富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「復活顕現」 ヨハネによる福音書20章19~31節

2018-04-05 12:54:52 | キリスト教

        ↑ 富谷教会入口の桜

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本キリスト教 富 谷 教 会 週 報

年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

   復活節第2主日 2018年4月8(日) 午後5時~5時50分  

       礼 拝 順 序

                司会 佐藤 洋子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 204(よろこびの日よ)

交読詩編  145(わたしの王、神よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) ヨハネによる福音書20章19~31節(新p.210)

司会者祈祷

説  教   「復活顕現」      辺見宗邦牧師

祈 祷              

讃美歌(21) 197(ああ主のひとみ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷  

後 奏 

           次週礼拝 4月22日(日) 午後5時~5時50分

           聖書 ヨハネによる福音書10章7~18節

           説教題   「まことの羊飼い」

           讃美歌(21) 459 24 交読詩編23編

  本日の聖書 ヨハネによる福音書 20章19~31節

 20:19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 20:30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 20:31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

    本日の説教

 週の初めの日、すなわち日曜日の朝早く、マグダラ出身のマリアが朝早く、主イエスが葬られた墓に行くと、横穴式の墓の入口を閉じた石が取り除けてあり、イエスの遺体がだれかに取さ去られたと思い、それをシモン・ペトロとヨハネに伝えました。ペトロとヨハネは墓へ走って行き、墓穴に入り、イエスを包んだ覆いの亜麻布だけが置いてあり、墓穴には遺体はなく、空虚であることを確認して家に帰りました。

 マリアは墓の外に立って泣いていました。このマリアに復活されたイエスが現れ、弟子たちのところへ行って、イエスは天の父のもとへ上っていくことを知らせなさい、とマリアに命じました。マリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主をみましたと告げ、主から言われたことを伝えました。

 その日の夕方のことから、今日の聖書の箇所は始まります。弟子たちはイエスのイエスの死によって失望し、大祭司や最高法院の迫害を恐れ、逮捕されればイエスと同じように十字架につけられることを恐れ、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。一緒に集まっていた弟子たちのところへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和(平安)があるように」と言われました。イエスの与える平安は、日常的な挨拶の言葉としての平安ではなく、「イエスの与える平和は、世が与えるように与えるものではない。あなたがたは心を騒がせるな。おびえるな」(14・27)と言われています。神が共にいてくださることによって与えられる特別な平安です。最後の晩餐の席での訣別(告別)説教で、このように言われた後、「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」(14・28)と言われた約束が、ここで実現したことになります。

  イエスは弟子たちに、手とわき腹とをお見せになりました。手には釘の跡があり、わき腹には槍で刺された傷跡がありました。十字架の上で人々の罪のために身代わりとなって死んでくださったイエスが復活されて現れたのです。弟子たちは、イエスが死によって奪い去られたのではなく、新しい復活の命をもって彼らの前に現れたことを喜びました。もはや彼らはユダヤ人を恐れて、隠れている必要がなくなったのです。

  訣別の説教でイエスが、「このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあながたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない」(16・23)と約束された言葉が実現しました。

  イエスは重ねて言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」主は弟子たちに、この世への宣教の派遣を命ぜられました。父なる神が、御子イエス・キリストに託された宣教の業が、今度は、復活の主によって弟子たちに託されたのです。そう言ってから、イエスは彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」「息を吹きかけた」という言葉は、創世記での人間創造の記事(2・7以下)で、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた」という言葉を想起させます。イエスの弟子たちは、復活の主イエスにより、聖霊が与えられることを通して、弟子たちは罪と死の支配から解放され、神の子である身分と永遠の命に生きる新しい人間に再創造されるのです。

  イエスは弟子たちに聖霊によって執行される罪の赦しの権威を与えます。この権威は父なる神が子なるイエスに託しておられる権威です(5・19)。聖霊の導きと、聖霊の力により弟子たちは、確信をもって、罪の赦しを告げ知らせ福音を宣べ伝えることができる者とされたのです。

