富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「神殿での少年イエス」 ルカによる福音書2章41~52節

2018-01-06 02:12:44 | キリスト教

    ↑   神殿で少年イエスが学者たちの間に座って学んでいる絵                             

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

     日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

   降誕節第2主日(新年礼拝)2018年1月8日(日) 午後5時~5時50分

礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 368(新しい年を迎えて)

交読詩編   89、1~15節(主の慈しみをとこしえに)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) ルカによる福音書2章41~52節(新p.104)

説  教   「神殿での少年イエス」  辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   507(主に従うことは)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏 

                                    次週礼拝 1月14日(日)午後5時~5時50分

                                        聖書 マルコによる福音書1章9~11節  

                                        説教題  「イエスの洗礼」

                                        讃美歌(21)366 277 24  交読詩編36篇

      本日の聖書 ルカによる福音書2章41~52節

2:41さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。 42イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。 43祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。 44イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、 45見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。 46三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。 47聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。 48両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」 49すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」 50しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。 51それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。 52イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

                 本日の説教

 「神殿での少年イエス」の物語は、福音書記者ルカだけが語っています。この物語の執筆に当たり歴史家である彼の第一の関心は、イエスが真のイスラエル人であり、その誕生の時からユダヤ教の道徳とその儀式・慣習に沿った生活の中で育てられたという見解を確立させることにありました。イエスの生涯の重要な時期にはいつも彼は、ユダヤ教とのかかわりの中にありました。男子にとって、最初の重要な期間は、八日目の割礼(ルカ2・21)であり、さらに母親の清めの儀式がなされてから行われる、六週間目の神への捧献(ルカ2・22)でした。通常ユダヤ人の男子は13歳で「律法の子(バル・ミツバ)」という儀式を行い、幼児期を脱し、ヤㇵウェの全律法を知り、その戒めを実行し、成人の宗教的義務にかかわることを求められました(「タルムード」の規定、ピルケー・アボード5・27)。その準備は12歳から始まる過越の祭りをエルサレムで守る事でした。ルカは、イエスの誕生物語に続く最後の物語として、12歳のイエスのエルサレム訪問と神殿でのイエスについて語るのです。

 「さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。」(ルカ2・41~42)

 イスラエルの成人男子は皆、モーセの律法により、三大祝祭(過越祭、五旬祭、仮庵祭)には、エレサレム神殿に参拝する義務がありました(出エジプト記23・14-17)。しかし遠くに住む人々は、特に重要な過越祭の時だけでよかったのです。巡礼者たちはエルサレムに行って、最低二日間滞在することを義務付けられていました。イエスの両親は過越祭に毎年エルサレムへ旅をしました。過越祭はイスラエルの民が神によってエジプトから救い出されたことを祝う祭りです。太陽歴では3月末から4月始めにかけて行われる祭りです。住んでいたナザレからエルサレムまで、およそ100キロメートル強あるので、行くのに三日はかかりました。子供のイエスが十二歳になったときも、両親は慣習に従って都エルサレムに上りました。

 「祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。」(43)

 祭りの期間は七日間です。両親は七日間滞在し、祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに居残っていました。両親はそれに気づきませんでした。巡礼者は、身を守るために、巡礼団となって旅をするのが、当時の祭りの習慣でした。団の各グループでは、家族はしばしば離れていました。両親はイエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のり(約30キロ)を行ってしまってから、イエスのいないことに気付いたのです。巡礼団のごった返すなかでの出来事でした。両親はどんなにか心配したことでしょう。親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返しました。

 三日後、両親はイエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけました。聞いている人たちは皆、イエスの賢い受け答えに驚いていました。」イエスは神殿の中で賢い理解力をもつ少年として教師たちの間に座っています。ここには、教師たちからイエスは学んでいるのであり、教師たちに教えていたのではありません。

  ㇵインリヒ・ホフマン(1824-1911)、ドイツ人画家の絵(この絵はイエスが学者たちに教えています。)

  この絵は、イエスが学者たちから学んでいます。

 「両親はイエスを見て驚きました。イエスが思いがけず神殿の中におり、しかも教師たちから学んでいたからです。母は、「なぜこんなこをしてくれたのです。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」とやさしく咎めました。イエスは、『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか』と言いました。両親にはイエスの言葉の意味が分かりませんでした。」

 イエスの生涯のこの段階では、イエスは自分が神の子である自覚は、はっきりしないままの状態でしたが、神との独特な関係を意識しはじめていました。しかし、自分がメシアであることも、神との独特な関係の深い意味も、まだ完全には知ってはいません。イエスが父の家にいるというのは、イエスが父の子であることを示します。イエスは神を<自分の父>と呼びました。イエスの神の子である自覚は深まりつつあり、イエスと家族との間に、緊張関係をもたらします。「なぜこんなことをしてくれたのです」(48節)、「お父さんもわたしも心配して捜していたのです」(48節)、「両親にはイエスの言葉の意味が分かりませんでした」(50節)。これらの言葉は、このような緊張関係を反映しています。

   ルカはここでイエスについて何を言おうとしているのでしょうか。このエピソード(逸話)は、主へと子供を捧げた、より以前の神への捧献(ルカ2・22~23)を完全なものとしているのです。イエスは今や自らに対して、神との特別な関係を主張し始めます。

   ルカは、少年サムエルをモデルにしているようです。少年サムエルは母親によって神に捧げられ、主の神殿で暮らすようになります。サムエルが自分の特別な使命を認識するようになったのは、神殿の中で主の語られる言葉を聞いたからでした。少年イエスも神殿で学者たちから主の御言葉を聞き、学び、自己と神との特別な関係を知りつつあるのです。

