日本キリスト教 富 谷 教 会
週 報
年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を現す人になろう。』
聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)
聖霊降臨節第17主日 2016年9月4日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 169(ハレルヤ。主をほめたたえよ)
交読詩編 23(主は羊飼い)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書 ペトロの手紙一、2章11~25節(新p.430)
説 教 「上に立つ人々に対して」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 357(力に満ちたる)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 9月11日(日) 午後5時~5時50分
聖書 エフェソの信徒への手紙3章14~21節
説教 「キリストの住まい」
讃美歌(21)492 311 24 交読詩編 103篇
本日の聖書 ペトロの手紙一、2章11~25節
11愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。 12また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。 13主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、 14あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。 15善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。 16自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。 17すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。
18召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。 19不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。 20罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。 21あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。 22「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」 23ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。 24そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。 25あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。
本日の説教
この手紙は、迫害のもとで苦しんでいたキリスト者の教会に対し、洗礼の恵みを思い出させ終末の希望を確信させることによって彼らを励まし、キリストの苦難に積極的に参与するキリスト者の生き方をすすめた文書です。
この手紙は、伝統的には、使徒ペトロが、ローマ帝国のネロ皇帝の迫害(64年頃)によって殉教の死を遂げたと言われる直前、当時バビロンと呼ばれていたローマ(5・13)から小アジア地方(現在のトルコのアジア側の大部分)の諸教会(1・1)にあてた手紙か、もしくは、その迫害の直後、67年頃に、シルワノ(5・12)がペトロの遺志を汲んで書いた手紙と考えられてきました。<シルワノ>は使徒言行録15・22の「シラス」と同一人物です。聖書として成立したのは紀元67年頃と推定されています。
2章の11節以下は、異教社会に生きるキリスト者への実際的な勧告です。
「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」(11、12節)
キリスト者はこの世では旅人として生きるのですが、その旅はこの世の事柄に対して無関心になり、逃避的な生活をすることではありません。キリスト者の旅とは、キリストの苦難に参与する旅であり、そして神の栄光を証しする旅です。キリスト者は神の民として、この世に対して義務を負わされているのです。ゆえにキリスト者はまず、復活のキリストによって与えられた新しい命をもつ<魂>を破壊しようと<戦いを挑む肉の欲>を避けなさいと勧告します。ここで言われている<肉の欲>は、パウロ的な<罪としての肉の欲>というより、単なる<人間の欲望>、すなわち、さまざまな欲望を表現しています。それらは自己中心的な欲望ですが、そうした欲望は自己を神とする偶像崇拝的な生活態度を生むために、パウロのいう罪となり、それがキリスト者の実存を破壊するのです。
キリスト者がこの世に対して責任をもって生きるということは、<また、異教徒の間で立派に生活>することです。<立派な生活>とはここでは善良な市民として生きることです。キリスト者に対する周囲からの偏見や中傷や敵意がある中で、異教徒たちがキリスト者の生活態度をたえず観察していますが、キリストの再臨の日には異教徒たちもキリスト者の立派な生活によって改心し、神を賛美することになるでしょう。
「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。」(13~15節)
<主のために>人間の立てた制度に従いなさい、と勧めています。キリスト者が制度に従うのは、(1)「服従の生涯を貫かれたキリストのゆえに、そしてキリスト者もそのキリストに従うゆえに」、(2)「主に仕えるために」、(3)「人々に主を証しすることになるために」などが考えあれます。ローマ帝国の皇帝も、地方に派遣された総督も、彼らの主な職務は秩序を維持することでした。秩序維持は創造主の意志であり、またキリスト者が立派な生活をして<愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だから>彼らに服従しなさい、と言っています。<無知な発言>とは、ここではキリスト者に対する中傷誹謗を指しています。この勧告は迫害を回避するためにローマ帝国に迎合しなさいという教えではありません。
「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。」(16節)
初代教会は基本的に<キリスト・イエスによって得ている自由>(ガラテヤ2・4、5・13)を確信していました。政治的制度に従えという勧告がその確信をゆるがすことのないために著者は<自由な人として>服従しなさいと言います。キリスト者の自由は気ままとか、無秩序と混同されてはなりません。「神は無秩序の神ではなく、平和の神」(コリント一、14・33)だからです。キリスト者の自由が罪への自由ではなく、罪からの自由であり、義(正しい行い)への自由です。それゆえ、キリスト者の自由は、<神の僕>にふさわしく、神と隣人への奉仕という服従の生活において全うされるのです。
「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。」(17節)
神に対しては<畏敬>するという語が使われ、人間による最高の尊敬を求めています。すべての人に対し、また皇帝に対しては<尊敬する>という非宗教用語を用いて、両者への態度を区別しています。
「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。」(18~20節)
<召し使いたち>は、家族の一員のように扱われていた奴隷身分の使用人を指していると思われます。新約聖書の時代の地中海沿岸の社会は経済的にも政治的にも奴隷制に依存しており、多くの職業に奴隷は従事しており、良好な生活条件であったと思われます。初期の多くのキリスト者は奴隷でした。それゆえ試練は、キリスト者の奴隷がその異教徒の主人から受けるような種類のものでした。新約聖書の著者たちは、人権という近代的視点から奴隷制を問題にしていません。<心からおそれ敬って>とは、神に対する畏敬の念と同じ思いを持ってという意味で、宗教的動機が強調されています。不当は苦しみに耐えることが神の意志だとわきまえるなら、それは神に受け入れられる恵みなのです、と教えています。更に積極的に<善を行って>苦難に耐えることは神の眼から見ればすばらしいことであると強調します。
「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(21~25節)
キリスト者の奴隷の働きは、ペトロによれば、その実質において一つの召命なのです。キリスト自身がそうした不当な苦しみを受けたように、キリスト者はそのキリストの模範に従って生活するように召されている、と言っています。
「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」というイザヤ書53章9節を引用し、<ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました>は、イザヤ書53章7節を反映し、苦難の僕の姿をもってキリストの受難が語られています。キリストは迫害者に敵対する行動を起こさず、自分の運命も含めてすべてを神に任せました。
イザヤ書の場合は、人々の罪が僕の上に置かれ、彼は民のためにいけにえとして苦難を受けたという意味ですが、ここでは、キリストが人間の罪を担って恥の十字架の上にかけられたというだけでなく、祭司として罪のいけにえ(自分自身)を十字架の祭壇の上にもってきて置いたことをも示しています。ここには、キリストが祭司自身であると同時にその祭司自身がいけにえでもあったというキリストの受難理解があります。キリストの死は、信徒を罪から解放し、神との正しい関係におき、立派な生活に導くのです。<そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました>は、イザヤ書53章5節からの引用で、<傷>はキリストの受難の光景を生々しく想起させます。キリストの受難は苦難に悩む者を癒してくれるのです。そして最後に、あなたがたは異教徒から改心して今はキリストによってしっかり守られていると、現実を指摘します。イエスは羊である信徒の大牧者であり、羊を守るだけでなく、管理する監督者でもあることを示しています。キリスト者はいかにいやしい者であっても、他のいかなる者の媒介もなしに、主ご自身に直接近づくことがゆるされているという事実を強調しています。キリストは大牧者であるだけでなく、大祭司です。
「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ人への手紙4・14~16)
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