富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「キリストを心に宿す者」エフェソの信徒への手紙3章14~21節

2016-09-11 22:36:47 | キリスト教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

    日本キリスト教 富 谷 教 会

     週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を現す人になろう。』

聖句「神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

 聖霊降臨節第18主日 2016年9月11日(日) 午後5時~5時50分

      礼 拝 順 序

 前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 492(み神をたたえる心こそは)

交読詩編  103(わたしの魂よ、主をほめよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  エフェソの信徒への手紙3章14~21節(新p.355)

説  教   「キリストを心に宿す者」  辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 311(血しをしたたる)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

                  次週礼拝 9月18日(日) 午後5時~5時50分

                  聖   書  ローマの信徒への手紙11章33~36節

                   説   教   「神の富と知恵」

                   讃美歌(21)37 168 24 交読詩編 139篇

   本日の聖書 エフェソの信徒への手紙3章14~21節

 14こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。15御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。16どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、17信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。18また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、19人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。20わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、21教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

     本日の説教

 神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ」(1・1)は、初めの挨拶の後に、「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」(1・13)と述べて、栄光の父を賛美しています。(1・14)

   そして、「こういうわけで」(1・15)と言って言葉をつなぎ、「わたしも、あなたがたが主イエスをすべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし」て、絶えず神に感謝していることを伝えています。

 3章1節で、「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。」と、手紙の最初で「キリスト・イエスの使徒」と自己紹介をしたパウロは、ここで<異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった」と言って現在の立場を述べています。パウロは囚われての身となっている獄中から、おそらくローマの獄中から、エフェソの信徒に宛ててこの手紙を書いています。この文は……となって途切れています。この文の動詞は、3章14節の「御父の前にひざまずいて祈ります」に続くのです。

   3章の前半(1~13節)では使徒パウロの異邦人伝道にかけた使命が語られています。

こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。」(3章14節)

   <こういうわけで>とは、今まで、パウロが集中的に述べてきた奥義に関する真理を、今一度確かめるように<こういうわけで>と書き出します。<キリストの奥義>とは、「異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。」(3・6)

    パウロは、1章17節b~19節でも、読者のために執り成しの祈りをしています。そこでは、父なる神のみ心を知るための御霊の助けを請い求めました。霊的な悟りを得るようにという祈りでした。しかしここでは、パウロは、読者たちがただ単に知識として真理を把握するだけでなく、クリスチャンとして生きるための原動力を求める祈りです。

   祈りの姿勢ですが、パウロは、<御父の前にひざまずいて祈る>」と言っています。この祈りのもつ熱さ、真剣さがあらわされています。パウロはすべての源である「父なる神」におごそかに、心をこめて祈るのです。

   祈る相手の<御父>とは、すべての存在の源である神のです。地上の家族であれ、天上の家族であれ、すべての被造物の根源なる創造者である神です。

 次に執り成しの祈りが続きます。

    第一の祈りは、神が恵みをもって彼らを<その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて」くださるようにという祈りです。私たちは「外なる人」が守られること、維持されること、体の健康や、生活の維持できることなどを祈り求めることが多い。しかしパウロはまず「内なる人」が強くされることを優先して祈り求めます。これがキリスト者として生きる祈りの秘訣であり、あとのことは、これを基盤として与えられるのです。主イエスが山上の説教で、「神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」に通うじる祈りです。

  そしてその強さとは、人間に内在する可能性ではなく、<御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもって>与えられる強さです。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(フィリピ4・12~13)という証言を生み出す強さなのです。

  第二の祈りは、「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者として」生活するように、と言う祈りです。

 キリスト者の経験からすれば、生けるキリストが人間の心の中に住むのは聖霊を通してですから、この祈りは第一の祈りの、もう一つの側面であり、発展です。このキリストが心の内にお住みになることは父なる神の賜物であり、<信仰によって>与えられるのです。キリストは、心の座を主に明け渡してキリストの内住を求め者には、その心の中に住んでくださるのです。主が心に住み、主との堅固な結びつきがある時、愛もそこにあって力強く働き、「愛に根ざし、愛を基とした」生活ができるようになります。

 第三の祈りは、「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解」することができるように、という祈りです。

 <聖なる者たち>の聖とは、その人間の倫理的高潔さや、「きよさ」のゆえに、そう呼ばれているのではありません。救いがたい人間が、キリストの愛のゆえに、ゆるされ「キリストを着る」ことにより、キリストの聖にあずかって聖徒と呼ばれているのです。<すべての聖なる者たちと共に>は、キリストのからだなる教会の「交わり」の大切さを語っているのです。神の民の集いと聖徒たちの公同礼拝とを愛する人たちに、キリストの愛が理解されるのです。あらわされるのです。そして「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解」するようになるのです。キリストの愛の無限の深さと広がりを知れば知るほど、私たちはキリストの愛にこたえるようになり、み心に沿った生き方ができるようになるのです。