 「それから、イエスは両親と一緒にナザレに帰り、三十歳まで両親に仕えて暮らしました。イエスの言葉の意味が分からなかった母マリアはこれらのことをすべて心に納めていました。」自分が天の父の子である、というイエスの自覚的発言は、彼がヨセフとマリアの息子である事実を否定したり、それからの分離をもたらすものではありませんでした。イエスはマリアとヨセフと共に、ナザレの家に帰り、その後30歳になるまで18年間も彼らに仕えました(51節)。家族の間には愛と、献身とがあり、この二つは神へのより高い愛と忠誠の下で豊かに育まれているのです。

「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。(52)

 ここで言われている<知恵>とは、神との関係についての認識のことです(箴言1・7)。イエスは知恵が増し、の恵みを豊かに受けて成長しました。<神と人とに愛された>とあります。律法の全体は、神を愛し、人を愛することにあります。イエスは神と人とに愛され、神と人を愛すことの大切さを学んだのです。彼はまだ普通の少年として、学んで成長し、成熟しなければならないのです。

 少年サムエルについては、彼は「すくすく育ち、『主』にも人々にも喜ばれる者となった(サムエル記上2・26)とあり、とてもイエスと類似しています。この類似性は、イエスの人間性を強調するとともに、ルカはサムエルの文を用いて、「聖なる者、神の子」(ルカ1・35)として<神と人とに愛された>と記しています。

 「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」この主イエスのお言葉は、いかなる人間にとっても、当たり前のこと、自然のことであるべきです。父なる神のおられるところこそが、本当に憩うことができるところ、住むことが出来るところです。

 「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。」(詩篇27・4)主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます」詩篇4:8)と詩人たちは主の家に住まうことを切望しています。

 わたしたちは、主イエスと同じように神の前に立つことによって自立します。親から離れます。そして神の愛に生きつつ、親をほんとうに愛することができるようになります。両親も自分たちの手の中に子どもを置くのではなく、神の前に置き、神の前に立たせることによって、子を自立させ、子を本当に幸せにするのです。

 今年の年間標語は、「日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう」です。

 日馬富士が巡業中、同じモンゴル出身の幕内、十両の貴ノ岩関(貴乃花部屋)を酒席で殴り、頭にけがをさせたことで引退に追い込まれ、傷害罪で罰金50万円の略式起訴された事件がありました。日馬富士は父親を交通事故で亡くし、貴ノ岩関は両親が他界しているので、日馬富士は境遇の似た貴ノ岩関をかわいがり、日頃からしつけを指導し、相談にも乗っていたそうです。秋巡業中の10月25日夜、二次会の席で、白鵬関が貴ノ岩関と照ノ富士関に対し、「相撲で生活できるのは、高校の先生方にお世話になったからだ。恩を忘れないように」と説教していると、貴ノ岩関はスマートフォンをいじりました。日馬富士が注意すると、貴ノ岩関は、「彼女からのメールです」と言って苦笑しました。謝罪を求めて平手で顔を殴った日馬富士を貴ノ岩関はにらみ返しました。「謝れ」。元横綱はそう言いながら、平手で十数発、そばにあったカラオケのリモコンで頭部を数回殴打。シャンパンボトルも振り上げたが、手から滑り落ちました。白鵬関が止めに入るまで暴行は続きました。以上のような事件でした。

 日馬富士は、叱責によって、貴ノ岩を指導しようとしたが、最後には感情が爆発し、暴力であやまることを強制しました。謝罪は本人の納得による内側からの動機が必要であり、外部からの強制によっては決して実現しません。

 神が望まれる真の服従は、外部からの強制や、きびしい規則の徹底や罰則では実現しません。それは聖霊によって生み出される内側からの動機によってのみ実現します。

 霊の思いを与えられて生きているキリスト者も、日馬富士と同じように、子どものしつけをする場合、感情に走って、大声を出したり、怒って手荒なことをしてしまうことがあります。これは、忍耐も寛容もない、相手を責めている状態です。これは霊の思いではなく、人間的な肉の思いに捕らわれている状態なのです。その証拠に「キリストの平和」が心を支配していません。心を支配しているのは、怒りであり、いらだちです。これに対して霊の思いは、愛であり、喜び、平和、寛容、柔和です。日馬富士事件を他山の石とせず、自戒したいと思います。「キリストの平和」が、いつも心に支配するように、『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。』

 神の霊に従って生きるとは、キリストのみ霊の力によって肉の力の働きを日々殺して生きることにほかなりません。もちろんわたしたちの肉の人は、キリストの十字架の死と共に死んだのです。しかし、肉の人は今なお生き返ってくるのです。それほどにしぶといのです。それゆえ、絶えず殺し続けねばならないのです。体の働きを絶つのは霊です。イエス・キリストを死者の中から復活させた方のみ霊がわたしたちのうちに宿ってくださっています。この霊のみが、わたしたちの肉の人を殺してくださるのです。このみ霊のお働きに信頼し、ゆだねて生きることが、神の霊に導かれて生きるということであり、それがわたしたちが神の子とされているということなのです。

 子供のしつけも、神に祈り求めながら、「何を話すにせよ、行うにせよ、すべて主イエスの名によって行い、いつも神に感謝しましょう。」キリストの平和に支配された心の状態を保つように心がけましょう。子供のしつけも、神の恵みによってすべてのことが導かれるように、神にゆだね、見守り、助言し、自立の心を養いましょう

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