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富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「木に登ってイエスを迎えるザアカイ」 ルカによる福音書19章1~10節

2021-03-11 18:20:50 | キリスト教

   ↑ 「それで、彼はイエスを見るために走って先回りし、いちじく桑の木に登った。イエスがその道を通り過ぎようとしておられたからである。」

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

受難節第4主日 2021年3月14日(日)      午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

                      礼 拝 順 序 

                  司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 484(主われを愛す)

交読詩編   46(神はわたしたちの避けどころ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ルカによる福音書19章1~10節(新p.146)

説  教  「木に登ってイエスを迎えるザアカイ」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                          

讃美歌(21) 451(くすしき恵み)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                次週礼拝  3月21日(日)午後5時~5時50分    

                聖 書  マルコによる福音書10章46-52

                説教題 「盲人バルティマイを癒す」

                讃美歌(21)288 522 27 交読詩篇 16   

  本日の聖書 ルカによる福音書19章1~10節

 19:1イエスはエリコに入り、町を通っておられた。2そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。3イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。4それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。5イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」6ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。7これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」8しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」9イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。10人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

   本日の説教

 19章のイエスのエリコ入りは、18章31節に「エルサレムに上って行く」とあるので、エルサレムに向かう途上の物語です。次の20章では、子ろばに乗ってエルサレムに入場するイエスが大勢の群衆にホサナと言って迎えられる場面があります。

 主イエスの30歳頃から始まる公生涯は、福音書の記述から、3年半位いと推定されます。

【イエスは、ヨハネより洗礼を受ける。その後、荒れ野の誘惑を受ける。およそ30歳で、ガリラヤで宣教を始められた。(ルカ3:28、4:14)

1 過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。(ヨハネ2:13)

2 ユダヤの祭り(過越祭)があって、エルサレムに上られた。(ヨハネ5:1)

3 ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。(ヨハネ6:4)この時はエルサレムに上 

 らなかった。

  ユダヤ人の秋の仮庵祭に、イエスは人目を避けて、エルサレムに上った(ヨハネ7:10)

4 過越祭りの五日前、群衆は、ホサナと叫んでイエスをエルサレムに迎えた。(ヨハネ

 12:12)

  以上の記述から、過越の祭りを、四度迎えているので、イエスの公生涯はおよそ三年半と  予想されています。】

 エリコは、エルサレムへ上っていくためにヨルダンの谷を出る前に通る、最後の重要な町でした。大勢の人々がイエスに従ったので、群衆となってエリコに向って進みました。

 イエスがエリコに近づいたとき、道端に座った物乞いをしていた盲人は、群衆が通っていくのを耳にし、何事かとおどろき、「ナザレのイエスのお通りだ」と知りました(18:36-38)。

 エリコは、エルサレムから東北へ24キロほど下がった平地にある町です。この町はヨルダン川からは西約8キロの地点で、ヨルダンの谷に広がり、エルサレムに至る入口であり、対岸のヨルダン方面からの交通の要所でした。棕櫚の大きな森があり、「棕櫚の町」と呼ばれ、肥沃な土地の中心にある豊かな町で、付近に産するバルサムの香油の集散地であり、エルサレムを経由して、ユダヤや、エジプトに通じる商業道路が通じていた関係で、人や物質の往来が盛んで、経済的に豊かな町でした。エルサレム神殿に仕える祭司たちも、多くエリコに家を持ち、家族を住まわせていました。当時パレスチナを支配していたローマ政府は、このエリコに徴税所を置き、パレスチナの中心的な課税地にしていました。

  

  赤の破線は、主要な交通路を示しています。エルサレムからヨルダン川の方へ、破線をたどったところに、エリコがあります。

税を徴収する徴税人は、ローマ政府から請け負う委託業者で、請負の「さやかせぎ」を自由にできました。彼らは、ローマ政府の腐敗した徴税システムを利用し、人頭税、土地(財産)税、輸出入の通関税などをローマ人以外のユダヤ人や諸国民から、しばしば不正に高額な税金を課して取り立て、ローマ政府から割り当てられた分の金を納め、残りを自分の収入として、私腹をこやしていました。ユダヤ人たちは、このような徴税人を軽蔑し、盗人や罪人と見做し、交際を避けていました。

 ザアカイはエリコの徴税人の頭でした。ザアカイと言う名前は、「義(ただ)しい人」という意味です。彼は金持ちでした。おそらく彼は、人々から容赦のない軽蔑の目を向けられていたことでしょう。ザアカイは非常に背の低い男だったので、「自分は背が低い」という劣等感から、金で人よりもえらくなろうという気を起こしたのかも知れません。ザアカイは、金を蓄えることを人生の目的とする金に執着する人になり、大金持で、徴税人の頭という地位と財産がありながら、誰からも相手にされず、嫌われ憎まれて、話しかけてくれる人も、話しをする人もいない、孤独に悩んでいたものと思われます。

 ザアカイは、イエスという、ガリラヤ地方で有名になっている方が、徴税人たちと食事をしているという、うわさを聞いていたと思われます。そのイエスがユダヤのエリコを通られることを知って、どんな人か見たいと思い、街道に出ました。

