富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「主よ、朝毎に聞いて下さい。」 詩編5編1-13節

2021-09-27 00:21:35 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第19主日  2021年9月26日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                           礼 拝 順 序

                                                              司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 210(来る朝ごとに)

交読詩編    5(主よ、わたしの言葉に耳を傾け)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)詩編5編1-13節(旧p.837) 

説  教   「主よ、朝毎に聞いて下さい。」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                     

讃美歌(21) 496(しずけき夕べの)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

                                     次週礼拝 9月26日(日)午後5時~5時50分 

                                     聖 書 詩編4編1-9節

                                     説教題  「夕べの祈り」

                                     讃美歌(21) 220 214 27 交読詩編4編    

本日の聖書 詩編5編1-13節

5:1【指揮者によって。笛に合わせて。賛歌。ダビデの詩】
2主よ、わたしの言葉に耳を傾けつぶやきを聞き分けてください。
3わたしの王、わたしの神よ、助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。あなたに向かって祈ります。
4主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとにわたしは御前に訴え出て、あなたを仰ぎ望みます。
5あなたは、決して、逆らう者を喜ぶ神ではありません。悪人は御もとに宿ることを許されず
6誇り高い者は御目に向かって立つことができず悪を行う者はすべて憎まれます。
7主よ、あなたは偽って語る者を滅ぼし、流血の罪を犯す者、欺く者をいとわれます。
8しかしわたしは、深い慈しみをいただいて、あなたの家に入り聖なる宮に向かってひれ伏し、あなたを畏れ敬います。
9主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き、まっすぐにあなたの道を歩ませてください。わたしを陥れようとする者がいます。
10彼らの口は正しいことを語らず、舌は滑らかで喉は開いた墓、腹は滅びの淵。
11神よ、彼らを罪に定め、そのたくらみのゆえに打ち倒してください。彼らは背きに背きを重ねる反逆の者。彼らを追い落としてください。
12あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い、とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ、あなたによって喜び誇ります。
13主よ、あなたは従う人を祝福し、御旨のままに、盾となってお守りくださいます。

     本日の説教

 「指揮者によって。笛に合わせて。賛歌。ダビデの詩」(5:1)

 表題は「笛(フルート)」を伴奏楽器として用いるように指揮者に指示しています。この詩は朝(4節)、神殿で唱えられたものと考えられます(8節)。「賛歌。ダビデの詩」とあるが、書かれた年代も不明であり、この詩の作者はダビデ王の作とは言えません。この詩全体から見て作者は、「神を信じない者たち」のグループに圧迫されていた「神を信ずる者たち」の信仰者のグループに属すると思われます。そこでは信仰者の命が偽りの力によっておびやかされています。

作者は「神を信じない者たち」の陰謀にたいして神殿で(3節)、神の決定を求め(11節)、神の庇護を願っています(12-13節)。正義の最終的な施行者である神に訴えるために、その最後の避けどころとしての神殿でこの歌は歌われたのでしょう。この詩に描き出された苦境は、エレミヤと主イエス、バビロン捕囚期以後のイスラエルと初期のキリスト者たちを思い起させるものです。

詩編5編の構造は、2-4節:呼びかけと訴えの祈り。5-7節:信頼と告白、8-9節:神の前での自分の状況と救いを求める第一の個人的な願い。10-11節:敵の絶滅を求める願い、救いを求める第二の訴え。12-13節:救いを求める第三の訴え。信頼と讃美となっています。

 「主よ、わたしの言葉に耳を傾け、つぶやきを聞き分けてください。」(5:2)

詩人はまず「主よ」と神へ呼びかけ、「わたしの言葉に耳を傾け、言葉にならない「つぶやき」を聞き分けてください、と嘆願します。祈り手は、彼のことばと「叫び」(3節)を神が彼の「心のおもい」を見きわめて、彼の考えを「分かって」下さることを求めています。

「わたしの王、わたしの神よ、助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。あなたに向かって祈ります。」(5:3)

詩人は神を呼ぶのに「わたしの王、わたしの神よ」と訴えています。祈る者らの王であり神であるイスラエルの神に直訴しています。この訴えの祈りは、王の職務に属する事、そして王の支配と統治に密接にかかわる事柄であることを示すためのものです。この呼びかけは、作者が神の最終的決定を呼び求めて、「叫ぶ声を聞いてください。あなたに向かって祈りますから」と嘆願しています。

「主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとにわたしは御前に訴え出て、あなたを仰ぎ望みます。」(5:4)

 詩人は「主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください」と主の御前に出て訴えます。訴えは、王の意向に沿うに違いないとの確信のもとに朝の祈りの間になされます。二度も「朝ごと」と繰り返しています。彼は毎朝、神殿で主の前に訴え、祈り、主を仰ぎ望んでいます。

 「(なぜなら)あなたは、決して、逆らう者を喜ぶ神ではありません。悪人は御もとに宿ることを許されず(5節)、誇り高い者は御目に向かって立つことができず、悪を行う者はすべて憎まれます。」(5:5-6)

