富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「わたしは山々を仰ぐ」 詩編121篇1-8節

2021-09-16 23:13:46 | キリスト教

      ↑ 中央の山の上部に見えるのが城壁に囲まれたエルサレム神殿です。古い時代の絵のようです。

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第18主日  2021年9月19日(日)     午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」 (エフェソ3・16-17)

                           礼 拝 順 序

                                                              司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 521(とらえたまえ、われらを)

交読詩編  121(目を上げて、わたしは山々を仰ぐ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)詩編121篇1-8節(旧p.986) 

説  教    「わたしは山々を仰ぐ」   辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                     

聖餐式             7  8    (わが主よ、ここに集い)

讃美歌(21) 155(山べにむかいて)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

             次週礼拝 9月26日(日)午後5時~5時50分    

             聖 書 詩編5編1-13節

             説教題  「主よ、朝ごとに聞いてください」

             讃美歌(21) 210 496 27 交読詩編 5    

本日の聖書 詩編121篇1-8節

 1都に上る歌。

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。

わたしの助けはどこから来るのか。

2わたしの助けは来る

天地を造られた主のもとから。

3どうか、主があなたを助けて

足がよろめかないようにし

まどろむことなく見守ってくださるように。

4見よ、イスラエルを見守る方は

まどろむことなく、眠ることもない。

5主はあなたを見守る方

あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。

6昼、太陽はあなたを撃つことがなく

夜、月もあなたを撃つことがない。

7主がすべての災いを遠ざけて

あなたを見守り

あなたの魂を見守ってくださるように。

8あなたの出で立つのも帰るのも

主が見守ってくださるように。

今も、そしてとこしえに。

     本日の説教

 1節の「都に上る歌」という表題は、毎年エルサレムで行われる三大祝祭への巡礼の旅の歌です。この詩編は巡礼の旅においてか、あるいは祭りの間の行進において巡礼者たちが用いるためのものです。この歌は、すでにあった作品をその目的のために改変が加えられて編纂された印象を与えています。一般の信徒である巡礼者たちは、過去における見守りを主に感謝し、現在と未来における主の助けを祈り求め、またそれに信頼したのです。

詩編121篇は、詩篇120~130編の「都に上る歌」の中の第二番目のものです。この歌は人生の旅路、そして人生そのものを支える信頼について語っています。

この詩は二人の人物、すなわち出発をする巡礼者と送り出す隣人の歌とも思われます。また、会衆と祭司が交互に唱える祭儀用典礼歌で、祭司が民の上に神の加護を祈る詞とも思われます。詩全体は問答による効果を出すたに、一人の巡礼者か、あるいは一つの集団によって語られたものと思われます

「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか(1節)。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから(2節)。」

この詩は、1-2節の導入で主題を掲げ、3-8節で、その主題を展開しています。導入部では、「わたしの助け」という一人称の文体で構成されています。残りの3-8節の部分は「あなた」という二人称単数形の呼びかけの文体を用いており、「見守る」ということばが六回くりかえされています。「わたしの助けは主から来る」という信仰の告白の主題が、一連の「主はあなたを見守る方」という確証によって展開されるのです。

1節の「山々を仰ぐ」とはおそらく、山賊たちのいる危険な場所なので、そのような場所に目を上げるという動作は不安の表現であり、その不安を取り除く必要を2節の「助けは主から来る」で答えたのです。

もう一つのより適切な解釈は、巡礼者たちがエルサレムへ近づき、シオンが山地に位置していることから、「山々」をエルサレムを取り巻く山々と理解する解釈です。

オリーブ山頂上(丘陵・標高825m)から、エルサレムを見た写真です。画面右上部には神殿のあるシオンの山(丘陵:標高765m)の城壁の一部が見えます。

    右の方に城壁に囲まれた神殿領域が見えます。上の方はエルサレムを取り囲む山々です。

「目を上げて仰ぐ」という動作は、聖なる山であるシオンの聖所から、主が助けをもって答えてくださることを求めてなされる、「訴え」の動作なのです。

「山々」の原語、「へハーリム」は、「ハール」の複数形に定冠詞がついた語です。ヘブライ語では、山も丘も「ハール」が用いられます。詩篇121編の「へハーリム」は、英語版の聖書では、「mountains山々」と訳しているものと、「hills丘(複数形)」と訳しているものと両方あります。詩篇121編の「山々」は標高の高い山々ではありません。山というより丘なのです。オリーブ山には、緑の木々がありますが、エルサレムの周囲の山々は、ほとんどが赤茶けた岩だらけの山です。

1節後半にある問いは、続く2節の「わたしの助けは天地を造られた主の元から来る」という宣言を引き立てる巧みな表現として読むことができます。

 「どうか、主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように(3節)。見よ、イスラエルを見守る方はまどろむことなく、眠ることもない(4節)。」

