↑ 聖霊とは (神の)力か、 人(のような神)か?
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
聖霊降臨節第一主日(聖霊降臨日) 2020年5月31日(日) 午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」 (エフェソ3・16-17)
礼 拝 順 序
司会 田中 恵子姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 433(あるがままわれを)
交読詩編 103(わたしの魂よ、主をたたえよ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書14章15~27節(p.197)
説 教 「聖霊の賜物」
祈 祷 辺見宗邦牧師
讃美歌(21) 342(神の霊よ、今くだり)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 6月7日(日) 午後5時~5時50分
聖 書 一テモテへの手紙6章11~16節
説教題 「信仰の戦い」
讃美歌(21) 351 342 24 交読詩篇 37
本日の聖書 ヨハネによる福音書14章15~27節
14:15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。 19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。 20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。 21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」 22イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。 23イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。 24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。 25わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。 26しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。 27わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
本日の説教
教会暦では、今日が聖霊降臨日(ペンテコステ)の日です。使徒言行録二章によると、ユダヤ教の五旬祭(ペンテコステ)の日に主イエスの弟子たちの上に聖霊が降り、初代教会が創設され、宣教活動が始まったと伝えています。
ユダヤ教の五旬祭は、七週祭とも言われ、過越祭から五十日目に行われる初夏の小麦の収穫を感謝して祝う祭りです(レビ記23:15,21、申命記16:9-11)。後世になってからはモーセを通して与えられた律法授与の記念日としても祝われるようになりました。。
この五旬祭の日に聖霊降臨の出来事が起こったのです。それ以後キリスト教では、「五十番目」を意味するギリシヤ語のペンテコステは、キリストの復活を祝うイースターから数えて五十日目にあたることから、この日をペンテコステ(聖霊降臨日)として祝うようになりました。そして、この聖霊降臨の日は、キリスト教会の設立日ともなったのです。
使徒言行録に記されている「聖霊の働き」は、神の力、神の働きです。1章8節に、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」とイエスは言われて昇天されました。
聖霊は神の力、神の働きとして与えられ、聖霊に満たされた弟子たち一同は、主のよみがえりを証言し、主イエスによる救いの恵みを知らせる福音を伝える者となりました。当時、エルサレムに住んでいたユダヤ人は外国生まれの人たちが多く、またユダヤ教に改宗した外国人が大勢住んでいました。十五か国にも及ぶその人たちの生まれる故郷の言葉で、語るための力が与えられた弟子たちは神の偉大な業を語ったのです。これはすべての国に福音が届けられることを示しています。このように聖霊降臨の日の出来事が世界宣教の発端となりました。
このように使徒言行録は、「聖霊言行録」とも言われるように聖霊なる神様の力強いお働きが示されています。キリストの十字架と復活の救いに人々を招く、神のご計画、神のみ業が、すべて聖霊によること、聖霊が命じ、聖霊が導き、聖霊が働く、ダイナミックな聖霊の力が示されています。
しかし、ヨハネによる福音書では、聖霊は神の力というよりも、昇天後も弟子たちと共にいて下さる「霊なるイエス・キリスト」として記されています。
今日のヨハネ福音書による箇所は、最後の晩餐の席で、「別れの説教」(訣別の説教)を語られたときに話された、主イエスの「聖霊を与える約束」です。この約束は、後に残される弟子たちへの語りかけであり、同時に今日に生きる私たちにも向けられた言葉でもあります。。
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」(15節)
主イエスは地上を去るに当たって、弟子たちとの間に結ばれた愛の結合関係が失われないように確かめます。<わたしの掟を守る>とは、13章34節で、イエスが話された「互いに愛し合いなさない。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という新しい掟です。イエスを愛することは、即ち、互いに愛し合うという戒めを守ることであると教えています。兄弟たちが互いに愛し合う地上の愛の営みを通して、イエスとの愛の結合関係が維持されると教えているのです。
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(16節)
<弁護者「パラクレートス」>と言われいるのが聖霊のことです。イエスは御自分に代わる他の<弁護者>を父なる神から送ってもらうことを約束します。<弁護者>とは、自分一人では立ち向かえることの出来ない問題に助力を与える弁護士の役を担う助け主、聖霊のことです、イエスは、この地上を去っていくが、<弁護者>は永遠に弟子たちと一緒にいるようにしてくださる、というのです。<永遠に>とは、世の限界、つまり時間と空間の制約の中に置かれない、永遠に続く関係です。聖霊として弟子たちと共にいてくださるのであれば、その関係は永遠に続くのです。イエスの人格と働きを継続する、このような<別の>弁護者を遣わすとイエスは約束したのです。
「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(17節)
<世>と言うのは、ヨハネによる福音書では、キリストを信じる信仰の無い人々や、そのような人々の社会を表します。信仰の無いところでは、聖霊は受け入れられることはありません。信仰を与えられることと、聖霊を知ることとは一つのことなのです。つまり聖霊が働くことによって信仰が与えられるのです。
