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「日本の茶道へ及ぼしたキリスト教の影響」

2016-09-22 12:16:39 | キリスト教

  「日本の茶道へ及ぼしたキリスト教の影響」 

                                                      茶道裏千家終身正会員    辺見宗邦(むねくに)(茶名:宗邦(そうほう))

 1 「茶の湯」と「茶道」と言う言葉

   茶を飲む風習は、奈良時代に遣唐使や中国から日本へやってきた僧たちによってもたらされました。「茶の湯」という言葉が使われるようになったのは、15世紀半ば(応仁の乱前)頃からと言われています。それまでは「茶(ちゃ)湯(とう)」という用語が用いられていました。16世紀に入ると「茶の湯」が庶民にひろまり、中国的な名称の「茶湯」という言葉は次第に使われなくなりました。江戸時代初期になると、茶の湯は場所や道具よりも精神性が重視されるようになり、単なる遊興や儀式・作法でしかなかった茶の湯が、わびと云う精神を持った"道"に発展し、「茶道(さどう)」と呼ばれるようになりました。このように中国から伝えられた茶の風習は、日本で独自の発展を遂げ、日本の風土や日本人の心情に合った伝統文化としての茶道となりました。「茶道」は正称で、「茶の湯」は雅称ないし愛称とされ、両者が併用されて今日に至っています。最近では「茶道」は稽古、すなわち修行に、「茶の湯」はもてなしに重きをおいた表現として用いられてます。

 2  茶の湯とキリスト教の出会い

    茶の湯とキリスト教との最初の出会いは、安土桃山時代、和泉(いずみ)(国(のくに))と呼ばれていた大阪府の堺市で始まりました。日本に初めてキリスト教を伝えたザビエルが堺の茶人日比屋了慶(ひびやりょうけい)(了桂)の家を訪ねたことに始まります。現在堺市には、天文19年(1550年)に堺に来たイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルを、手厚くもてなした豪商・日比屋了慶の屋敷跡につくられた「ザビエル公園」があります。毎年10月の第3土日に開催される「堺まつり」では、堺の表千家、裏千家、武者小路千家が一堂に会した「利休のふるさと・堺大茶会」の会場となっています。このザビエル公園から真南に五百メートルほどの所に、堺の商人で茶道を大成した千利休(1522年生、1591年没)の屋敷跡(宿院町西一丁)があります。また、ザビエル公園の近くには、キリシタン大名として有名な小西行長の生家跡や同じく堺の豪商で千利休の茶道の師である武野紹鴎(1502年生、1555年没)の屋敷跡があります。

    カトリック教会の修道会の一つである、イエズス会員のフランシスコ・ザビエルは布教のため、東インド(ポルトガル領インド)に派遣されましたが、マラッカで、日本人アンジローと出会い、アンジローを案内役として、同僚のトルレス(神父)、フェルナンデス(修道士)を伴い鹿児島に上陸したのは、天文18年(1549)8月15日のことでした。

    ザビエルは、天皇に謁見し、布教の許可を得たいとの思いから、上京のため船旅に出ます。天文19年(1550)の暮れ、ザビエルが堺の町に入ったとき、その面倒を見た人が、堺の豪商であると同時に、茶人でもあった日比屋了慶の父でした。了慶は貿易にたずさわり、当時珍しかった瓦葺き木造三階建ての屋敷に住む大豪商でした。京都へ行ったザビエルでしたが、応仁の乱(1467~1477年)による戦禍で京都市中は焼け野原であり、後奈良天皇の権威は失墜し、布教の許可を得ることも出来ず、わずか11日の滞在であきらめて堺へ帰りました。それから1ヶ月あまりザビエルは了慶の屋敷に滞在しました。当然、茶の湯のもてなしを受けたものと思われます。ザビエルは日本滞在2年3ヶ月で中国に向かいます。

