富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「受胎告知とマリアの賛歌」 

2014-11-30 22:42:50 | 聖書

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語『主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない。』

聖句「神は神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ロマ8:28)

 待降節第2主日     2014年12月7日(日)   5時~5時50分 

礼   拝    

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)    4(世にあるかぎりの)

交読詩編      30(主よ、あなたをあがめます)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書  ルカによる福音書1章47~55節       

説 教  「受胎告知とマリアの賛歌」   辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 175(わが心は)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

 

                       次週礼拝 12月14日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分  待降節第3主日

                       聖 書 ルカによる福音書2章1~7節   説教  「ベツレヘムでのイエスの誕生」

クリスマス茶会 12月13日(土)に開催します。23回目になります。47名の参加者を予定しています。12時から30分ほどの礼拝をいたします。ご加祈ください。

本日の聖書 ルカによる福音書1章67節~79節

 26六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。27ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。28天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」29マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。30すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。31あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。32その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。33彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」34マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」35天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。36あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。37神にできないことは何一つない。」38マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

39そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。40そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。41マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、42声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。43わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。44あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。45主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

46そこで、マリアは言った。

47「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。48身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、49力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、50その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。 01:51主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、52権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、53飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。54その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、55わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」56マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

本日の説教 

 天使ガブリエルは、エルサレム神殿の聖所で、祭司ザカリアに現れ、神の恵みと力によって、妻のエリサベトが男の子を産むことを告げ、その子をヨハネと名付けなさい、と告げました。その後、妻のエリサベトは身ごもって、五か月の間、ひきこもって過ごしました。

 <六か月目に>天使<ガブリエル>は、神から<マリア>のところに遣わされました。天使ガブリエルが聖書に登場するのは、旧約聖書のダニエル書に二回だけと、ルカ福音書の二回です。神の前に立つ最高位の天使であり、おもに神の御計画や言葉を伝える役目を担う天使です。

 <マリア>という名は、ヘブライ語では「ミリアム」で、モーセの姉妹ミリアムに由来する名です。ユダヤ人女性の名としてもっとも多く用いられており、ごくありふれた名でした

マリアはイスラエルのガリラヤ地方の南にある<ナザレ>という小さな町に住んでいました。エルサレムからは100キロも離れた所です。「ナザレから何かよいものが出るだろうか」と蔑(さげす)まれるような、重要視されない土地です。

マリアは<ヨセフ>という人の<いいなずけ>になっている年若い<おとめ>でした。婚約は、たいてい家族同士のあいだで、女性がほんの少女の頃に取決められていました。

マリアは結婚前の生娘(きむすめ)でした。当時は、十四、五歳位で結婚したようです。

ヨセフは<ダビデ家>に属する、ダビデ王の血筋にあたる人でです。生まれてくる男の子がダビデの家系に連らなることを表しています。ユダヤ教では、来たるべきメシアはダビデの子孫から出ると広く信じられていました。

ヨセフの職業は大工です。後にイエスは、人々から「この人は大工の子ではないか」(マタイ13:54)と言われています。マリアについて、ここでは、エリサベトが親類だと言う他は何も語られていません。エリサべトはヨハネを産む母となる人ですが、アロン家の娘です。アロン家の娘ということは、最初の大祭司であったモーセの兄アロンの血筋の家柄です(ヘブライ5:4)。エリサべトも夫の祭司ザカリアも、<神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった>と記されているのに、マリアについては器量の良い、美しい、健康な人であったとも記されていません。しかし、この後、マリアは神に愛され(30節)、思慮深く(29節)、従順で(38節)、信仰深い(45節)、神をあがめ(47節)、ユダヤ教の律法と信仰に忠実である(2章22~51節)ことが分かります。しかし、彼女の特質がどんなものであれ、神が彼女を選んだ理由として挙げることはできません。