  最後の祈りは、「人の知識をはるかに超えるこの愛」を知るように、という祈りです。

 「知識を超える」とは、人間に理解できないほどの、いまだかつて人間が経験したこともない、という意味です。ただ御霊によって啓示された者のみが、信仰によって、理解することができるのです。

 パウロの祈りは、「ついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり…それによって満たされるように」という祈りへと進みます。

 この執り成しの祈りには、宗教経験の段階的な深まりが認められます。まず、内的な人が強固になり、ついで、キリストが住まわれ、愛と真実の行いを通して、ますますキリストの体の奥義の広大無辺を悟り、キリストの愛の溢れを知って、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるというのです。

 パウロは、教理的な部分を終えるにあたって、頌栄をもって神をほめたたえています。「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

 今パウロのささげた力強い祈りは、計り知れない神の力と偉大さと、その力が人間の生活の中に現実には働いているという事実によって支えられています。頌栄の最後のアーメンは、「まさにそのとおりです」という意味です。

 パウロの獄中からのこの執り成しの祈りは、私たちにも向けられているのです。私たちが今日、こうして神の恵みのうちに守られているのも、多くの人々のとりなしの祈りによるものであることを覚え、感謝したいと思います。そして私たちも他の人のためにとりなしの祈りをささげましょう。パウロもとりなしの祈りを求めているのです。(6・19)


 

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「上に立つ人々に対して」ペトロの手紙一、2章11~25節

2016-09-04 11:43:40 | キリスト教

日本キリスト教 富 谷 教 会

                     週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を現す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

   聖霊降臨節第17主日   2016年9月4日(日)  午後5時~5時50分

      礼 拝 順 序

 前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 169(ハレルヤ。主をほめたたえよ)

交読詩編   23(主は羊飼い)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   ペトロの手紙一、2章11~25節(新p.430)

説  教    「上に立つ人々に対して」     辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 357(力に満ちたる)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

               次週礼拝 9月11日(日) 午後5時~5時50分

               聖書  エフェソの信徒への手紙3章14~21節

               説教   「キリストの住まい」

               讃美歌(21)492 311 24 交読詩編 103篇

本日の聖書 ペトロの手紙一、2章11~25節

 11愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。 12また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。 13主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、 14あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。 15善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。 16自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。 17すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。

  18召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。 19不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。 20罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。 21あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。 22「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」 23ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。 24そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。 25あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。

  本日の説教

  この手紙は、迫害のもとで苦しんでいたキリスト者の教会に対し、洗礼の恵みを思い出させ終末の希望を確信させることによって彼らを励まし、キリストの苦難に積極的に参与するキリスト者の生き方をすすめた文書です。

  この手紙は、伝統的には、使徒ペトロが、ローマ帝国のネロ皇帝の迫害(64年頃)によって殉教の死を遂げたと言われる直前、当時バビロンと呼ばれていたローマ(5・13)から小アジア地方(現在のトルコのアジア側の大部分)の諸教会(1・1)にあてた手紙か、もしくは、その迫害の直後、67年頃に、シルワノ(5・12)がペトロの遺志を汲んで書いた手紙と考えられてきました。<シルワノ>は使徒言行録15・22の「シラス」と同一人物です。聖書として成立したのは紀元67年頃と推定されています。

  2章の11節以下は、異教社会に生きるキリスト者への実際的な勧告です。

 愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」(11、12節)

  キリスト者はこの世では旅人として生きるのですが、その旅はこの世の事柄に対して無関心になり、逃避的な生活をすることではありません。キリスト者の旅とは、キリストの苦難に参与する旅であり、そして神の栄光を証しする旅です。キリスト者は神の民として、この世に対して義務を負わされているのです。ゆえにキリスト者はまず、復活のキリストによって与えられた新しい命をもつ<魂>を破壊しようと<戦いを挑む肉の欲>を避けなさいと勧告します。ここで言われている<肉の欲>は、パウロ的な<罪としての肉の欲>というより、単なる<人間の欲望>、すなわち、さまざまな欲望を表現しています。それらは自己中心的な欲望ですが、そうした欲望は自己を神とする偶像崇拝的な生活態度を生むために、パウロのいう罪となり、それがキリスト者の実存を破壊するのです。

