富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

聖(きよ)めの式

2016-09-17 10:14:59 | キリスト教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日    本キリスト教 富 谷 教 会

  聖潔(きよめ)の式    2016年9月16日(金)午前10時30分~11時

 前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

招 詞 「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。(イザヤ書57:15)

讃美歌(21) 451(くすしき恵み)

主の祈り

受聖者の願い              田中恵子姉

聖 書  ローマの信徒への手紙6章3節~11節(新共同訳p.280)

勧 め   「聖霊により聖なる者とされる」 辺見宗邦牧師               

按 手              辺見牧師・武田牧師

独 唱                  田中恵子姉

讃美歌    「御手の中で」

感謝祈祷                 田中恵子姉

祝 祷                 

後 奏  

  

 出席者:武田和弘牧師、田中恵子姉(し)、田中翠(みどり)姉、伊藤蓮(れん)兄(けい)、他。

呈 茶 聖潔(きよめ)の式の後、茶室(天心庵)で、祝いのおもてなしがあります。

 本日の聖書 ローマの信徒への手紙6章3節~11節

 3それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。 4わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです 5もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。 6わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。 7死んだ者は、罪から解放されています。 8わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。 9そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。 10キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。 11このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

 勧め

 茶室の床の間には、大阪のみとキリスト教会牧師で現在聖句書道センター主宰の佐藤義行牧師に揮毫(きごう)していただいた掛け軸をかざっています。先生の雅号は望雲(ぼううん)です。次のようなことばを書いていただきました。ローマの信徒への手紙6章4節のことばを短くしたものです。

「わたしはキリストと共に死んだ。 今、わたしはキリストの復活にあずかって、新しい命に生かされている。」ロマ書6・4 

 洗礼は、キリストの死と復活にあずかる式です。信仰生活を続けていくうちに、道からそれることもあるでしょう。そのときには、いつもこの洗礼を受けた時に戻って、そこから再スタートするのです。洗礼の時に、キリストと一体とされたことが、人生のスタート点でもあり、またゴール地点でもあるのです。田中姉は洗礼をご主人と共に教会で受けられましたが、イエス様の十字架の死が自分の罪をあがなう死であったという自覚が十分でなかったと反省しています。

 洗礼を受けたキリスト者も、人生の途上で、神のみこころに反することを行ってしまうこともあるでしょう。そのときには、神の前にへりくだって赦しをこいねがうことです。「主の祈り」の中にも、「我らの罪をも赦したまえ」という祈りがあります。

 田中姉は「心の奥底に眠る罪の塊(かたまり)が私を苦しめ、家族をも苦しめてしまいます」と告白しています。自分ではどうにもならないのが罪の正体です。使徒パウロも、ローマの信徒への手紙7章13節以下で、自分の中に住んでいる罪に苦しみ、救いをも求めたことを記しています。キリストに結ばれ、神の霊、すなわち、聖霊を受け、キリストを心に宿し、キリストと一体となるときに、この罪と死に打ち勝ち、解放されるのです。田中姉は、聖霊をいただき、罪から解放され、聖なる者としていただくために、今日の聖めの式を希望されました。武田先生と私は田中姉に、聖霊を受けるための按手をいたします。按手というのは、姉(し)の頭に手を置き、聖霊が与えられ、満たされるように祈る行為です。使徒ペトロとヨハネも、サマリアに行き、聖霊を受けるように、人々の頭に手を置いて祈ったことが、使徒言行録8章14節以下に記されています。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、だれの上にも聖霊が降っていなかったからです。

 讃美歌21の445番に次のような、歌詞があります。

 2節 罪深い過去を 背負う者をいかに主は愛し ゆるされたか

 3節 人をゆるさない この私の大きな罪さえ 主は負われた

 4節 ゆるせない心 主よきよめて平和の人へと かえてください

 田中姉は、まさに4節の歌詞にあることを求めているのです。必ず姉の願いは、イエス様に聞き届けられ、その願いはかなえられます。

わたしたちの人生の歩みは、聖霊の豊かな恵みをいただき、キリストを心に宿し、全く聖なる者とならせていただくことを目指して歩む旅です。(テサロニケ一、5:23)

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