富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「わたしはまことのぶどうの木」 ヨハネによる福音書15章1~11節

2018-04-28 22:30:45 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

             日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

            復活節第5主日 2018年4月29(日) 午後5時~5時50分  

       礼 拝 順 序

                司会 佐藤 洋子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 404(あまつましみず)

交読詩編   95(主に向かって喜び歌おう)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) ヨハネによる福音書15章1~11節(新p.198)

司会者祈祷

説  教  「わたしはまことのぶどうの木」 辺見宗邦牧師

祈 祷              

讃美歌(21) 517(神の民よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷  

後 奏 

                                次週礼拝 5月6日(日) 午後5時~5時50分

                                聖書 ヨハネによる福音書16章12~24節

                                説教題   「父のみもとへ行く」

                                讃美歌(21)474 336 24 交読詩編15篇

本日の聖書 ヨハネによる福音書15章1~11節

 15:1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

            本日の説教

   ヨハネによる福音書13章から17章までは、最後の晩餐の席で、イエスが弟子たちの足を洗うという出来事が最初にあり、その後、イエスの別れの説教(14-16章)、17章では後に残る弟子たちのためのとりなしの祈り(大祭司の祈り)で終わります。イエスは十字架の死を前にして弟子たちへの愛にみちた親密な交わりの中で、御自身の真の姿とその使命を告げ、その死による救いの完成、また新しい愛の掟による弟子たちの共同体のあり方などを教えます。13章、14章では、イエスの言葉はペトロやトマス、あるいはフィリポやユダなどとの対話の形で述べられてきたが、この15章では、イエスの直接の語りかけ、宣言という形で最後のことばが語られます。

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」(15:1-3)

   イエスは、<わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である、……あなたがたはその枝である>と語られ、ぶどうの木を象徴とする説話が始まります。「わたしは……である」の七番目の宣言です。これまで、生命のパン(6:35)、世の光(8:12)、羊の門(10:7)、良い羊飼い(10:14)、復活であり命(11:25)、道であり真理であり命(14:6)と宣言してきました。ヨハネ福音書独特のイエスのメシア的自己確信の言葉です。ぶどうはオリーブと共にパレスチナ地方では、いたるところで栽培された植物なので、聞く者にとっては実に身近なたとえでした。そして旧約聖書はイスラエルの民を、しばしばぶどうの木にたとえました(詩篇80:8-15、イザヤ書5:1-7、エゼキエル書15:1-6など)。ぶどうの木はユダヤ民族の象徴でした。しかし、イスラエルは神の期待に反して、悪しき実を結ぶ野ぶどうとなってしまったのです(エレミヤ書2:21)。イスラエルの民は自分たちが神の選びの民であり、神の祝福の継承者であると誇っています。しかしここでは、「ぶどうの木」がイスラエルではなくイエス自身をさす言葉として用いられています。ここに旧約との対比があります。神の約束を真実に受け継ぐ者は、イエス御自身であり、イエスにつながる者たちです。したがってイスラエルの民であることが救いの条件なのではなく、イエスにつながることによって、救われ豊かな実を結ぶようになる、と言われているのです。

 イエスは、<まことのぶどうの木>と言われます。<まことの>は、不完全に対する完全、あるいは純粋を意味します。<まことのぶどうの木>は、実や命を生み出すことのできる完全な木です。<わたしはまことのぶどうの木である>―これは呼び掛けであり、宣言です。イエスはまことのぶどうの木であり、イエスの父はそのぶどうの木の所有者であり、その成育を自由になし得る審判者でもあります。実のならない枝は切り捨てられ、実のなる枝は手入れされ守られるのです。エスは、唯一の命の木であり、イエスにつながっていなければ実を結ぶことはできません。それは不完全な信仰、未熟な信仰を指しているようです。危機に直面してもなお、イエスをキリストと告白し、神と信じる者は<豊かに実を結ぶように>なります。ここには、信仰の成長ということも、視野に入れられているようです。信仰は、絶えず前進していくことによって、実りをもたらすのです。そして、イエスの言葉、福音を聞く者は、<既に清くなっている>のです。

 「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」(15:3-4)

