富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「教会内の強い者と弱い者の交わり」 ローマの信徒への手紙14章1~9節

2019-09-04 11:48:46 | キリスト教

               ↑ ローマの信徒への手紙

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

       日本福音教団 富 谷 教 会   週 報

      聖霊降臨節第14主日  2019年9月8日     午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                   礼 拝 順 序

                                                司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 441(信仰をもて)

交読詩編   92(いかに楽しいことでしょう)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ローマの信徒への手紙14章1~9節(p.293)

説  教    「教会内の強い者と弱い者の交わり」     辺見宗邦牧師

祈 祷                  

讃美歌(21)  507(主に従うことは)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                         次週礼拝 9月15(日)  午後5時~5時50分 

                                         聖 書 コリントの信徒への手紙二、11章7~15節

                                         説教題   「神からの誉れ」

                                         讃美歌(21) 206 451 交読詩編 33

             本日の聖書 ローマの信徒への手紙14章1~9節

  14:1信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。 2何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。 3食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。 4他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。 5ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。 6特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。 7わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。 8わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。 9キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。10それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。11こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」 14:12それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。

                            本日の説教

  パウロの書いた手紙は新約聖書中に十三通あり、新約聖書全体の三分の一強を占めています。その十三の手紙のうちで最も重要な、また有名なのが、「ローマの信徒への手紙」です。それはパウロの神学的な思想が組織を立てて堂々と述べられているからです。この手紙が書かれたのは、彼の宣教活動の最後期に属する紀元56年頃、ギリシャのコリントに三か月間滞在していた時であろうと推定されています。パウロはローマの信徒とはほとんど面識がありません。ローマの信徒の集会は、おそらく最初はローマ在住のユダヤ人の間にもたらされたキリスト教が次第に異邦人に及び、パウロの手紙執筆時には異邦人を主体にして成立していたと思われます。このような未知の教会に手紙を書いた動機は、この未知の教会を訪問するに先立って、自己紹介をすることにあったと思われます。パウロはこの手紙で自己の福音理解を整理して述べたのです。

 1章1節以下の挨拶で、神の福音はダビデの子孫から生まれ、死者の中から復活して神の子とされたイエス・キリストであり、この福音を宣べ伝えるために、パウロは召されて使徒となったことを述べます。更に「福音は信じる者すべてに救いをもたらす神の力」であることを述べます。パウロは、福音の中心を<人が義とされるのは律法の行いによるのではなく>、贖いの業をなされたイエスを信じる者を義とする「信仰義認」を説きます。

   7章の人間の苦悩の問題をうけて、8章ではキリスト者の生を支えるのは、神の霊の力であることを証言します。霊とはキリストとの交わりであり、キリストと離れ難く結ばれて生きるにが「霊による歩み」です。ここに律法の満たされる道があります。それを満たすのは、わたしたちではなく、キリストが満たしてくださるのです。聖霊は交わりの霊であり、聖霊が「宿る」とは実体的に内住することではなく、キリストとの交わりの深まりに導かれることです。「内に宿っている御霊」は、今の「死のからだ」を「生かしてくださり、「からだあがなわれることを」待ち望む希望を与えてくださるのです。

 9~11章では、イスラエルと全人類の救いとしての福音とは何かを説きます。

  12章以下(15章まで)では、その福音にふさわしいキリスト者の生き方について述べます。12章の1~2節で、パウロはローマの兄弟たちに、その体を「神に喜ばれる、生きた聖なる供え物としてささげ」るように命じ、それが「なすべき霊的な礼拝」であると語り、それが信仰によって生きる人間の生活であると説きました。これを受けて12章3~21節では、教会内でのキリスト者の生活についての勧告がなされます。

   13章では、キリスト者の公的行動、国家との関係でどのような態度を取るべきか、愛が律法を完成するものであること、終末の日が近づいているので眠りからさめるべきであることについての勧めがなされました。

     「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬるとすれば主のために死ぬのです。」(ローマの信徒への手紙14章8節)

  そして14章以下(15章まで)で、「信仰の弱い者を受け入れなさい」という勧告がなされるのです。

  14章1~3節では、信仰の強い人たちに対し、<信仰の弱い人>を受け入れなさいと勧めています。<信仰の強い人>とは、<何を食べてもよいと信じている人>です。それに対して、ここで述べられている<信仰の弱い人>とは、<野菜だけを食べている人>です。「肉を食わず、酒を飲まない」(21節)人たちです。<信仰の弱い人>は、信念や確信に欠ける人ではなく、むしろ逆で、自分の従来からの生活信条に囚われてそこから自由になることのできない人です。

  <信仰の弱い人>を<受け入れなさい>というパウロの勧告は、単にその人たちを配慮し、教え導きなさいということではなく、その人たちの生活習慣に根ざす信念を理解せずに、その人たちをさばき、切り捨ててはならないということです。