天使は彼女に「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と呼び掛けます。普通の挨拶ではなく、喜びのあいさつです。天使の挨拶の最初の<おめでとう>は、「喜びなさい」と言う意味の言葉です。マリアは「恵まれた方」と呼びかけられています。「恵み」は神の無条件で一方的な好意の働きによるものです。マリアはこの神の恵みによって選ばれて、神の救いの御業の大役を果たすことになります。それで天使は、マリアに「恵まれた方」と呼びかけたのです。 この大役を果たすことができるように、「主が共にいてくださる」ことを告げ、心強い主の助けがあることを伝えたのです。モーセの場合にも(出エジプト記4:12)、ヨシュアの場合にも(ヨシュア記1:5)、また復活したイエスが使徒たちを派遣する時にも(マタイ28:20)、神は使命を果たす者に、「あなたと共にいる」と約束し、励ましています。

  マリアは、突然の天使の出現と、この天使の言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何を意味するのか分からず、考えこみました。すると、天使は言いました。

マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。

天使の出現に畏怖を覚えているマリアに、天使は、「恐れることはない」と言って語りかけ、「あなたは神から恵みをいただいたのだから」と、その理由を述べます。天使はまず男の子の出産を予告します。そして天使はマリアに「その子をイエスと名付けなさい」と生まれてくる子の名前を指示します。ユダヤ教の社会では子に名を付けるのは父親の権利です。マタイによる福音書では、ヨセフにイエスと名付けるように指示が与えられています(マタイ1:20)。ルカによる福音書では、ヨセフが、イエスの誕生にも、イエスの命名にも除外されることによって、イエスはイスラエルの民のメシアであるという枠にはとらわれない、万民の救済者であることを表しています。

イエスという名については、マタイ(1:21)は「この子は自分の民を罪から救うからである」と、その命名の意義を説明しています。「イエス」(ヘブライ語では《イェーシューアー》)は、モーセの後継者ヨシュアに由来する名で、「ヤハウェは救いである」という意味の名です。

「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(1:32~ 33)

その子の役割が語られます。マリアから生まれる子は「いと高き方の子」と呼ばれるようになることが予告されます。実際にイエスがこのように呼ばれるようになるのは復活以後の教会においてでした。復活後、イエスは「神の子」とか「いと高き方の子」と呼ばれるようになります。   

マリアから生まれてくる子に「ダビデの王座」を与えるのは「神である主」です。「ヤコブの家」という表現は、ユダヤ人がイスラエルの民を指すのに用いる独特の表現です。「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」 と告げられます。 

マリアは天使に言いました。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。(1:34)

天使の告知に対するマリアの驚きと不審の思いは、「あなたは身ごもって男の子を産む」という告知だけに対しております。その子がどのように偉大な人物になるかを告げられる部分(32~33節)は、うわの空で聞いていたのだと思います。天使は答えました。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(1:35)

マリアのとまどいに対して天使は、マリアの懐妊は聖霊の働きによるものであると答えます。「いと高き方の力があなたを包む」と言う表現は、神の現臨とその力を示しています。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」(1:・36~37)

マリアにはエリサベトの懐妊の事実がしるしとして与えられます。天使ガブリエルは、エリサベト懐妊の事実を指し示して、「神にできないことは何一つない」ことのしるしとします。

  「神にできないことは何一つない」という言葉は、アブラハムの妻サラに、天使が語った言葉でもあります。八十九歳のサラが、年をとった自分に子供がうまれるはずがないと思って、ひそかに笑ったときに天使が「主に不可能なことがあろうか」と言っています。(創世記18:14)サラのこの天使の言葉を信じて,90歳でイサクを産みました。「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。」(ヘブライ11:11)

後に、イエス御自身が、神の国に入ることの難しさを教えられたとき、「人間にはできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(マルコ10:27)と言われています。男を知らない生娘が懐胎するというようなことはありえない、それは不可能であると常識はこれを拒否しますが、聖書は無から有を創り出した全能の神を伝えているのです。「神にできないことは何一つない」という信仰は、全能の神を信じるのです。

