〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403
日本キリスト教 富谷教会 週報
年間標語『主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない。』
聖句「神は神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ロマ8:28)
待降節第2主日 2014年12月7日(日) 5時~5時50分
礼 拝
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 4(世にあるかぎりの)
交読詩編 30(主よ、あなたをあがめます)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書 ルカによる福音書1章47~55節
説 教 「受胎告知とマリアの賛歌」 辺見宗邦牧師
讃美歌(21) 175(わが心は)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 12月14日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分 待降節第3主日
聖 書 ルカによる福音書2章1~7節 説教 「ベツレヘムでのイエスの誕生」
クリスマス茶会 12月13日(土)に開催します。23回目になります。47名の参加者を予定しています。12時から30分ほどの礼拝をいたします。ご加祈ください。
本日の聖書 ルカによる福音書1章67節~79節
26六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。27ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。28天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」29マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。30すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。31あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。32その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。33彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」34マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」35天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。36あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。37神にできないことは何一つない。」38マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
39そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。40そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。41マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、42声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。43わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。44あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。45主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
46そこで、マリアは言った。
47「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。48身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、49力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、50その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。 01:51主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、52権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、53飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。54その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、55わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」56マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。
本日の説教
天使ガブリエルは、エルサレム神殿の聖所で、祭司ザカリアに現れ、神の恵みと力によって、妻のエリサベトが男の子を産むことを告げ、その子をヨハネと名付けなさい、と告げました。その後、妻のエリサベトは身ごもって、五か月の間、ひきこもって過ごしました。
<六か月目に>天使<ガブリエル>は、神から<マリア>のところに遣わされました。天使ガブリエルが聖書に登場するのは、旧約聖書のダニエル書に二回だけと、ルカ福音書の二回です。神の前に立つ最高位の天使であり、おもに神の御計画や言葉を伝える役目を担う天使です。
<マリア>という名は、ヘブライ語では「ミリアム」で、モーセの姉妹ミリアムに由来する名です。ユダヤ人女性の名としてもっとも多く用いられており、ごくありふれた名でした
マリアはイスラエルのガリラヤ地方の南にある<ナザレ>という小さな町に住んでいました。エルサレムからは100キロも離れた所です。「ナザレから何かよいものが出るだろうか」と蔑(さげす)まれるような、重要視されない土地です。
マリアは<ヨセフ>という人の<いいなずけ>になっている年若い<おとめ>でした。婚約は、たいてい家族同士のあいだで、女性がほんの少女の頃に取決められていました。
マリアは結婚前の生娘(きむすめ)でした。当時は、十四、五歳位で結婚したようです。
ヨセフは<ダビデ家>に属する、ダビデ王の血筋にあたる人でです。生まれてくる男の子がダビデの家系に連らなることを表しています。ユダヤ教では、来たるべきメシアはダビデの子孫から出ると広く信じられていました。
ヨセフの職業は大工です。後にイエスは、人々から「この人は大工の子ではないか」(マタイ13:54)と言われています。マリアについて、ここでは、エリサベトが親類だと言う他は何も語られていません。エリサべトはヨハネを産む母となる人ですが、アロン家の娘です。アロン家の娘ということは、最初の大祭司であったモーセの兄アロンの血筋の家柄です(ヘブライ5:4)。エリサべトも夫の祭司ザカリアも、<神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった>と記されているのに、マリアについては器量の良い、美しい、健康な人であったとも記されていません。しかし、この後、マリアは神に愛され(30節)、思慮深く(29節)、従順で(38節)、信仰深い(45節)、神をあがめ(47節)、ユダヤ教の律法と信仰に忠実である(2章22~51節)ことが分かります。しかし、彼女の特質がどんなものであれ、神が彼女を選んだ理由として挙げることはできません。
天使は彼女に「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と呼び掛けます。普通の挨拶ではなく、喜びのあいさつです。天使の挨拶の最初の<おめでとう>は、「喜びなさい」と言う意味の言葉です。マリアは「恵まれた方」と呼びかけられています。「恵み」は神の無条件で一方的な好意の働きによるものです。マリアはこの神の恵みによって選ばれて、神の救いの御業の大役を果たすことになります。それで天使は、マリアに「恵まれた方」と呼びかけたのです。 この大役を果たすことができるように、「主が共にいてくださる」ことを告げ、心強い主の助けがあることを伝えたのです。モーセの場合にも(出エジプト記4:12)、ヨシュアの場合にも(ヨシュア記1:5)、また復活したイエスが使徒たちを派遣する時にも(マタイ28:20)、神は使命を果たす者に、「あなたと共にいる」と約束し、励ましています。