 それゆえ詩人は、「王は逆らう者を喜ばれない」と王の意向を述べます。そして逆らう者を強調するために悪人の五つの特徴を述べます。「悪人は御もとに宿ることは許されない」と言います。さらに、「誇り高い者は、主の御前に向かって立つことができず」、「悪を行う者はすべて」、主に憎まれると言います。

「主よ、あなたは偽って語る者を滅ぼし、流血の罪を犯す者、欺く者をいとわれます。」(5:7)

主よ、あなたは「偽って語る者」を滅ぼし、「流血の罪を犯す者」、「欺く者」を忌み嫌われる。

「しかしわたしは、深い慈しみをいただいて、あなたの家に入り聖なる宮に向かってひれ伏し、あなたを畏れ敬います。」(5:8)

8節で、訴える者は訴えをなす二つ目の根拠として自身の王への忠誠を言い表します。詩人は神の変わることのない愛(慈しみ)により頼んで、聖なる神殿の内で王の面前にまかり出て、神のみ旨と御力に服し、畏れ敬うのです。

「主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き、まっすぐにあなたの道を歩ませてください。わたしを陥れようとする者がいます。」(5:9)

今こそはじめて、作者は自分の願いを心置きなく述べることが出来ます。これまで述べてきたことはすべて、正しい心の姿勢を準備するためでした。いよいよ救いを求める具体的な訴えが9節以下でなされます。まず彼は神の導きを求め、神の御前における彼の歩みを確かなものにしようとします。 ここでの訴えの言葉は正しき道の確立を求めるというよりは、救いの道を求めるものといった方が良いものです。「導いてください。まっすぐにあなたの道を歩ませてください」とは、神の摂理によるみ守りを乞うものであり、他の滅びの道から救い出され、神御自身の道筋の内に生きることを求める祈りです。訴えは神の「義(ただ)しき」御業を願い求めています。神の義しさとは、人々の生命、そしてそれに関するもろもろの事柄を正す神のみこころ、あるいは御力を意味します。神の助けは、「陥れようとする者」の存在するために、どうしても必要なのです。

「(なぜなら)彼らの口は正しいことを語らず、舌は滑らかで、喉は開いた墓、腹は滅びの淵。」(5:10)

10節には敵たちの特徴が描写されています。彼らの振舞いが、口、舌、喉、腹ということばを用いて描かれています。詩人に向かって彼らが言う事は事実無根であり、虚偽であり、死臭が漂い、破滅的です。「敵」どもは殺意をもって嘘をつくのです。

「神よ、彼らを罪に定め、そのたくらみのゆえに打ち倒してください。彼らは背きに背きを重ねる反逆の者。彼らを追い落としてください。」(5:11)

救いを求める第二の訴えは、神に背く者に関してなされます。なぜなら彼らは、偽証者たちと同じように王なる神の喜びにわざと逆らうからです。詩人は主に向かって、誰が真の罪人なのかを明らかにすると共に、詩人への悪だくみゆえに、神の国からこれらの嘘つき達が完全に取り除かれることを求める訴えをしています。

「(なぜなら)あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い、とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ、あなたによって喜び誇ります。」(5:12)

救いを求める第三の訴え(12-13節)は、王なる神のこれまでとは別の在り方を私たちに知らせます。王なる神は正しい者を祝福し、み恵みを与えて守られる方なのです。それゆえ、罪なき者達がみ守りの中に置かれ、一方で嘘つきが白日のもとに引き出され、叱責される時に、主の御支配は明らかとなります。

「主よ、あなたは従う人を祝福し、御旨のままに、盾となってお守りくださいます。」(5:13)

 主を愛する者達、主を避けどころとする者達には、彼らの王なる神を喜び賛美する新たなる礎が与えられます。詩人は最後に、「主に従う人を祝福し、主のみ旨のままに、盾となってお守りください」との祈りを捧げます。人間の争いの苦境と重圧の中から解放され、詩人はゆったりと自由な神への信頼と愛に高められていきます。神の光明が彼を満たします。

この詩は、私たちを神の御支配を信じる祈りへと導いていきます。悪人は退けられ、義人は受け入れられるのです。義人とは、神を愛し、神に信頼し、神に依り頼む者のことであり、そして神の道に導かれることを欲する者のことです。

 この詩は敵を前にして祈る者の具体的な祈りが捧げられています。けれども、旧約聖書のある箇所で(イザヤ書53章:「苦難の僕による救い」等)、また、メシア・主イエスの生涯において、神は他の取るべき道のあることも示しておられます。主イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えています。そうなると、恐るべき悪に対して神のご支配が現れることを願い求める祈りの仕方も異なったものとなってきます。しかし正義を愛し悪を憎む神の基本姿勢は変わることなく首尾一貫しています。キリストの十字架による赦しと救いは、わたしたちを含めてすべての人々に与えられています。審判は、神の最後の時の審(さばき)に委ねることが求められているのです。

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