富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「キリストの日に備えて」フィリピの信徒への手紙1章1節~11節

2023-10-10 22:21:49 | キリスト教

   ↑「本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となるように。」フィリピ1章10節

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日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第21主日 2023年10月15日(日)  午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                  

                 司会 邉見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  56(主よ、いのちのパンをさき)

交読詩編      9:1~13(わたしは心を尽くして主に感謝をささげ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) フィリピの信徒への手紙1章1節~11節(新p.36)

説  教  「キリストの日に備えて」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                        

聖餐式    72(まごころもて)

讃美歌(21) 483(わが主イェスよ、ひたすら)

献 金  

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父、子、聖霊の)

祝 祷             

後 奏

   〇オン・ラインで礼拝に参加できます。 090-3365-3019に

 連絡下さい。

                               次週礼拝 10月22日(日)  午後5時~5時50分

                               聖 書  ヘブライ人への手紙11章32~12章2節

                               説教題  「天国に市民権をもつ者」

                              讃美歌(21)  72 383 27 交読詩編 78     

本日の聖書  

 1キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。 2わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。3わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、4あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。5それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。6あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。7わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。8わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。9わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、10本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、11イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

    本日の説教

  フィリピは、現在はギリシャ共和国の北東部、東マケドニア地方にある、フィリッポイという町(Filippoi)です。北はすぐブルガリア共和国との国境です。パウロが初めて、アジア(トルコ東端)から、エーゲ海を渡って、ヨーロッパに入り、最初に伝道した地がマケドニアのフィリピでした。フィリピは、当時この地方最大の、ローマの植民都市で、東西交通の要所でした。ここには、小数のユダヤ人しか住んでいなかったので、ユダヤ教の会堂はなかったようです。

 パウロから福音を聞いて最初に洗礼を受けたのは、リディアという紫布を商う婦人とその家族でした。彼女が洗礼を受けたガギタス川は、現在も清流が流れ、そのほとりには洗礼堂が建っています。初めは彼女の家で集会がもたれ、それが教会に成長しました。彼女が住んでいた土地はリディア村と呼ばれ、現在はフィリピの遺跡の西にリディア(Lydia)と呼ばれる町になっています。次に信徒となったのは、看守とその家族でした。(使徒言行録16:11~34)

  

   ガギダス川と洗礼堂

 このようないきさつで使徒パウロから福音を伝えられたフィリピの教会の人々は、以後、使徒とのきわめて親密な関係を保ちました。折にふれてパウロの宣教活動を援助していたフィリピの教会は、事情があって、一時援助を中断していました。

 しかし、もののやり取りの関係(4:15)が再開し、信徒たちはエパフロディトを代表に立て、贈り物を持たせて、エフェソの獄中にいるパウロのもとに派遣しました。彼はしばらくパウロのところにとどまって奉仕していましたが、病をえて、フィリピに送り戻されることになりました。この機会に、贈物への感謝を表し、さらに自分の現在の生活と心境とを告げて、彼らに主にある信仰の一致を守り、互いに励んで困難に打ち勝ち、勝利の喜びに生きるように勧める手紙をパウロはエパフロディトに持たせました。これがフィリピの信徒への手紙です。

 フィリピ書は、4章からなる小さい手紙ですが、その中にキリスト賛歌(2:6~11)や、自伝的要素を含んだキリスト信仰の奥義(3:4~14)を伝えています。それでは、今日の聖書の箇所の御言葉に耳を傾けましょう。

 「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの 恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(1:1~2) 

 1-2節は手紙の前書きです。<キリスト・イエスの僕であるパウロ>とは、キリストの伝道者であるパウロの「へりくだり」の表現です。この手紙の執筆者はパウロ一人ですが、若い弟子で同労者であるテモテの名も、差し出し人として挙げているのは、テモテがフィリピ教会の設立に参加したからです。

 手紙の宛先のフィリピの教会の信徒たちを、<キリスト・イエスに結ばれている聖なる者たち>と記しています。<聖なる者たち>とは、聖人という意味ではなく、キリストの血によって潔められ、神の御用をはたすために選びわかたれた者たちという意味です。フィリピの教会の信徒は、決してすべてが模範的な信仰生活を送っていたわけではありませんでした。しかしそれにもかかわらず、彼らはキリストに結ばれているゆえに、キリストの恵みによって新しい命を与えられていうゆえに、<聖なる者たち>と呼ばれているのです。

 手紙の受け取り人として、<監督たちと奉仕者たち>へとありますが、教会の指導者として実務的な仕事と指導に当たった人々を指すと考えられ、後代に確立された監督の職制をあらわす言葉ではありません。<わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和>を信徒たちの上に祈り求めています。キリスト者は、神とキリストの<恵みと平和>に生かされるのです。

 「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(1:3~6)