  十二人の弟子の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいませんでした。<ディディモ>とは双子のことです。彼が双子の兄弟の一人であることから呼ばれた通称です。トマスは、イエスが病気で死んだと思われるラザロのところへ行こうと言ったとき、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(11・16)と言った人物です。また、イエスの訣別の説教の時、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません」(14・5)と言いています。トマスは主イエスと共に死ぬ覚悟であり、死がすべての終わりであるという人生観を持っていたようです。

  ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。トマスは弟子たちの証言にもかかわらずイエスが現れたことを信ずることが出来ませんでした。イエスが弟子たちに現れたとき、イエスは手とわき腹とをお見せになったことを聞いたからでしょうか、トマスは自分の目でイエスの手に釘の跡を見、わき腹に槍の跡を見て、自分の指をその跡に入れてみなければ決して信じない、と言ったのです。トマスは実証的な証明を求めたのです。このトマスの態度と言葉から、疑い深いトマスとか、不信のトマスと非難する呼び名が生まれました。しかし、直接自分の目で見て、確かめなければ信じられない、というトマスの態度を、一概に懐疑的とすることはできないのではないでしょうか。しかもトマスは死がすべての終わりだという考えを持っていたので、なおさらイエスの復活を信じることができなかったはずです。

  この八日の後、ちょうど一週間後の日曜日、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいました。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。トマスは復活されたイエスを信じられない心のまま、弟子たちの群れの中にとどまっていました。そのトマスに、イエスは「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と呼びかけられました。マグダラのマリアの場合は、「すがりつくのはよしなさい」とイエスは言われました。マリアは甦ったイエスを手で触ることが出来ると思ったので、その間違いを教えたのです。釘跡に手を入れてみなければ信じられないと語ったトマスには、その要求をそのまま主イエスは受け入れられたのです。この場面を、画家のカラヴァッジョ(イタリア人画家)は「聖トマスの懐疑(1601-02年)」の絵で描いています(イタリアのフィレンツェ、ウフィツィ美術館所蔵)。

  

  この絵では、トマスがイエスのわき腹の傷跡に指を入れています。しかし、聖書の記述では、トマスは主イエスの言葉を聞いて、「わが主、わが神よ」と信仰を告白しています。自分の前に立たれるイエスの臨在にトマスは圧倒され、驚き、感謝したのです。トマスは、自分のために現れてくださった復活のイエスを見て、この方は神だと直感したのです。トマスは、最初自分は師であるイエスのために死ぬことのできる人間でありたいと志していました。ところが、その師が十字架に付けられた時、師を捨てて逃げた人間であり、そのような罪深い自分のために、主の十字架は、自分の罪の赦しであることに気付かされました。トマスはイエスの復活を信じただけではなく、もっと深く、イエスが生きておられる神であり、自分の罪を赦してくださっている主であることを告白したのです。このとき「死ですべてが終わる」というの固定観念からトマスは解放されました。

  イエスはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。イエスの弟子であったトマスは、復活されたイエスが現れてくださったことによって、イエスに対する信仰を告白することができました。しかし、彼以後の人々は、イエスの弟子たちの証言を通して、宣教の言葉を通して信じなければなりません。イエスは、そういう人々こそ、トマス以上に幸いなのだと、祝福を約束されたのです。

  今も生きておられるイエスに向かって「わが主、わが神」と信じる者は、「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくとも信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれ」(ペトロ一、1・8)、キリストとの霊的交わりを与えられ、信仰の実りと魂の救いを受けているのです。

 マタイ、マルコ、ルカの共観福音書では、生前のイエスが弟子たちを神の国の権威を与えて伝道に派遣する記事が出ていますが(マタイ10・1-4、マルコ3・13-19、ルカ6・12-16)、ヨハネ福音書では、十字架と復活の後に初めて弟子たちの派遣、権威の委託が起きています。これは十字架と復活の後でなければイエスの本当の姿はだれにも分からず、十字架と復活に出会って始めて弟子たちがイエスが神の子、救い主であることが分かり、福音を正しく宣べ伝えることができるようになったことを示しています。この福音の御言葉を聞くことから信仰は始まるのです(ローマ人への手紙 10・17)。そこに神からの聖霊の働きがあり、今も生きておられる主イエスを「わが主よ、わが神よ」と呼びかける信仰が与えられるのです。

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