普段でも多くの人が往来するエリコの町の大通りは、過越の祭りのためにエルサレムに向かう人たちだけでなく、「ナザレのイエス」の周りに押し寄せた大勢の群衆となっていました。ザアカイはイエスを見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られてイエスを見ることができませんでした。それで、イエスを見るために、ザアカイは走って先回りし、いちじく桑の木に登りました。いちじく桑は(スコモレア)は、葉は桑に似ているが、幹はいちじくに似た木で、幹が太く、枝が低いところから出ているので、背の低いザアカイには好都合でした。ザアカイは、人にからかわれるかもしれないことを、なりふりかまわず、ただ、イエスを見たい一心で木に登って、イエスが通られるのを待ったのです。

汚れた者として人の前に出ることを拒否された十二年間も長血をわずらっていた女の場合は、群衆がイエスを取り巻き、押し合っているなか、ひそかにイエスに近寄って、後ろからイエスの服のふさに触れていやされました(ルカ8:43-48)。

人から軽蔑されているザアカイは、人をかきわけ、イエスのそばに近づくことにはためらいがあったと思われます。しかしイエスを見るために来に登ったのは、彼のなしうる最大の努力でした。彼のイエスを見たいと言う思いは、単なる見物のためでも、物見高さや好奇心によるものでもなく、イエスによる救いにあずかりたいという思いがあったからこそ、イエスからも見えるように、いちじく桑の木に登ったのです。エリコの近くで盲人が「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けたように、叫ぶことはひかえたが、イエスのあわれみを求める思いは、同じだったのではないでしょうか。

      

      エリコの「ザアカイの木」と呼ばれている「いちじく桑の木」

 イエスはその場所に来ると上を見上げて、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われました。「ぜひ泊りたい」は、ギリシヤ語では、「泊まる義務がある。泊まらなければならない。」という表現です。ザアカイの家に泊まることは、神による救いの計画なのです。イエスにとっては、、ザアカイは救いの手を差し伸べるべく定められた存在でした。「急いで降りて来なさい。あなたの家に泊まらなければならないのだから」と、イエスはザアカイに語りかけました。

 イエスの愛の眼は、救いを求めて飢え渇いている魂を決して見逃すことはありませんでした。罪人のように民衆から差別され、孤独で寂しかった徴税人の頭ザアカイの名を呼んで、イエスは温かく語りかけてくださいました。

 ザアカイは、イエスが木の下まで近づき、ザアカイに語りかけて下さったお言葉に感激したことでしょう。急いで木から降りて来て、喜んでイエスを自分の家に迎えました。ザアカイの喜びは、人々から軽蔑されて生きてきた人間の救いの喜びです。

 これを見た人たちは、「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」と、皆つぶやきました。泥棒と同じような徴税人の、しかもその頭領の家に泊まるなどというのは、住民にとっては、もっての外のことでした。しかしイエスは、この「罪深い男」と親密な人となられ、彼の家に一泊されるのです。

ザアカイにとって、主との出会いは不思議な体験でした。その日、ザアカイの生き方が全く変えられるのです。ザアカイは立ち上がって、主に言いました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言いました。

【ファリサイ派のラビ(教師)たちは、義損金を最初には財産の五分の一を寄付していました。ザアカイは「財産の半分」と言います。また徴税人は、だまし取った金額と更にその五分の一を加えて弁償する義務がありました。ザアカイは、だまし取った金額の四倍を返すと言いました。】

自分の財産の半分を貧しい者に施し、不正な取り立てをしていたら四倍にして償うというザアカイの申し出は、律法による要求以上のものを弁償しようとすることでした。

エリコの町の嫌われ者であり、のけ者にされ、無視されていた彼の家に、立ち寄り泊ってくださるイエスの愛に触れたとき、ザアカイは愛される幸せに満たされただけでなく、これまでの自己本位の生き方、自分の罪深さも自覚させられたのです。

罪深い自分をも見捨てず、自分を愛してくださり、そのような自分のために今、エルサレムに上り、十字架に架かって自分を救うとするイエスに出会ったとき、イエス様に喜ばれるなら、蓄えていた金を投げ出すことも惜しいとは思わなくなったのでした。

イエスにお会いすることによって、ザアカイは失っていた人を思いやるあたたかさを回復し、貧しい人々を思いやる愛の人に生れ変わりました。今まで、ただ税金を取り立てる相手に過ぎなかった民衆は、彼にとって今や思いやる隣人に変わったのです。彼は今まで彼の孤独を唯一支えていた財産を放棄することを主イエスに告げ、そして主に従う者となるのです。

イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」

「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われたイエスは、「今日」救いがこの家に訪れたと宣言されます。「今日」が重ねて強調されています。救いが、今日、今ここに臨んでいるのです。「この家」とは、ただザアカイのみではなく、彼の家族、使用人のも及ぶ人達です。その人たちにまで救いが訪れるのです。イエスはザアカイを現在の職業によって見るのではなく、彼の生まれ変わった信仰に基づいて、「アブラハムの子」と見ます。それは血筋や律法の業によって「アブラハムの子」とされるのではなく、イエスを信じる信仰により、アブラハムの子となり、神の祝福を受けるのです。

「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」とイエスは言われます。

「失われたもの」とは、イスラエルの家の失われた者の意味ですが、イスラエルの家の者たちだけでなく、人が神から離れているとき、それは失われた存在です。主イエスは神から委託を受けて、失われた者たちを追い求めて、捜し出し、救う方であるからこそ、いちじく桑の木に登っているザアカイを見逃しませんでした。ザアカイがイエスを自分の家に迎えた時、救いが彼のもとに訪れました。ザアカイのイエスを見ようとした一心が、その熱心さが、報われました。そこには見えざる神のめぐみの導きがあったからこそ、イエスとの出会いが実現したのです。

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