富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「キリストの復活」 マルコによる福音書16章1~8節

2018-03-30 23:21:10 | キリスト教

 ↑ レンブラント(オランダの画家)「トマスの不信」1634年 プーシキン美術館 モスクワ (弟子たちが13人画面に描かれています。ユダを除く11人の弟子と、エマオから戻った二人の弟子でしょうか?)

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

     日本キリスト教 富 谷 教 会    週  報

年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

    復活節第1主日(復活日) 2018年4月1(日) 午後5時~5時50分  

                  礼 拝 順 序

                司会 田中 恵子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 327(すべての民よ、よろこべ)

交読詩編  103(わたしの魂よ、主をたたえよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) マルコによる福音書16章1~8節(新p.97)

司会者祈祷

説  教   「キリストの復活」    辺見宗邦牧師

祈 祷              

讃美歌(21) 328(ハレルヤ、ハレルヤ、たたかいは終わり)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷  

後 奏 

                              次週礼拝 4月8日(日) 午後5時~5時50分

                              聖書 ヨハネによる福音書 20章19~31節

                              説教題   「復活顕現」

                              讃美歌(21)204 197 24 交読詩編145

       本日の聖書 マルコによる福音書16章1~8節

 16:1安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。 2そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。 3彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。 4ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。 5墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。 6若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 7さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 8婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。 9〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。 10マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。 11しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。 12その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。 13この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。 14その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。〕

      本日の説教

 主イエスが十字架上で息を引き取られたのは金曜日の午後3時頃でした(マタイ27:46)。遠くから見守っていた婦人たちの中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいました。<マグダラのマリア>はガリラヤ湖南西に位置するマグダラ出身で、、イエスのガリラヤ伝道中に七つの悪霊を追い出してもらった婦人です(ルカ8・1-2)。<サロメ>はゼベダイの妻で、ヤコブとヨハネの母(マタイ4・21、27・56)です。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従ってきて世話をしていた人々です(マルコ15:40)。アリマタヤ出身で身分の高い議員のヨセフが遺体の引き渡しを願い、イエスを十字架から降ろして、亜麻布で巻き、岩を掘って作った横穴型の墓の中に納め、墓の入口には石を転がして閉じておきました。マグダラマリアとヨセの母マリアは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていました。

 「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。」(16:1-2)

 土曜日の安息日が終わる日没後に、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの三人はイエスの遺体に油を塗りにいくために香料を買って準備しました。翌朝、日曜日の夜明けの朝早く、すぐ墓に行きました。

 「彼女たちは、『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』し合っていた。 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。」(16:3-4)

 彼女たちは、墓へ行く途中、だれがあの墓の入口の石を転がしてくれるだろうかと、話し合っていました。ところが墓に着くと石は既にわきへ転がしてありました。非常に大きい石でした。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚きました。

 「若者は言った。『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。<あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる>』と。」(16:6-7)

 若者のように見えた天使は、驚くことはありません、十字架につけられたイエスは復活されて、ここにはいませんと言いました。<御覧なさい。お納めした場所です>とイエスが納められた空虚な墓を示し、イエスが復活されたことを示しました。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。この言葉には弟子たちに対するイエスの赦しと回復の約束です。弟子たちはイエスを見捨てたが、イエスは弟子たちを見捨てません。三度イエスを否認したペトロも見捨てられていません。あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。かねて言わていたように(マルコ14:28)、そこでお目にかかれますよと天使は言いました。ガリラヤにおけるイエスの復活顕現を示しています。婦人たちは、天使より最初の復活の使者として立てられました。

 「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(16:8)

 天使の言葉は、十字架につけられた者が甦ったという、人間の理解をはるかに超える出来事を告げたのです。イエスの復活は人間に恐れを生じさせる神の驚くべき奇跡です。婦人たちは墓を出て、逃げ去りました。震え上がり、恐れて、正気を失っていました。ここには少しの喜びもなく、イエスの復活という恐るべき神の出来事に対する恐怖と無理解だけがあります。そして、だれにも何も言いませんでした。非常に恐ろしかったからです。

 マルコ福音書は復活のイエスの顕現物語を福音書の中に取り入れず、十字架につけられたナザレ人イエスが甦り、ガリラヤで弟子たちに会うという天使の告知だけを記しています。婦人たちもイエスの空虚な墓を示されただけではイエスの復活を信じるには至らず、復活を信じる信仰は、生ける復活の主と出会うことによって生まれるものであり、主の御言葉により、主の「聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」とは言えないのです(コリント一、12・3)。

  ガリラヤはイエスがその活動を開始し、弟子たちを召し出した場所です。弟子たちはかつての出会いの場所で復活のイエスに会います。復活のイエスはかつてのようにガリラヤで弟子たちに会い、<わたしについて来なさい>と呼びかけ、再び彼らをとおして宣教の業を始めるのです。

 16章9節以下の「結び」は、本文に付加された部分です。他の三福音書に見られる顕現物語の諸伝承に基づいて、復活のイエスの顕現を述べています。

 「イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。 しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。」(16:9-11)

 マグダラのマリアへの復活者の顕現はヨハネ福音書20章14節に記されています。イエスは週の初めの日曜日の朝早く、まずマグダラ(出身)の女といわれるマリアに御自分を現されました。マリアは、イエスと一緒にいた弟子たちや婦人たちが、イエスが死んだあと、泣き悲しんでいるところへ行って、復活されたイエスが現れ、お会いしたことを知らせました。しかし彼らは、イエスが復活して生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じませんでした。

 「その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。」(16:12-13)

 この記事はルカ福音書24章13-35節の「エマオ途上の二人の物語」の圧縮です。この日、その後、二人の弟子がエマオという田舎の方へ行く途中、イエスが別の旅人の姿でこの二人に御自身を現されました。この二人もエルサレムに行って、残りの弟子たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じませんでした。

 「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。(16:14)

 この記事は、ルカ福音書24章33節以下、使徒言行録1・4、10・41、ヨハネ福音書20章19節によっています。その後、十一人の弟子たちが、夕食の食事をしているとき、イエス御自身が彼らの中の現れました。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思いました(ルカ24:37)。そこでイエスは「なぜ、うろたえるのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになりました。イエスは彼らの不信仰とかたくなな心をおとがめになりました。復活されたイエスを見た人々の言うことも、彼らにイエス御自身が現れても、信じなかったからです。

  わたしたちを救う福音は、キリストが聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、マグダラのマリアに現れ、二人の弟子に現れ、十一人の弟子たちに現れtことです。キリストの十字架と復活が、もっとも大切な福音の中心です。キリストが復活しなかったのならわたしたちの信仰はむなしく、今もなお罪の中にあることになります。キリストの十字架の死と復活を信じる信仰は、ただ、二千年前に死刑に処せられた主イエスが甦ったという奇跡のみを信じることではありません。復活されたキリストが今も生きておられると信じることなのです。復活というかつて起こったことを信じるだけでなく、復活の主が今も生きて働いておられ、私たちを導き、罪から解放し、永遠の命を与えて下さっていることに信頼して、その命に生かされるのです。主イエスが生きておられるというのは、復活の後、天に挙げられ、父なる神の右の座におられて世を支配し、聖霊をわたしたちに与えて、主イエスは生きて働き、御自身を御言葉を通してあらわしてくださるのです。

 

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