  4節では、ローマの奴隷制度に言及して、人を裁くのは、よその家の僕を裁くのと同じである。この比喩は、一般的な奴隷―主人の関係から、教会の主キリストとその僕である信仰者の関係へと移行され、<召し使い>同士がお互いにお節介を焼く必要のないこと、<召し使いが立つのも倒れるのも、その主人による>ことが指摘されます。そのように信仰者の行為と生活についても、主キリストがその人を立たせるし、立たせることができると言います。主は、弱い者をも、否、弱い者をこそ、立たせるからです。互いの争いや裁きあいは、主に対する罪であり、不信であるということです。

  次に、5節では日の問題に入って行きます。<特定の日を重んじる人>とは、悪霊などによる影響を恐れて、日の良し悪しにこだわる人々や、安息日やユダヤ教の祝祭日を守るユダヤ人キリスト教徒のことを言っているようですが、パウロは、彼らの態度の良し悪しを問わずに、彼らが<主のため>にそのようにしていると解釈しています。また、他の人は<すべての日を同じように>考えています。それに対するパウロの立場は、各自がそれぞれの心の中で確信をもっておるべきであるというのです。日を重んじるか、重んじないかということよりも、それを主のためにするかしないかが問題だというのです。その点は、食べるのも同様であって、食べるのも主のために食べるのであり、食べないのも主のために食べないのでなければならない。つまり確信をもって、主のためにどちらかを選ぶことが大切なのだと言っています。それは自己を制御して生きる者も、自由に生きる者も共に、<主のために>そうするのであって、どちらも食事の際に<神に感謝>することから明らかであるとします。

  この基本的態度が、7-9節で展開されます。信仰者にとって生きるのは、主キリストのためであり、死ぬのも<主のため>であると言っています。<主のため>なら死んでも良いという表現です。パウロにとって、死はたんなる終わりではなく、天にある主イエス・キリストのもとに行くことでした(フィリピ1・21)。8節に「だから…わたしたちは主のものなのである」とあります。わたしたちは主キリストに属するものであり、キリストのものだという自覚です。なぜ主のもの、主に属するものといえるかですが、それに対してパウロはキリストは死者と生者との主となるために死んで生き返られたからだと答えています。死んで生き返ったということは、キリストの十字架と復活を意味しています。キリストは復活したことによって、父なる神の右に座し、全権を委ねられて、世界の主として立てられたのです。それ故に、主イエスを信じるものは、主のもの、主に属するものとなるのです。主イエスを信じるものは、主イエスの復活の命にあずかるのです。キリストを信じるものは、聖霊を与えられることによって、この世にあってすでに終末の栄光にあずかっているのです。

  10節では、再び<兄弟を裁き>、<兄弟を侮る>のは、自分の判断が他の人間の判断する基準であると主張することなのだと諭します。しかし、神こそがすべての判断の基準なのです。自分の判断を基準とする者は、自分を裁判官の席に座らせることになります。しかし実際は、自分たちこそ<神の裁きの座に立つ>のです。

  11節の、「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」は、イザヤ書45・23と49・18からの引用による礼拝における「歓呼」です。互いに受け入れ、裁き合ってはならないという勧告は、神こそが裁き主であるという賛美となります。

  12節では、最後に、パウロは短く、信仰者は個々人で神の前で申し開きをすべきこと、自分の生活態度に関して自ら責任を取るべきことを付け加えます。目を向けるべきは、他人の態度についてどう判断するかではなく、神の判断の前に立たされる自分自身の姿をかえりみながら、全責任を負って、善く考え判断し行動せよ、という勧めです。

   他人の言動をあれこれ言う以前に、みずからの言動について、愛の配慮に基づいているか、あなたのならわしに従って歩ませようとするなら、彼は自分の良心にそむき、それが原因となって挫折するかも知れない結果にならないかどうかを吟味すべきです。それでは反対に、信仰の強い者の自由が束縛されるではないか、という問いが出てきます。パウロはそれに対して、キリストは自由を放棄する以上のことをあえてなされた。キリストは信仰の弱い人のためにも死んでくださった。このことをしっかり心に銘記してほしい、とパウロは勧めています(14・15)。そのうえで、各自は自分の心の確信に基づいて自由に生きるべきなのです。

  ここには、やはりパウロが、ローマ教会をつまらない事で波風を立たせず、穏便に治め、教会の一致を守って行こうとする姿勢がよくあらわれています。教会の中で信仰の中心にかかわることでなければ、こうでなければならないという人と、そのような固定観念にとらわれない人とが相互に認め合っていくべきであるというのです。

  日本の教会には、アメリカから持ち込まれた清教徒(ピューリタン)信仰が伝えられ、謹厳で潔癖な宣教師たちは禁酒・禁煙を重んじたので、教会の敷居は高いものになり、庶民から孤立しました。庶民の生き方に対する配慮が欠けていました。韓国のキリスト教会では、禁酒を重んじる傾向があり、ある牧師は信徒の前では飲酒を控えていると語っています。つまずきを与えないように配慮しているのです。

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