 3 ザビエル以後の宣教師の活動と茶の湯の関わり

    ザビエルが日本を去った後、八年後の永禄二年(1559年)十月には、ヴィレラ神父が堺の町にやって来ました。このときのヴィレラにはロレンソ、ダミアンなど三人の日本人が従い、彼らが通訳をかねていました。了慶はこのときも布教を応援しました。永禄4年(1561年)八月にヴィレラが再び堺の地にやって来ました。了慶の屋敷は櫛屋(くしや)町にありましが、屋敷内の三階建の建物を、了慶は聖堂にあてて宣教師を宿泊させ、自らも洗礼を受けて洗礼名をディオゴと称し、日比屋家の人々もそのほとんどが入信しました。それ以来一年間、ヴィレラは日比屋家に滞在し、日中は布教に当っていました。1563年12月には、了慶」の屋敷でクリスマスが行われたといわれています。永禄7年(1564年)十二月になると、今度はアルメイダとフロイスが豊後からやって来ましたが、これを迎えたのもやはり了慶でした。アルメイダが、同年の暮に、北河内(きたかわち)の飯盛城に滞在するヴィレラに会うため堺を離れることになったときなどは、了慶はアルメイダを茶事に招いて別れを惜しんだと言われています。こうして了慶は堺における切支丹の先駆であったと同時に、多数の茶人を切支丹に導く上でもおおいに力を尽したのでした。

    ザビエルが了慶の家に滞在した時、利休は28歳でした。利休も堺の商人です。了慶の屋敷から500mの所に千利休の屋敷がありました。了慶と利休は茶人仲間であり、互いの交流がありました。了慶の屋敷内の聖堂で、宣教師が畳の上でミサの儀式を行うのを見て、そのミサに強い影響を千利休は受けたと思われます。

 4 日比屋了慶の家でのキリシタン茶会

    了慶の家でキリシタンとしての茶の湯が行われていたことは、ルイス・フロイの「日本史」に記されています。茶の湯と西洋人が(それは宣教師でありましたが)初めて出会った感想が書き残されています。時は1565年2月、堺の商人日比屋了慶の屋敷にはルイス・アルメイダという碧眼の修道士が逗留しており、日比屋了慶の家は堺のキリシタンの中心となっていました。都をめざしていたアルメイダ修道士はひどい風邪のため、日比屋の家で一ケ月療養し、いよいよ出発という時、了慶は茶会を催(もよお)して送りました。アルメイダ修道士はこのように書き残しています。

   【これが行われる場所は、この儀式のためにのみ入る特定の室で、その清潔さ、造作、秩序整然としていることを見ては驚嘆に価します…私たちがきわめて清潔な敷物である優美な畳の上に坐りますと、食事が運ばれ始めました。日本は美味の物産が乏しい国ですから、私は差し出された食物を賞讃しませんが、その席での給仕、秩序、清潔、什器は絶賛に価します。そして私は日本で行われる以上に清潔で秩序整然とした宴席を開くことはあり得ないと信じて疑いません。と申しますのは、大勢の人が食事をしていても、奉仕している人々からはただの一言さえ漏(も)れ聞こえないのであって、万事がいとも整然と行われるのは驚くべきであります。食事が終ってから、私たち一同は跪いて我らの主なるデウスに感謝いたしました。こうすることは、日本のキリシタンたちの良い習慣だからです。ついでディオゴ(了慶の洗礼名)は手ずから私たちに茶を供しました。それは既述のように、草の粉末で、一つの陶器の中で熱湯に入れたものです。】(ルイス・フロイス『完訳フロイス日本史1』中央公論社、2000年 255頁以下)

    西洋人が初めて茶会に招かれた時に感動が、このアルメイダの手紙から伝わってきます。キリシタン日比屋了慶の茶会は、いわゆる懐石料理・感謝の祈り・亭主による手前の順に進んでいまして、キリシタンたちが中立ちの時に祈祷会をもっていたことがわかります。これは清潔で整然とした儀式のような茶の湯に、キリスト教の宣教師が驚きをもって出会ったということです。

 5 千利休(せんのりきゅう)(1522~1591)とキリスト教

    キリスト教が日本に伝わって来た時代と、茶道が確立された時代はほとんど重なります。客とともに抹茶を楽しむ茶の湯は、鎌倉時代に宋から伝えられました。中国(宋)で臨済禅を学んだ栄西が茶の種とともに、茶の湯の道具、礼式を持ち帰ったことから、寺院での茶の儀式が行われるようになりました。それ以来、茶の湯は禅宗と結びついて発展しました。

    室町時代には書院の茶となり、戦国時代には、単なる遊興や儀式・作法でしかなかった茶の湯が、武野紹(じょう)鴎(おう)により、唐物の高価な茶器のかわりに日常雑器を茶の湯に取り入れた、質素な茶室で静かに茶をたのしむ「わび茶」が生まれました。