  キリスト者がこの世に対して責任をもって生きるということは、<また、異教徒の間で立派に生活>することです。<立派な生活>とはここでは善良な市民として生きることです。キリスト者に対する周囲からの偏見や中傷や敵意がある中で、異教徒たちがキリスト者の生活態度をたえず観察していますが、キリストの再臨の日には異教徒たちもキリスト者の立派な生活によって改心し、神を賛美することになるでしょう。

  「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。」(13~15節)

  <主のために>人間の立てた制度に従いなさい、と勧めています。キリスト者が制度に従うのは、(1)「服従の生涯を貫かれたキリストのゆえに、そしてキリスト者もそのキリストに従うゆえに」、(2)「主に仕えるために」、(3)「人々に主を証しすることになるために」などが考えあれます。ローマ帝国の皇帝も、地方に派遣された総督も、彼らの主な職務は秩序を維持することでした。秩序維持は創造主の意志であり、またキリスト者が立派な生活をして<愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だから>彼らに服従しなさい、と言っています。<無知な発言>とは、ここではキリスト者に対する中傷誹謗を指しています。この勧告は迫害を回避するためにローマ帝国に迎合しなさいという教えではありません。

  「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。」(16節)

  初代教会は基本的に<キリスト・イエスによって得ている自由>(ガラテヤ2・4、5・13)を確信していました。政治的制度に従えという勧告がその確信をゆるがすことのないために著者は<自由な人として>服従しなさいと言います。キリスト者の自由は気ままとか、無秩序と混同されてはなりません。「神は無秩序の神ではなく、平和の神」(コリント一、14・33)だからです。キリスト者の自由が罪への自由ではなく、罪からの自由であり、義(正しい行い)への自由です。それゆえ、キリスト者の自由は、<神の僕>にふさわしく、神と隣人への奉仕という服従の生活において全うされるのです。

 すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。」(17節)

  神に対しては<畏敬>するという語が使われ、人間による最高の尊敬を求めています。すべての人に対し、また皇帝に対しては<尊敬する>という非宗教用語を用いて、両者への態度を区別しています。

 召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。」(18~20節)

  <召し使いたち>は、家族の一員のように扱われていた奴隷身分の使用人を指していると思われます。新約聖書の時代の地中海沿岸の社会は経済的にも政治的にも奴隷制に依存しており、多くの職業に奴隷は従事しており、良好な生活条件であったと思われます。初期の多くのキリスト者は奴隷でした。それゆえ試練は、キリスト者の奴隷がその異教徒の主人から受けるような種類のものでした。新約聖書の著者たちは、人権という近代的視点から奴隷制を問題にしていません。<心からおそれ敬って>とは、神に対する畏敬の念と同じ思いを持ってという意味で、宗教的動機が強調されています。不当は苦しみに耐えることが神の意志だとわきまえるなら、それは神に受け入れられる恵みなのです、と教えています。更に積極的に<善を行って>苦難に耐えることは神の眼から見ればすばらしいことであると強調します。

 あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(21~25節)

   キリスト者の奴隷の働きは、ペトロによれば、その実質において一つの召命なのです。キリスト自身がそうした不当な苦しみを受けたように、キリスト者はそのキリストの模範に従って生活するように召されている、と言っています。

  「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」というイザヤ書53章9節を引用し、<ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました>は、イザヤ書53章7節を反映し、苦難の僕の姿をもってキリストの受難が語られています。キリストは迫害者に敵対する行動を起こさず、自分の運命も含めてすべてを神に任せました。

 イザヤ書の場合は、人々の罪が僕の上に置かれ、彼は民のためにいけにえとして苦難を受けたという意味ですが、ここでは、キリストが人間の罪を担って恥の十字架の上にかけられたというだけでなく、祭司として罪のいけにえ(自分自身)を十字架の祭壇の上にもってきて置いたことをも示しています。ここには、キリストが祭司自身であると同時にその祭司自身がいけにえでもあったというキリストの受難理解があります。キリストの死は、信徒を罪から解放し、神との正しい関係におき、立派な生活に導くのです。<そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました>は、イザヤ書53章5節からの引用で、<傷>はキリストの受難の光景を生々しく想起させます。キリストの受難は苦難に悩む者を癒してくれるのです。そして最後に、あなたがたは異教徒から改心して今はキリストによってしっかり守られていると、現実を指摘します。イエスは羊である信徒の大牧者であり、羊を守るだけでなく、管理する監督者でもあることを示しています。キリスト者はいかにいやしい者であっても、他のいかなる者の媒介もなしに、主ご自身に直接近づくことがゆるされているという事実を強調しています。キリストは大牧者であるだけでなく、大祭司です。

  「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ人への手紙4・14~16)

 

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