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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
聖霊降臨節第17主日 2021年9月12日(日) 午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)
礼 拝 順 序
司会 田中 恵子姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 16(われらの主こそは)
交読詩編 73(神はイスラエルに対して)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙一8章1-13(新p.309)
説 教 「愛による解決―偶像に供えられた肉」辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 492(み神をたたえる心こそは)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
〇 オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、申し込みください。ズーム設定担当は、斎藤美保姉です。
次週礼拝 9月19日(日)午後5時~5時50分
聖 書 詩編121篇1-8節
説教題 「わたしは山々を仰ぐ」
讃美歌(21) 521 155 27 交読詩編 121
本日の聖書 コリントの信徒への手紙一8章7-13
8:1偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。 2自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。 3しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。 4そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。 5現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、 6わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。
7しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。 8わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。 9ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。 10知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。 11そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。 12このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。 13それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。
本日の説教
パウロは、8章1-13で、コリントの信徒の人々からの手紙で質問された問題で、「偶像に供えられた肉」を食べることは許されのか、に対して答えた部分です。この問題についてのパウロの議論は、特にコリントのキリスト者が幾人か異教の神殿でも催された祭りに出席していて、全ての出席者に肉が出されたことから、この問題が持ち上がったことが分かります(10節)。
コリントの確信のある強い信仰をもっていたキリスト者の人々は、唯一の神がいて異教の偶像は生命のない彫像にすぎず、誰も助けたり害をなす力はないという「知識」を持っていました(4節)。その上、コリントの人々はパウロ自身の教えに一致する「知識」を持っていました。食物は霊的に意味がない(8節)。異邦人がユダヤ教の食事規定を守り、神の承認を求めようとしなくても良いように、自分たちが食べる肉の出所を案じる必要はない、偶像に供えられた肉によって汚れることを恐れるキリスト者は、単に無知で迷信的なのである。強いキリスト者は、正しい知識を与えられ、良心の呵責を感じることなく異教の神殿に行き、そこで出されたものを何でも食べることができる。実際にそうすることが、霊的成熟さと自由を証明したのでしょう。この立場を主張したコリントの人々は、コリントの信徒への手紙で「弱い人」と呼ばれている、もっと用心深い兄弟姉妹たちと、そのような儀式に参加し偶像に供えられた肉を食べ、良心を強く鍛え上げるべきだと論争していたに違いありません。もし、「弱い人」がそのように行いさえすれば、何の害もないことが分かり良心に迷いがなくなる。コリントの人々の手紙は、恐らくパウロに弱い人が良心の咎めを乗り越え、知恵を持つ者が楽しむ霊的に自由な世界を楽しむように励ましてもらうことで、「弱い人」たちの誤解を解こうとしたのでしょう。
貧しいコリントの人々は、肉を食べることは当り前ではありませんでした。肉は特定の公共の宗教的祭りにおいて、一般に配給がある時のみ食べられました。貧しい人々は肉は宗教的な意味をもつ食物をみなされたのでしょう。このように以前から習慣や物の考え方に引きずられやすい「弱い人」たちと、豊かで高い教養もある「強い」信仰の持ち主とがいて、教会内に衝突や混乱があったのでしょう。
パウロの返答は知識ある人々のグループには、衝撃的であったでしょう。パウロは知識ある人々には加担しないで、彼らの行動を全く違う基準で再考すうように挑戦します。
パウロはまず「我々は皆、知識を持っている」(1節)ことを認めます。しかし、もし教会を愛によって建てることができなけば、知識には欠点があると示唆します。知識は「高ぶらせる」。8章1節では、自慢げな高ぶりの原因が明らかに述べられます。パウロは「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と言います。教会を建てるのは愛であって、知識ではない。知識は人々の間に差別をつくり、日常生活をこわしてしまう。愛のともなわない知識は不完全だ、とパウロはいうのです。
人間の知識の無力さを明にするために、「神を愛することが神の正しい知り方だ」とは言わず、「神に知られているという神の知り方」が正しいと言います。救いの主導権は神からもたらされ、私たちからではありません。神が初めに愛し、神が私たちを選び、私たちを罪と死の支配から救い出してくださる。神の主導権に依存していることを理解する者は誰でも、知識の所有によって高ぶりはしないだろう。コリントの知識を誇る人々は、自分たちの知識は偶像に供えられた肉を食べることを許可すると考えている。パウロは知識よろも愛が優先すると主張します。「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」と教えます。
「たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」という知識をパウロは認めます。
しかし、「この知識がだれにでもあるわけではありません」と述べます。教会の全ての者が高い知識を持っているわけではないと主張します。
神は唯一である、偶像の神などいないという知識によって偶像への供え物を食べたり、偶像の宮に出入りしたりすることは決してまちがいではない。しかしそのような行動は、知識を持っていない人たちを迷わせ、信仰的な確信のないままに、行いだけをまねする人たちがでてきたらどうするか。その人たちは、「今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚され」てしまうではないか。偶像の世界に引きずり戻され、汚される(7節)とパウロは語ります。知識を持っている人たちの「自由な態度が弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」とパウロは注意します。
また、「知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを」、信仰の弱い人が見ると、「その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。」パウロは弱い人が彼らのかつての生活に引き戻され、キリストから遠ざけられ、神の救いの力が及ぶ範囲から脱落することです。
「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。」弱い者こそが教会の中では大切にされなければならないのです。「このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。」
キリストは「兄弟」のために生命を差し出した。キリストが死んだのに、あなたは食事さえ変えることが出来ないのですか。キリストの救いの業を軽んじ、台無しにするがために「キリストに対して罪を犯すことなのです」。
それゆえ、この議論の結論としてパウロは、「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」と、自分自身の行動を制限します。この文章における「肉クレア」という言葉は、動物の肉一般であって、「偶像に供えられた肉エイドロ・ス-トン」という具体的な用語ではありません。弱い人をつまずきから守るために必要ならば、パウロは偶像に供えられた食物を食べないばかりでなく、あえて肉そのもを食べない、というのです。この方法の結果、パウロは自分自身を事実上、弱い人の間に置くのです。
わたしたちが自分の行動を制限するとき、自分の知識や気持ちや感情を大切にするけれども、人の気持ちや感情を害することを何ともおもわないことが多い。しかし、人間の行動の基準は、知識や気分や感情でなく、他者への愛でなければならないとパウロは主張します。全体のために自分の感情をおさえることはだれでもよく知っています。しかし、知識でもおさえなければならない場合があります。それは、ほんとうに他の人を愛する場合には、自分のもっている知識によって行動するのでなく、愛をもって行動の基準にしなさい、というのがパウロの主張です。
ローマの信徒への手紙14章21節で、「肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい」と「強い者」のとるべき態度を語ります。それは、福音の真理に照らして絶対善であるというふうには語られず、<望ましい>と言い、その時々の判断として語られています。その判断の善し悪しの基準は、他人をつまずかせないことです。これはキリストに倣うものであり、苦難の道を選び取るということなのです(ローマ15:3)。パウロは、コリントの知識を誇る人たちとはまさに正反対の決断をし、自分自身のキリスト者としての自由と権利に、弱い兄弟たちへの愛のゆえに、大きな制限を課すのです。
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