↑ 作者Szymon Czechowicz 「復活」(キリストと十一人の弟子たち)1758年 ポーランドのクラクワ国立美術館所蔵
宮城県栗原市金成町(かんなりまち)にある「金成ハリストス正教会」聖堂内のキリストの復活の絵。 ↓
981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403
日本キリスト教 富 谷 教 会 週 報
年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』
聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)
復活節第1主日 (復活日) 2017年4月16日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 325(キリスト・イェスは)
交読詩編 30(主よ、あなたをあがめます)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書(新共同訳)マタイによる福音書28章1~10節(p.58)
説 教 「キリストの復活」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌 327(すべての民よ、よろこべ)
聖餐式 72(まごころもて)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 4月23日(日) 午後5時~5時50分
聖書 マタイによる福音書28章11~15節
説教 「主の復活顕現」
讃美歌(21)326 321 24 交読詩編16
本日の聖書 マタイによる福音書28章1~10節
1さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。 2すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。 23その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。 24番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。 5天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 26あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。 7それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 8婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 9すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 10イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
本日の説教
主イエスがゴルゴダで十字架につけられた日は、金曜日、過越祭の日でした。ガリラヤからイエスに従って、弟子たちの世話をしていた大勢の婦人たちが遠くから見守りました。その中に、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア(イエスの母か?〈マタイ13:55〉)、ゼベダイの子ら(12弟子のヤコブとヨセフ)の母(サロメ〈マルコ15:40〉)」がいました。マグダラのマリアとは、ガリラヤ西岸のマグダラという町の出身のマリアのことです。彼女を苦しめた七つの悪霊から、主イエスに癒していただいたことに感謝し(ルカ8:2)、イエスを誰よりも熱く敬慕(けいぼ)し、献身して、イエスの一行に奉仕した女性です。
夕方になると、アリマタヤ(エルサレム北西35㌔にある町)出身の金持ちでヨセフという人が来ました。ユダヤ議会の身分の高い議員(マルコ15:43)で、この人もイエスの弟子でした。この人が総督ピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出ました。そこでピラトは、部下に渡すようにと命じました。
イエスが十字架につけられた所には園があり、そこにはだれも葬られたことのないヨセフの新しい墓がありました。ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去りました。それは日没前に急いでなされた仮埋葬でした。マグダラのマリアともう一人のマリア(1節の、ヤコブとヨセフの母マリア)はそこに残り、墓の方を向いて座っていました。
明くる日の土曜日、神殿で贖いの小羊を備えた日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は行って、弟子たちが遺体を盗み出さないように、墓の石に封印をし、番兵をおきました。
マリアは、土曜日の日没後の夕方、イエスに油を塗りに行くために香料を買っておきました(マルコ16・1)。
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行きました。
すると、大きな地震が起こり、主の天使が天から降(くだ)って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのです。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように真っ白でした。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになりました。
天使は婦人たちに、「恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられません。かねて言われていたとおり、復活なさったのです。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活されました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお目にかかれます。』」と伝えました。
<かねて言われたように>とは、16:21、17:22,23、20:18,19、三度受難と復活について言われ、最後の晩餐の時には、復活した後、ガリラヤへ行くと予告していることを指しています。
婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行きました。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは復活した栄光のキリストに近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏し、拝みました。<おはよう>は、<カイぺテ(喜びあれ)>という普通の挨拶のことばです。
主イエスは、「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになります」と伝え、命じました。
復活された主イエすは、弟子たちのことを<兄弟たち>と呼んでいます。イエスを見捨てた十人やイエスを否認したペトロをもイエスは赦しておられるのです。イエスの死によって、悲しみ、失望していた弟子たちは、復活したイエスの言葉を聞いて、イエスに対する信仰を取り戻すのです。
マグダラのマリアともう一人のマリアは復活されたイエスの最初の証人とされました。女性の証言する能力を認めなかった当時としてはおどろくべきことでした。
復活したイエスと出会う前、マグダラのマリアたちが見ていた墓は死者の世界、死の支配する領域でした。そこにイエスの死体を探し求めていました。愛し、慕っていたイエスとの結びつきは、イエスの死によって引き裂かれ、自分自身も生ける屍のような状況にありました。せめてイエスの死体を手厚く葬りたいと思っていました。マグダラのマリアたちは復活したイエスと出会うことによって、絶望から希望へ、悲しみから喜びへ、死と滅びの世界から生命の支配へ、愛と信頼へと変えられました。
なぜイエスはこのような十字架の死への道を自分の道として選ばれたのでしょうか。「人の子がこの世にきたのは、多くの人の贖いとして、自分の命を与えるためである」(マルコ10:45)と言っておられます。神から離れている人間の罪に対する神の怒りを、神の御子・イエスは一身に受けて、身代わりなり、刑罰の死を受けてくださるためでした。その最後は実に壮絶な死でした。しかし、十字架の死で終わることはありませんでした。
十字架の死の後、人の子イエスは、三日目に復活することになっている、予告されていました。<復活することになっている>とは、<復活させられることになっている>という未来形の受動態です。復活させて下さる方は、父なる神です。神の御子イエスは、陰府(よみ)に捨ておかれることはありませんでした。十字架の死にいたるまで、父なる神のみこころに従い、従順であったので、父なる神はかねてからイエスに示しておられたように、イエスを復活させ、天に上げ、もろもろの権威と支配をゆだねられたのです。
主の十字架と復活により、神の恵みと義と永遠の命が、わたしたちにも与えられる道が開かれたのです。ハレルヤ。主は復活されました。主はわたしたちに復活の命に生きる希望を与えてくださいます。主はわたしたちに聖霊を与えてくださり、わたしたちと共にいて下さるのです。
ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したとき、主は、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われたように、主の復活を信じる信仰も、人間によるのではく、神の働き、聖霊の働きによるものなのです。人間の理解や知恵によるものではありません。イエスの復活は、イエスが神であることを示しているのです。
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