   絶えず、イエスに<つながって>いることが命じられます。<つながる>は、「とどまる」「宿る」という意味を持つ語です。イエスはまことのぶどうの木、父は農夫、そしてあなたがたは枝であると語られ、父なる神、子なるキリスト、そしてキリスト者の関係が明らかにされ、その一体性が強調されています。イエスが父にとどまり、一体であるように、弟子たちも、イエスにとどまって一体性を示していかなければなりません。そのことによって、信仰の実を結んでいくのです。この勧めは、信仰にとどまれという主の命令であり、呼びかけです。キリストはぶどうの木として、わたしたちに関係を持ち、わたしたちひとりひとりをその枝として結びつけてくださるのです。枝であるわたしたちは、自らの力で立ち、育ち、生きるのではありません。しかしわたしたちは、しばしば自分に頼り、人間の力と頭脳に望みをかけ、自己の意志に依り頼んで生きようとします。

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(15:5)

 <わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である>とくり返されるこの宣言は、したがって愛と信頼にみちた祝福のことばなのです。信仰とは自分ひとりで力んで得るものではなく、主の愛と恵み、特にゆるしを覚える時、わたしたちひとりひとりのものとなるのです。主を裏切ったペトロに、復活の主があらわれ、彼の裏切りを赦して、再び「わたしに従って来なさい」という招きに応えて、ペトロは復活の証人としての歩みを全うすることができました。イエスを<離れては……何もできない>ことが確認されます。弟子は、人間的な資質によるのではなく、キリストによって力を与えられ、キリストの業を継続するのです。

 「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」(15:6)

 イエスに<つながっていない人>が裁かれることが告げられます。啓示者であるイエスを信じるか否か、そしてイエスにとどまり続けるか否かによって、救いか滅びかに分かれてしまいます。このきびしい警告は、ユダの裏切りの罪を示しているようです。ユダは最後の晩餐の席から離れて、イエスを銀三十枚で敵方に売るために、夜のやみの中に消え去りました。彼はイエスにつながれた枝の一つでしたが、イエスを離れたために実を結ばず、悲惨な最後をとげました(13:30)。

  「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(15:7-8)

 イエスに<つながっており>、イエスの言葉を守る者の祈りを、イエスが聞き届けることが語られます。<望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる>とあります。そしてイエスに従う者がキリストのことばにしっかり結びつき、多くの実を結ぶ時、栄光をお受けになるのは父なる神です。豊かな収穫は農夫の名誉であり、喜びであるように、キリストの御業の輝きは、父なる神の栄光にほかなりません。

 他の人々を神に招き、その人々の心の中にイエスの光と命とが入ることは、イエスの御名とその恵みによって生きる者たちに可能な、神の栄光を現す行為です。神の栄光をあらわす業となることこそ、キリスト者の活動の目標であり、ここにキリスト者の光栄があります。

 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(15:9-10)

 イエスは新しい愛の掟を定めました(13:34)。それは、父の子に対する愛、子の弟子に対する愛に基づくものです。父が子なるイエスを愛されたように、イエスは弟子たちを愛されました。そして<わたしの愛にとどまりなさい>と呼びかけます。この愛の関係は具体的には、弟子たち相互の愛へと進展し、主イエスの愛の掟を守ることになるのです。イエスが父の掟を守り、父の愛の中に生きたように、キリスト者もキリストの愛の戒めに服従することが求められます。主の愛のうちにある者が主の戒めを守るのであり、両者は密接に結合しているのです。掟を守り、イエスの愛にとどまることは、父と子の神的結合への弟子たちの参与をもたらすのです。そして、この地上において、イエスの愛にとどまっていることを示すのは、共同体内における弟子たち相互の愛なのです。

 「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」(15:11)

 ぶどうの木のたとえを通して主が話された目的は、「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」と明らかにされました。愛の戒めは、人間にとっては困難なことであり、不可能なことです。人間は本来、自分しか愛さない、いやその自分さえ、本当に愛することはむずかしいのです。しかし、「主は、わたしのためにいのちを捨てて下さった。それによって私たちは愛ということを知った」(1ヨハネ3:16)。「ここに愛がある」(同4:10)。このようにキリストの愛は生々しい現実の出来事であり、事実です。そこから<あなたがたも互いに愛し合いなさい」(同12節)、という戒めが与えられるのです。イエスの弟子たちに対する愛の事実が、弟子たちの相互の愛を生み出すのです。人間的には不可能であることが、悔い改めと祈りを通して命じられ、聖霊の働きによって可能なこととされるのです。愛の戒めは弟子たちに重荷を負わせるためのものではなく、イエスの喜びが弟子たちの喜びとなり、弟子たちの喜びを完成させることにありました。主イエスはわたしたちに、神に愛されているという喜びと共に、それに基づいて人を愛することができるという喜びを教えられました。

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