 3節~5節は、フィリピの人々が<最初の日から今日まで、福音にあずかっている>ことについてのパウロの神に対する感謝のことばです。これに対して6節は、<善い業を始められた方>が、<その業を成し遂げてくださる>という将来の救いの完成についてのパウロの確信を述べています。完成の唯一の根拠は、フィリピの教会の人々の<善い業>ではなく、<善い業>を始められた神の真実にあります。パウロは、フィリピ教会の人々を召し、その信仰を支えた神の真実に感謝します。そして、パウロは、将来この救いを完成する神の真実を確信しているゆえに、喜びに満たされた祈りになっています。

 パウロは、エフェソの獄中にいると思われますが、<いつも喜びをもって祈っています>と言っています。4章からなるこの短い手紙には、<喜び>という言葉が16回も用いられています。手紙の内容も<イエス・キリストにある喜び>で満ちています。4章4節では、「主において常に喜びなさい」と勧めています。フィリピ書は、「喜びの書簡(手紙)」とも呼ばれています。

 「わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。」(1:7)

 パウロは、3節~6節で記した感謝、祈り、確信を、7節では<このように考える>とまとめて述べています。<当然です>は、正しいという意味で、その理由を、<あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからである>で示されています。

 フィリピ教会の人々は、祈りと物質援助により、パウロを助けることによって具体的に獄中のパウロとその苦難を共にし、パウロの福音のための戦いに加わっていました。このことは,パウロにとっては、<監禁されているときも>、<法廷に出頭を命じられて、福音を弁明し立証するときも>、つねにフィリピの信徒一同のことを、自分の受けた恵み、すなわち、福音に生き、福音を伝える<恵み>に<共にあずかる者>とみなしているのです。

 「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。」(1:8)

 パウロは、フィリピの信徒たちへ愛が、単なる人情ではないことを示すため、<キリスト・イエスの愛の心で>というただし書きを加えています。信徒たちに対してパウロが抱いている熱烈な愛情を伝えています。<神が証ししてくださいます>と、その真実さを強調しています。

 「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」(1:9~11)

 パウロは信徒たちのためにとりなしの祈りをささげます。<知る力と見ぬく力>とは、神の意志を知り、それに服する生き方です。それを身に着けて、<愛がますます豊かになり>とは、キリストの愛に徹底的に貫かれて生きることです。それは最終的にはやはり恵みの出来事に他なりません。愛を豊かにせよという、倫理的命令ではありません。神の愛に生かされるキリスト者は、自らも愛に生きることを可能とされ、かつそのように生きることを求められます。     <本当に重要なことが見分けられるように>とは、キリスト者が個々の場面で、何が神の意志に即した行動であるかを、愛にもとづいて、絶えず吟味して生きることが可能となるようにという祈りです。

 そして、<キリストの日>、とは、つまりキリストの再臨とともに行われる審きの日であり、イエス・キリストの全き栄光の啓示と支配の時です。その時、キリスト者のすべての業は完成されます。それは、たんに、時間的に遠い将来に待ち望まれる性質のものではなく、イエス・キリストの地上の教えと業、特に十字架と復活の出来事において、私たちのうちにすでに確かなものとされているもの、すなわち信仰者の「今」においてすでに御霊によって保証されているものです。

 <イエス・キリストによって与えられる義>とは、<律法による自分の義ではありません。それは<キリストへの信仰による義>です。キリストの出来事によって、神が信仰に基づいて人間に賜物として与える義を意味します。それゆえ義の実は聖霊の実を指します。従って、ここではパウロは、恵みにより、イエス・キリストの出来事のゆえに神に義とされた者は、それに応えて種々の実を豊かに結ぶようにとフィリピの教会の人々に勧めている、ということになります。

 <神の栄光と誉れとをたたえることができるように>は、祈りをしめくくる賛美の定型句です。これによって、パウロは、フィリピの人々が、<義の実に満たされることにより、父なる神が栄光を受け、ほめたたえられるようにという願いをあらわしています。そして<義の実>はフィリピの教会の人々が自力で結ぶものではなく、神の賜物としての聖霊の実であるゆえ、栄光と誉れは、神にこそささげられるべきである、という指示でもあります。

 神に栄光を帰し、神をほめたたえることは、自らの栄光を求め、自らを賛美しようとする人間本来の欲求とは厳しく対立します。信徒も、この世にある限り、この欲求から完全に自由ではありえません。キリストの日に備えて、信徒が神に栄光を帰し、神をほめたたえることは、自己中心的な思いや自己本位の行動が、神の恵みによって完全に打ち破られ、神の完全な支配の下に彼らが置かれることによります。

 キリストの日に備えて、わたしたちも、キリストによって与えられる義の実をあふれるほど受けて、聖霊の賜物に満たされ、<清い者、とがめられるところのない者>とされ、父なる神の栄光と主イエスのキリストの恵みをほめたたえる者となることを、切に祈り求めたいと思います。

 世間の人にとって、信仰生活はとても堅苦しいものだと考えられています。しかし、そうではありません。キリスト者は、いわゆる立派な真面目な者ではありません。むしろだれよりも自分の弱さを認める者たちです。わたしたちに求められていることは、神の恵みにより自由に生きることです。そしてそのような生き方を可能にするのは、自分の内なる力ではなく、キリストへの信仰によって与えられる義の実に満たされることであり、聖霊の力によるのです。

 

 

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