  マリアは「神にできないことは何一つない」という天使の宣言にうながされて、「あなたは男の子を産む」という告知を謙虚に受け入れ、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言って、ひれ伏しました。

このマリアの言葉は信仰の本質を見事に言い表しています。信仰とは、わたしたちの経験やそれに基づく見通しといったものを放棄し、神様の御手に自分を委ねて、神のみ業に仕えていくのです。
 ガブリエルが神の使いとして伝えた神の言葉をマリアが受け入れたことで、ガブリエルの使命ははたされました。そこで、天使ガブリエルはマリアのところから去って行きます。

 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。」(1:39~40)

 <そのころ>というのは、「その後間もなく」ということです。マリアは天使のお告げで親戚のエリサベトが懐妊してもう六か月にもなっていることを知って、エリサベトに会いたくなり、<急いで>彼女のところに向かいます。共通の経験が二人を引き寄せるのです。マリアはユダヤの山地にある「ユダの町」に行きました。「山里」は山が連なる地域を指し、パレスチナのいたるところにあります。エルサレムに住む祭司は少数で、大多数の祭司は周辺の「ユダヤの山地」に点在する町とか村に住み、神殿での務めの期間だけエルサレムに上り、務めが終わると「自分の家に」帰りました。アビヤの組の祭司ザカリアもそのような祭司の一人でした。

 マリアの住むガリラヤのナザレから、「ユダの町」まで1歩いて四、五日はかかる道を歩いたことになります。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどりました。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言いました。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」。(1:41~42)
 エリサベトはマリアとマリアの胎内の子を祝福します。

エリサベトはマリアを「わたしの主のお母さま」と呼んで、マリアを敬い、その訪問を感謝しました。エリサベトは聖霊によって、マリアから生まれる子が自分の<主>となることを知ったのです。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言って、エリサベトは、神のなさることを信じ受け入れたマリアを祝福しました。

そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」。(1:46~47) このマリアの賛歌は、ラテン語訳の聖書では、冒頭が「あがめます<マグニフィカート>」で始まるので、この賛歌は「マグニフィカート」と呼ばれています。

マリアは、エリサベトの祝福に応えて、魂の奥底から自分にこの大きな恵みの業をなしてくださった神を賛美します。

 マリアの賛歌は神を自分の救い主であり、イスラエルの救い主として誉め讃える賛歌です。

 「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」。いやしい自分にこのような大きな恵みを与えてくださった神への賛美し、 「わたしは主の奴隷です」と言い表して、主の前にひれ伏したマリアの心の低さ、謙虚さこそ神を讃えるものにふさわしいのです。「力ある方」すなわち神が、マリアに目を留め、救い主キリストの母となるという大きな業をなされたから、今から後、「世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。」と、「力ある方」を賛美します。

 「その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」 主を畏れ、敬い、信じるすべての者に主の憐れみと愛は注がれるのです。

その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。

神は、御自身の僕として選ばれたイスラエルの民を、その民がどのように神から離れ罪を犯しても、捨てることなく、憐れみにより無条件に受け入れて、イスラエルの民をご自分に属する民として高く上げてくださる、とマリアは歌います。神はアブラハムを初めとする先祖たちに約束されたことを、どのような状況においても守られます。イスラエルを選ばれた神は、イスラエルを見捨てることなく、「とこしえに」イスラエルをご自分の民として憐れみをもって扱われる、とマリアは神を賛美します。

マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰りました。

キリストを救い主と信じるわたしたちは、御霊のイエスを心の内に頂く者とされています。<力ある方である神>がわたしたちも<偉大なことを>なさったくださったことの感謝し、マリアと共に、主なる神をあがめ、救い主イエスを与えられていることを、ほめたたえましょう。