この3節は、1-2節の「わたしの助け」を受けて、「どうか、主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように」と神が不幸から守り、生命を守ってくださるように、励まし、神の加護を祈ります。

主なる神の守りは、イスラエルの民の歩みが<よろめかないように>すなわち、主の道からそれないように、という祈りなのです。

4節は「まどろむ」が主題です。「見よ、イスラエルを見守る方はまどろむことなく、眠ることもない」は一層明確な神への信頼の基礎を告げます。預言者エリヤが嘲笑して、「バアルは、おそらく眠っていて、起してもらはなければならないのだろう」(列王記上18:27)と言った、異教の偶像たちが眠る時にも、主なる神(ヤーウェ)は眠ることなく、ヤーウェの助けは常に民と共にあることを強調しています。

わたしの助けは、山々をも創造された、天地万物の創造者である主なる神のもとから来ると神への信頼を表明します。

確かに見守ってくれるものを求めて目を山々に向けるイスラエルに、山々を超越する神、天地の創造主、全能の神を求めて目を上げることを教えます。巡礼のイスラエル(共同体)とイスラエルのすべての巡礼者(個々人)が、全世界の主権者に助けと祝福を求めて頼ることができるということを語っているのです。また、旅を続ける勇気を巡礼者に与えるのは、天地の造り主の助けに他ならないことを、述べているのです。

 「主はあなたを見守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方(5節)。昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない(6節)。」

 5節は、神への全き信頼と安心を伝えます。中東の太陽は、その熱から<隠れることができるものはない>(詩篇19:7)ほどの強い熱と光ですべてを撃ちます。夜の月は近世まで人を撃って病気にするという神話的な考え方が背後にありました。主はあなたを見守る方であり、主は太陽の高熱と病をもたらすとされる月の光をさえぎる陰となってあなたを見守てくださる方です。あなたの右に立って守ってくださる方です(詩109:31)。

 6節は、神の守りがあるので、巡礼者は太陽の光と月の危険を恐れる必要はないことを言います。

 この詩の「足がよろめかないように」(3節)と「出で立つのも帰るのも」(8節)という表現は、明らかに旅を表現しています。この詩の中心部をなす5-6節は、夜と昼を旅先で過ごしている者の守りを告げる中心となっています。

 「主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように(7節)。あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに(8節)。」

7節と8節は「すべての災い」、「あなたの魂」、「出で立つのも帰るのも」、「今も、とこしえに」という包括的な表現から成っている全体の結びです。

あなたは「行くにも来るにも」神の守りの下にある。神はあらゆる危険の中で、あなたを不幸から守り、生命を守られる。あなたがどこにあっても、「今からとこしえまで守ってくださるように」、人生の始めと終わりまで、と祈りをささげます。<出で立つのも帰るのも>、すなわち出るー入るという歩みによって表現される人生の道のすべての時に及びます。「あなたの魂を見守ってくださるように」とは、この地上の生涯における守りだけではなく、天国への旅も守ってくさるのです。

詩編121篇を教会が用いるうちに、この詩を、イエス・キリストを通して現わされる神の摂理の証しとして、理解するようになりました。主イエスは、神が私たちと共にいることを証しする、インマヌエルの方であります。主イエスは、すべてを委ねて主を信頼する者にとっての魂の牧者であり、監督者となられたのです(ペトロ一2:25、フィリピ4:27)。

教会はこの詩を用いるうちに、イエス・キリストによって与えられる神の助けと守りとして理解するようになったのです。

使徒信条の、天地の造り主、全能の父なる神を信じるということは、「この方(神)が体と魂に必要なものすべてをわたしに備えてくださること、また、たとえこの涙の谷間を歩むとも、いかなる災いを受けたとしても、それらをわたしのために益としてくださることを、信じて疑わないのです。なぜなら、この方は、全能の神であられ、そのことがおできになるばかりか、真実な父として、そうすることを望んでおられるからです。私たちが逆境においては忍耐強く、順境において感謝し、将来についてはわたしたちの真実な父なる神をかたく信じるのです。

わたしたちも、周囲の山々や、富士山などの名峰を見るとき、山は天に近く、神に近い所としてとらえるのでなく、また山をご神体として自然崇拝をするのでもなく、日本の美しい山々も、パレスチナの緑の木々もない赤茶けた岩だらけの山々も、神の創造になるものであり、助けは神からのみくるのであるから、山を越えて、神に向かって目を上げましょう。そしてこの詩編のように、深い落ち着きをもって神を信頼し、創造主にして救い主である神の御手の中に生かされ、守られていることを覚え、感謝いたしましょう。

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