    安土桃山時代になって、わび茶の大成者となる千利休が茶の湯の世界に登場し、活躍を始めます。当時茶の湯は武士の嗜(たしな)みであり、客人をもてなす社交として重んじられていました。利休は17歳で茶道を志し、58歳の時信長に茶頭(ちゃがしら)として仕え、続いて70歳まで秀吉に茶頭として仕えました。静けさの中にも活動力を潜めた侘(わ)び茶は、戦国の世にあって下剋上の気風を求めた活動的な武士に支持されました。キリスト教の伝来と普及の時代だったので、多くのキリシタン大名が生まれました。1553年(天文21年)から,1620年(元和6年)の67年間に、キリシタンになった大名は87人(洗礼名が分かる大名は66人)に及びます。当時のキリシタン人口は15万とも22万とも言われ、キリシタン大名が三割に達していました。利休の七人の高弟のうち、明らかに高山右近、蒲生(がもう)氏(うじ)郷(さと)、牧村兵部(ひょうぶ)の三人はキリシタン大名でした。古田織部はキリスト教の理解者でした。このようにキリスト教の広まりが茶道に影響を与えたのは当然のことと思われます。

    了慶の屋敷で宣教師が行うミサの儀式を観察したと思われる利休は、ミサという「聖なるもの」と同一になるという精神性に、自分の進むべき道を見出し、自らの茶の湯の中心にその所作を取り入れたのではないかと推察されています。利休の考案したにじり口は「狭き門より入れ」という言葉を想起させますし、世俗と切り離された茶室という空間で、身についた全てを捨て去り、ただ亭主と客というだけの関係の中で、茶の湯の亭主は、さながらミサにおける司祭のごとく儀式を司っているようにも見えます。

    宣教師として日本に来ていたフロイスやロドリゲスは京都や堺や安土で、利休をはじめ多くの茶人と親交をもちました。彼らは茶道の影響を受けました。ザビエルから三十年後に来日した巡察使のヴァリニヤーノは、すべてのカザ(修院)に茶の湯の場所を設け、かつ茶の心得のある日本人の同宿(宣教師に補佐する役)を置かなくてはならない、特に立派な人々が集まるところではそうするようにという通達を出しました。

 6 ミサと茶の湯のどんなところが似ているのか

    武者小路千家14代家元千宗守氏は、かつてヨハネ・パウロ二世教皇あての書簡に,「私は京都のカトリック系の学校に通っていたころを思い出します。すでに茶の湯の心得があったので、チャペルでのミサに出席するときも、茶道との共通点を少なからず発見しました。…司祭だけでなくキリシタンの武士や商人を相手に、千利休が語りあう機会は多かったはずです。妻(後妻(ごさい)おりき)と家族(娘)も信者であり、ミサにあずかっていたと思われます。ただし自身は、利休がキリスト教徒だとは公言していません。…茶道への新たなとりくみを模索していた千利休は、ミサという最後の晩餐の再現に深い感銘を受けたのだと、私は考えます。」と書いています。個々の所作において、双方がそっくり同じであるというわけではありません。千利休は、ミサにおける個々の所作を真似たというよりは、ミサの所作に触発されたものを、茶の湯の点前の流れに合うように取り入れていったと言うのが正確かもしれません。どのようなものがミサにおける所作と似ているのかローマ・カトリック典礼書をもとに見てみましょう。茶の湯では、まず亭主が食籠(じきろう:菓子器)を持ち出し、食籠を主客に預け客は食籠に盛った菓子を取り回していく作法があるわけですが、ミサにおいてもパテナ(聖体皿)に置いた聖体(水と小麦粉だけで作られた「種なしパン(イースト菌の入っていないパン)」)を取り回しして頂く所作があります。茶の手前では、茶碗の中に茶巾を入れ、茶筅を真ん中に入れ、その右に茶杓を伏せて置き、仕組んで、茶室に運び出しをするわけですが、ミサにおいてもカリスと呼ばれる杯を仕組んで運び出しをします。濃茶の作法で男子同士の場合、茶を頂いた後茶碗と出し(だし)袱紗(ぶくさ)を畳の上に置き、右手で懐紙で飲み口を拭き、次客に手渡しますが、ミサにおいてもカリスの飲み口を拭いて順次手渡していく所作があります。この濃茶の飲み回しの事を「吸い茶」と言いましたが、この「吸い茶」は利休が始めたとされています。利休がまだ27歳の天文17年の頃は、濃茶の飲み方は、決して飲みまわすものではなく、一人一人への各腹だてでした。「吸い茶」の記録は、天正14年の茶会記に初めて出てくるのです。
 また、帰ってきた茶碗に湯を入れ回してすすぎ、湯を建水に捨ててから、茶巾で茶碗を拭きますが、ミサにおいても拝領が終わったあとパテナを拭き、カリスに水を注いですすぎ、プリフィカトリウム(清掃布)で拭く所作をします。他にも、茶道のしぐさの多くはミサのしぐさと共通したものが多くあります。利休は、茶室を世のものから分離された静かな場所、身分に関わらず誰もが平等で、互いを尊敬しあうところにしようとしましたが、それはキリスト教の精神に基づいてのことでした。