<真理の霊>は、弟子たちを<導いて真理をことごとく悟らせる>(16・13)働らきをします。世とは違って、イエスを信じ受け入れた人々の間には、イエスは今や霊として、彼らの間に留まるので、彼らは霊を知り、霊と共にあることを知るのです。
「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」(18節、19節)
イエスは世を去っていくが、弟子たちを「みなしご」にはしておかない、と約束します。「みなしご」とは親のない孤児のことです。これは、師イエスを失う弟子たちのことを指しているのです。イエスは死と復活によって、地上から天に取り去られるけれども、すぐ<弁護者>また<真理の霊>として地上に戻って来るので、決して弟子たちを孤児にはしない、と残る弟子たちを励ますのです。世またユダヤ人(ガリラヤ人と対比さているユダヤ人)は、イエスの十字架の死によって、イエスを見ることはなくなります。しかし、弟子たちは復活のイエスと聖霊の到来によって、再びイエスと出会うのです。<わたしが生きる>とは、「わたしは十字架の死を超えて生きる」という意味です。イエスは復活し、昇天して、今も生き続けておられます。生きておられるキリストから生命と力と助けを受けて、あなたがたもまた、キリストと同じ復活の命・永遠の命に生きることができるようになる、と励ましています。そうすれば、もはやこの世での様々な苦しみや悩みがなくなるのです。
「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」(20節)
<かの日>とは、信仰が完成する日、終末の日です。その日には、父なる神と子なるイエスとの愛の結合関係が、弟子たちとイエスとの間にも結ばれていることが、あなたがたにも分かるであろう、と言われたのです。
「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(21節)
その結合関係は、イエスの掟を受け入、愛の戒めを守る人であり、イエスを愛する人との間に実現するのです。わたしを愛する人は、父なる神に愛され、イエスもその人を愛し、その人にイエス御自身を現すのです。
「イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。」(22節)
<イスカリオテでない方のユダ>とは、<ヤコブの子ユダ>(ルカ6・16)のことか、<イエスの兄弟ユダ>(マルコ6・3)のことでしょう。このユダは、復活のイエスが弟子たちにだけに現され、世、具体的にはユダヤ人には、イエスの顕現が現わそうとされない理由を尋ねます。
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」(23、24節)
イエスの解答は、主イエスを愛すること無くして、本当に隣人愛に生きることは出来ないのです。イエスを愛し、イエスの言葉を守る者にのみ、父なる神はイエスと共に来たり給うて、一緒に住んでくださるのです。これに反して、イエスを受け入れず、その言葉を守らない者は、イエスの顕現にあずかることはできない、とユダに答えています。
「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、(彼が)あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(25、26節)
別れに臨んで、イエスの語るべきことは終わりました。やがて、彼の取り去られた後、弁護者、すなわち、父なる神がイエスの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、イエスが生前に話されたことをことごとく思い起させます。【原語では、聖霊を(彼が)と男性・代名詞・主語で表現しています。】聖霊が父なる神や子なる神と同じように人格的な人(神)であることを示しています。聖霊は、私たちの心をみことばに向かって開き、地上のイエスの言葉と業を思い起させる働きをします。この意味で聖霊は助け主であり、私たちと共に今も生きておられるイエスの働きなのです。
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(27節)
イエスが地上を去るに当たり、弟子たちは不安に陥るかもしれないが、<平和を与える>と約束します。<平和・平安>は、あらゆる面での完全な充足、至福の状態を表すものです。イエスが与えようとされる平和は、神から与えられる恵みとして、私たちに贈られる救いであり、いやしであり、それは真の愛と和解を私たちにもたらすものです。わたしがあなたがに残すのは不安ではなく、それに打ち勝つ平安であると主は言われ、<心を騒がせるな。おびえるな>と弟子たちを勇気づけられます。イエスの与える平和は、戦争のない、一時的な平穏無事な状態を指すのではなく、不安動揺の中でも奪い去られることのない平和です。
このイエスが私たちに与え、遺してくださった平安を、世に対して証しすることが、キリスト者の伝道の使命です。別れに際してのイエスの「聖霊を与える約束」は、今まで以上に強く、イエスが「いっしょにいる」ことを説いています。
ヨハネ福音書では、このように聖霊とは、私たちと共にある神、今も共に生きるイエスのことです。<みなしごにはしておかない>との約束は、聖霊降臨の出来事において実現したのです。神の力として働く聖霊は、私たち信仰者と共にいてくださる霊なる主イエスによるものなのです。ヨハネによる人格としての聖霊理解は、真理の御霊と偽りの霊を区別する手掛かりとなります。聖霊は単なる感化力ではなく、人格をもった神であることを理解することが大切てす。
私たちのこの世の命は、様々な肉の弱さを抱えています。日々衰えて行きます。病の苦しみに襲われることがあります。そして、いずれ死を迎えます。しかし、聖霊によってキリストと結びつき、死を克服して下さったキリストの復活の命に生かされるのです。神がいるところ、主イエスがいるところは天国ですその神が、イェスが、わたしたちと共におられるなら、わたしたちは、地上にあって天国にいるのです。そうであれば、もはや、この世での様々な苦しみは根本的な苦しみではなくなるのです。この救いを知らせ、救われた者として一緒に生き始めることが伝道です。
【ドストエフスキー「カラマ―ゾフの兄弟」の中のゾシマ長老の若い兄マイケルが18歳で急性結核で亡くなる前に言った言葉。「人生って天国なんだから、ぼくたちみんな天国にいるのにそれを知ろうとしないだけなんだ。・・・僕はあらゆるものに対して罪深い人間でいいんだ。その代わりみんなが僕を赦してくれますからね、これこそ天国じゃありませんか。はたして僕がいるところは、天国じゃないでしょうか?」(解説:聖霊の恵みにより、キリストの救いにあずかったマイケル青年の言葉です。】
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