出会い、いくたびも祈りを聞かれることによって神を経験してきたからです。 詩の言葉は、詩人が神に向けてなした訴えがすでに答えられている、という事実をほのめかしています。

「おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語りそして沈黙に入れ。〔セラ」(4:5)

神が信仰者をご自身のものと認めておられるという現実の前に、彼を非難する友人たちに、おののきと畏れをもって神の前に立つことを促し、偽りの言葉によって罪を犯すことを止めるよう勧告します。

「ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。」(4:6)

そこで作者は、友人たちに、ふさわしい献げ物を携え、神に信頼をおき、そして自分を義なる神に献げる証しとして、隣人への悪意を捨てるように勧告します。大切なのは、彼にとっても、神に対するおそれと信頼という心の姿勢なのです。正道を踏みはずした友人たちも、悔い改めによって再びこのような信頼を取り戻し、立ち直ることができるように、作者は力を尽くしているのです。

「恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。」(4:7)

作者は自分のまわりにいる多くの人々が苦難と誘惑にさらされて、「恵みを示す者があろうか」という神に対する問いが彼らの口から出るとき、作者は同じ人間として彼らの気持ちを思いやり、彼はアロンの祝福のことばからとった祭司の祈願を唱えます。「主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください」と祈ります。その際に彼は、外的な苦難が除かれることだけを願っているのではありません。彼は「幸福をふたたび見せて下さい」と祈っていません。彼にとって決定的なのは、神の本質がふたたび啓示されることであり、神自身があらわれて、さまよう人々を正しい道に導き、この祈り手自身があらゆる不幸にもかかわらず心のうちに保ってきた神への喜びに、彼らをも至らせてくれることなのです。この神への喜びこそ、彼にとっては、ありとあらゆる地上の宝にもまさる価値をもつのです。なぜならこの喜びは、地上の宝では喜びを得られない場合でも、彼を喜びのうちに保ってくれるからです。

「人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを、わたしの心にお与えください。」(4:8)

人々は、<麦とぶどう>ワインの豊かな収穫を喜びます。人は収穫が豊かであったか無かったかで一喜一憂し、そのはかりで幸福を計りやすい。しかしそのような生き方は常に不安と動揺の内にあります。詩人は飲食に飽き足りることで得られる喜びよりも遥かに大きな喜びを、わたしの心にお与えくだい、と祈っています。詩人の心が神に受け入れられ、神の平和にまもられている喜びを求めているのです。詩人はその喜びを味わているのです。神の平和に守られている信仰者の心の内には、圧倒的な静けさと確信が与えられています。人間同士の対立や外から来る苦難に直面しても、心の拠り所を失うことなく、常に困難な状況を克服していくことができます。それは、そのこころが神によって支えられているからです。詩人は神を信頼をしているのです。

信仰者に与えられる賜物はどんな物にも代えがたいものです。使徒パウロは、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を・・・塵あくたと見なしています」(フィリピ3:8)と言っています。

「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに、わたしをここに住まわせてくださるのです。」(4:9)

祈りは詩人の恵みの経験を高らかに宣べて締めくくられます。祈り手はこのような心の喜びを与えて下さった神に、感謝し、主を仰ぎつつ、神の平和のうちに身を横たえ、眠りにつきます。

結びの信頼の表明は単に個人的なレベルの安心を越えています。何度も強調され「あなたこそ、ヤ-ウェよ、ただひとり、安全にわたしを住まわせてくださる」となっています。

神の恵みの賜物は平安と、神との全き関係、自分自身との全き関係、そして他者との全き関係をもたらします。自分自身を責めることもなくなるのです。詩人は神にある平安に満たされているのです。眠れない夜は続くことはなくなるのです。主は安らかな眠りを与えてくださるだけでなく、翌朝、目が覚めても、主の平和のうちに、住まわせてくださるのです。主の平和は、一時的なものではなく、継続するのです。

この詩編の力強さは、こうした静けさと確信のうちにひそんでいるのですが、この力は自分だけの所有として終わることなく、友人たちとともに神を仰ぎ見ることによって、友人たちをその現在の葛藤の中から導き出し、真の悔い改めを通して神の平和と神への新たな喜びに至る道をさし示すことができるのです。

この詩編9節のすばらしいみ言葉は、わたしたちが眠りにつく時、安らぎの歌となります。

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