    千宗守氏はバチカン宮殿で先のローマ法王ヨハネ・パウロ二世に謁見したとき、「茶の湯の中心であります濃茶席における飲み回しというものは、利休が堺においてキリシタンバテレン(神父)の行うミサの儀式を取り入れたものである」という説を述べられたとのことです。これはミサのおり、ぶどう酒のカップを、司祭と助祭とで回し飲みすることからヒントを得たものでしょう。

   茶道裏千家の先代家元、千宗室氏は、茶庭の二重路地は、利休が秀吉に仕えた10年間に考案されたとし、茶室のにじり口は利休の創作だと言われています。露地の中門も狭い門であり、にじり口も狭い入口です。「狭い門から入れ」(マタイ福音書7:13)の聖書の言葉に通じると言っています。

 7 キリシタンの茶道具

    キリスト教と茶の湯は、想像以上に密接な関係をもっていたと言えます。ホスチア(=聖餅)とよばれる小さな丸い種無しパンを入れる聖餅箱に蒔絵を用いたり、調度品をはじめ彼らの好みのものを職人に作らせることによって、南蛮の意匠、思想が取り入れられ、東西文化の融合の結晶として新たな工芸品が生まれました。それらが茶人たちに影響を与えたことは否定できません。教会あるいはキリスト教を信仰する大名の特注茶道具、洗礼盤、聖水瓶、燭台、向付、皿などが作られ、十字架文(もん)(印)が明瞭に描かれています。古田織部の指導で作られた織部焼には、十字のクルス文、篦(へら)彫りの十字文が茶碗・鉢に施されています。 また、織部灯籠は、「十字灯(どう)籠(ろう)」または「切支丹(きりしたん)灯籠」とも呼ばれています。

 8 キリスト教への弾圧と払拭

  以上考察してまいりましたように、キリスト教は日本の茶道に大きな影響を及ぼしたことは否定できません。しかし、慶長7年(1612年)徳川幕府によるキリシタン禁教令の発布により、260年に及ぶ日本全土へのキリスト教の弾圧と排除により、茶道に及ぼしたキリスト教の影響も全く払拭されたかに見えました。明治6年(1873年)になり、キリシタン禁制の高札は撤去され、ようやく茶道に及ぼしたキリスト教の影響が取り上げられるようになりました。今日、茶道にキリスト教が深く関係していることを、裏千家、武者小路千家等のお家元も公に認めるようになりました。

 9 おわりに

  キリスト教は、その精神面でも茶道に大きな影響を与えているのです。かつての切支丹(きりしたん)の茶人たち、特に高山右近のように、キリスト教の精神に根ざした茶道を復活させたいと心から願わざるを得ません。主イエスが最後の晩餐で弟子たちの足を洗い、仕えたように、亭主が客に徹底して仕える茶の湯の道は聖書に通じています。キリスト者が茶の湯に親しみ、床に聖書のみことばが書かれた掛け軸を掛け、神のみ声に耳を傾ける霊的な聖潔の場とすることは、茶道の精神にかなうものです。茶花を野にある花のように花入れにかざり、「野の花を見よ」と言われたイエス様のことばを思い起こし、また、静寂のうちに、一椀のお茶を共に一座の人と味わい、神が共にいます恵みに感謝する、そのような交わりの場、親交の深め方がなされてこそ、今後の茶道の隆盛があり、発展があるのではないでしょうか。

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