マリアは、突然の天使の出現と、この天使の言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何を意味するのか分からず、考えこみました。すると、天使は言いました。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」
天使の出現に畏怖を覚えているマリアに、天使は、「恐れることはない」と言って語りかけ、「あなたは神から恵みをいただいたのだから」と、その理由を述べます。天使はまず男の子の出産を予告します。そして天使はマリアに「その子をイエスと名付けなさい」と生まれてくる子の名前を指示します。ユダヤ教の社会では子に名を付けるのは父親の権利です。マタイによる福音書では、ヨセフにイエスと名付けるように指示が与えられています(マタイ1:20)。ルカによる福音書では、ヨセフが、イエスの誕生にも、イエスの命名にも除外されることによって、イエスはイスラエルの民のメシアであるという枠にはとらわれない、万民の救済者であることを表しています。
イエスという名については、マタイ(1:21)は「この子は自分の民を罪から救うからである」と、その命名の意義を説明しています。「イエス」(ヘブライ語では《イェーシューアー》)は、モーセの後継者ヨシュアに由来する名で、「ヤハウェは救いである」という意味の名です。
「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(1:32~ 33)
その子の役割が語られます。マリアから生まれる子は「いと高き方の子」と呼ばれるようになることが予告されます。実際にイエスがこのように呼ばれるようになるのは復活以後の教会においてでした。復活後、イエスは「神の子」とか「いと高き方の子」と呼ばれるようになります。
マリアから生まれてくる子に「ダビデの王座」を与えるのは「神である主」です。「ヤコブの家」という表現は、ユダヤ人がイスラエルの民を指すのに用いる独特の表現です。「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」 と告げられます。
マリアは天使に言いました。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。(1:34)
天使の告知に対するマリアの驚きと不審の思いは、「あなたは身ごもって男の子を産む」という告知だけに対しております。その子がどのように偉大な人物になるかを告げられる部分(32~33節)は、うわの空で聞いていたのだと思います。天使は答えました。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(1:35)
マリアのとまどいに対して天使は、マリアの懐妊は聖霊の働きによるものであると答えます。「いと高き方の力があなたを包む」と言う表現は、神の現臨とその力を示しています。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」(1:・36~37)
マリアにはエリサベトの懐妊の事実がしるしとして与えられます。天使ガブリエルは、エリサベト懐妊の事実を指し示して、「神にできないことは何一つない」ことのしるしとします。
「神にできないことは何一つない」という言葉は、アブラハムの妻サラに、天使が語った言葉でもあります。八十九歳のサラが、年をとった自分に子供がうまれるはずがないと思って、ひそかに笑ったときに天使が「主に不可能なことがあろうか」と言っています。(創世記18:14)サラのこの天使の言葉を信じて,90歳でイサクを産みました。「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。」(ヘブライ11:11)
後に、イエス御自身が、神の国に入ることの難しさを教えられたとき、「人間にはできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(マルコ10:27)と言われています。男を知らない生娘が懐胎するというようなことはありえない、それは不可能であると常識はこれを拒否しますが、聖書は無から有を創り出した全能の神を伝えているのです。「神にできないことは何一つない」という信仰は、全能の神を信じるのです。
マリアは「神にできないことは何一つない」という天使の宣言にうながされて、「あなたは男の子を産む」という告知を謙虚に受け入れ、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言って、ひれ伏しました。
このマリアの言葉は信仰の本質を見事に言い表しています。信仰とは、わたしたちの経験やそれに基づく見通しといったものを放棄し、神様の御手に自分を委ねて、神のみ業に仕えていくのです。
ガブリエルが神の使いとして伝えた神の言葉をマリアが受け入れたことで、ガブリエルの使命ははたされました。そこで、天使ガブリエルはマリアのところから去って行きます。
「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。」(1:39~40)
<そのころ>というのは、「その後間もなく」ということです。マリアは天使のお告げで親戚のエリサベトが懐妊してもう六か月にもなっていることを知って、エリサベトに会いたくなり、<急いで>彼女のところに向かいます。共通の経験が二人を引き寄せるのです。マリアはユダヤの山地にある「ユダの町」に行きました。「山里」は山が連なる地域を指し、パレスチナのいたるところにあります。エルサレムに住む祭司は少数で、大多数の祭司は周辺の「ユダヤの山地」に点在する町とか村に住み、神殿での務めの期間だけエルサレムに上り、務めが終わると「自分の家に」帰りました。アビヤの組の祭司ザカリアもそのような祭司の一人でした。
マリアの住むガリラヤのナザレから、「ユダの町」まで1歩いて四、五日はかかる道を歩いたことになります。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどりました。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言いました。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」。(1:41~42)
エリサベトはマリアとマリアの胎内の子を祝福します。
エリサベトはマリアを「わたしの主のお母さま」と呼んで、マリアを敬い、その訪問を感謝しました。エリサベトは聖霊によって、マリアから生まれる子が自分の<主>となることを知ったのです。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言って、エリサベトは、神のなさることを信じ受け入れたマリアを祝福しました。
そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」。(1:46~47) このマリアの賛歌は、ラテン語訳の聖書では、冒頭が「あがめます<マグニフィカート>」で始まるので、この賛歌は「マグニフィカート」と呼ばれています。
マリアは、エリサベトの祝福に応えて、魂の奥底から自分にこの大きな恵みの業をなしてくださった神を賛美します。
マリアの賛歌は神を自分の救い主であり、イスラエルの救い主として誉め讃える賛歌です。
「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」。いやしい自分にこのような大きな恵みを与えてくださった神への賛美し、 「わたしは主の奴隷です」と言い表して、主の前にひれ伏したマリアの心の低さ、謙虚さこそ神を讃えるものにふさわしいのです。「力ある方」すなわち神が、マリアに目を留め、救い主キリストの母となるという大きな業をなされたから、今から後、「世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。」と、「力ある方」を賛美します。
「その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」 主を畏れ、敬い、信じるすべての者に主の憐れみと愛は注がれるのです。
「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
神は、御自身の僕として選ばれたイスラエルの民を、その民がどのように神から離れ罪を犯しても、捨てることなく、憐れみにより無条件に受け入れて、イスラエルの民をご自分に属する民として高く上げてくださる、とマリアは歌います。神はアブラハムを初めとする先祖たちに約束されたことを、どのような状況においても守られます。イスラエルを選ばれた神は、イスラエルを見捨てることなく、「とこしえに」イスラエルをご自分の民として憐れみをもって扱われる、とマリアは神を賛美します。
マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰りました。
キリストを救い主と信じるわたしたちは、御霊のイエスを心の内に頂く者とされています。<力ある方である神>がわたしたちも<偉大なことを>なさったくださったことの感謝し、マリアと共に、主なる神をあがめ、救い主イエスを与えられていることを、ほめたたえましょう。