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「洗礼のヨハネの父、ザカリアの賛歌」

2014-11-30 22:34:58 | 聖書

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富谷教会 週報 

待降節第1主日     2014年11月30日(日)   5時~5時50分 

礼   拝    

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(旧)   95(わが心は、あまつ神を)

交読詩編     145(わたしの王、神よ)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書  ルカによる福音書1章67~79節       

説 教 「洗礼のヨハネの父、ザカリアの賛歌」   辺見宗邦牧師

讃美歌(旧)  97(朝日は昇りて)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

 本日の聖書 ルカによる福音書1章67節~79節

 67父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。68「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、69我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。 01:70昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。71それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。72主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。73これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、74敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、75生涯、主の御前に清く正しく。 76幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、77主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。78これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、79暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」

今日からクリスマスを迎えためのアドヴェント(待降節)に入ります。イエス・キリストの降誕を記念するクリスマス前の四週間を「アドヴェント」(待降節)と呼んでいます。

アドヴェントは、ラテン語の<アドヴェントゥス「接近する」>という語から出来た英語です。<待降節>と言う意味の他に、<出現>、<到来>という意味があります。

アドヴェントは、神の救いの出来事を待ち望み、心備えをする時期です。古くは信仰者が祈りと悔い改めと断食という形を含む、深く自分自身を顧る禁欲と節制の時とされてきました。やがてこの期節は、むしろ喜びと楽しさにあふれて、主の降誕を想起する時となり、それと同時に、再びやって来られる「再臨のキリスト」、「神の国」を待望する時となっていきました。こうしたいろいろな意味を持ったアドヴェントは、私たちが自らの信仰と生活を振り返る機会であります。

主イエス・キリストは、ある時突然この世に降ってきた救世主というわけではなく、長い時間を積み重ねた神の救いの計画という歴史の中で私たちのもとにやって来られた方でした。実は、旧約聖書の時代から、ユダヤ教の時代から、やがてメシアが来るという預言があり、神の約束がありました。そして、そうした神の計画、救いの歴史を書き留めてきたものが、旧約聖書に含まれる数々の文書です。

旧約聖書の創世記は、ユダヤ人がバビロンの捕囚地で編纂され、書かれたものです。天地創造の信仰によれば、この世界と人間は、本来、神が「良きもの」としてお造りになったものですが、人間が神の与えてくださった自由を自分勝手に濫用し、さらに自分の行った行為に責任を負うことを拒んだ結果、神に背き、罪を犯す者となったと理解しました。ユダヤ人が祖国を追われ、バビロンに捕らわれているのも、自分たちの罪に対する神の裁きとしてとらえたのです。すべての人間が神を見失い、自己中心的に生きている罪の状態から、救われなければならいと考えたのです。

旧約聖書は救い主キリスト・イエスの降誕を待望する書でした。救い主キリストの降誕を預言したのは預言者イザヤでした。イザヤは紀元前8世紀末、約40年間(B.C.739~700年)、南王国ユダで活動した預言者です。イザヤ書7章では、マタイ1章23節に引用されている有名な「インマヌエルの預言」が語られています。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。(その名は「神わらと共にいます」と名付けられる)」(イザヤ書7章14節)

旧約聖書の最後の預言者マラキ(B.C.465年頃)は、「わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。」(3:20)と預言しました。<義の太陽>こそ、我々を救うためにこの世に来られたイエス・キリストです。その<義の太陽>が来る前に、道を備える使者を神が送ると予言したのです。

「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者。見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。」(3:1)

マラキはイスラエルの罪を告発しつつ、真に救いをもたらす方の来臨を待望しました。

「見よ、わたしは大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように」(マラキ3:23,24)と預言しました。再来の預言者エリヤとは<洗礼のヨハネ>のことです。

 ルカによる福音書は、イエス・キリストの先駆者となった洗礼のヨハネの父ザカリアと母エリサベトの事を伝えます。

 ユダヤの王ヘロデの時代のことです。このヘロデはヘロデ大王と呼ばれ、イスラエルのㇾビ族が統治したハスモン朝を破って、ローマとの協調関係を構築しました。ローマのオクタヴィアヌス帝に奉仕したことの対する報償により紀元前40年にユダヤの王に任命されました。実際の治世は前37年に始まり、死によって前4年まで続きました。イスラエルの南のイドマヤ(エドムのギリシャ語読み)出身の王です。

この王の時代、祭司ザカリアという人が神殿で祭司として働いていた時、神の言葉を受け、その言葉どおりに誕生したのが、イエス・キリストの先駆者となったバプテスマのヨハネです。

 当時、エルサレムにあった神殿では、大勢の祭司たちが、毎日神への供え物や祈りを献げる仕事にたずさわっていました。祭司の総数は18000名ほどいたと言われています。これらの祭司たちは全部で24の部族に分かれており、各部族が半年ごとに、一週間ずつ神殿での奉仕にあたっていました。ザカリアは<アビヤ組>という部族に属していました。一つの組には750人前後の祭司がいたことになります。祭司たちの奉仕で、最も大事な職務は、「聖所で香を焚く役目」でした。エルサレム神殿では、毎日二回、早朝と午後にこの仕事が行われ、その時には聖所の中に、祭司の一人だけが入ることを許され、特別に調合された香を焚いて、それを神に献げました。その間、聖所の外では、民衆が祈りつつ、聖所に入った祭司からの祝福を待ちました。香を焚く役目にあたる祭司は、すべてのイスラエルの民に代わって神に祝福を祈り求める重要な任務がありました。」この役目はくじ引きによって決められ、一度くじに当たれば、二度とくじを引く機会は与えられませんでした。

 ザカリアはこのくじに当たって、聖所に入り、香をたいていたときです。主の天使ガブリエルが現れ、「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」(ルカ1:13~17)と告げたのです。

 ザカリアの妻エリサべトは不妊で、二人には子供がなく、二人とも年をとっていました。ザカリアは、天使に、「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」と問いました。すると天使は、「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」(1:19~20)と答えました。この時以来、ザカリアは身ぶりで示すだけで、口が利けなくなりました。その後、エリサべトは身ごもりました。エリサべトは、「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」と言って、子を妊娠できたことを神に感謝しました。

 さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産みました(1:57)。八日目に、その子の割礼を施すためにやって来た人たちは、父の名を取ってザカリアと名付けようとしました。すると、母は「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言ったのです。人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、父親に「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねました。父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚きました。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めました。

 ザカリアは聖霊に満たされ、預言しました。べネディクトゥス(ラテン語の「ほめたたえよ」の意味)と呼ばれている賛歌です。

「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。」(1:68~75)

 神がヨハネを送ったからではなく、「我らのために救いの角(神の力を指す)を、僕ダビデの家」から起こしたから、つまりイエスを送ったから、神をほめた他よ、と歌っているのです。そして、かつてイスラエル民族がエジプトから救い出され事件を思い出しながら、現在に至るまでの神の救いを歌っています。

 76節から77節は、洗礼者ヨハネの使命について預言します。

「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」(1:76~77)

 預言の歌のこの部分は、マラキ書3:1~2、23~24、イザヤ書9:1、42:7から、かなりの部分を引用しています。高い所からあけぼのの光が我らを訪れる」は、救い主の出現を美しく描写しています。

 「幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人人の前に現れるまで荒れ野にいた。」(1:80)

この部分は、ヨハネの成長に関するものです。ヨハネの物語が、三章で再開するとき、彼は神の国の接近を告げるために登場します。その間私たちは待たなければなりません。

祭司ザカリアもエリサべトも神の救いの計画とその歴史に登場する人物です。神の大きな御業、驚くべき御業、救いの御業を喜び歌いましょう。

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