富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「愛に生きるキリスト者の自由」 ガラテヤの信徒への手紙5章1~11節

2018-07-01 16:03:18 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会   週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

  聖霊降臨節第7主日 2018年7月1日(日)    午後5時~5時50分 

     礼 拝 順 序

                司会 田中 恵子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 141(主よ、わが助けよ)

交読詩編   52(力ある者よ、なぜ悪事を誇るのか)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ガラテヤの信徒への手紙5章1~11節(p.349)

説  教   「愛に生きるキリスト者の自由」  辺見宗邦牧師

祈 祷                

讃美歌(21) 394(信仰うけつぎ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

          次週礼拝 7月8日(日) 午後5時~5時50分

           聖書 テモテへの手紙一、3章14~16節

           説教題  「神からの真理」

           讃美歌(21) 227 403 24 交読詩編119篇

    本日の聖書 ガラテヤの信徒への手紙5章2~11節     

5:1この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。2ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。 3割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。 4律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。 5わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。 6キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

  7あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。 8このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。 9わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。 10あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。 11兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。

   本日の説教

 「ガラテヤの信徒」へ宛てた使徒パウロの手紙ですが、「ガラテヤ」は、ガラテヤ人が住み着いた地域、現在のトルコ共和国の内陸中央部にある首都アンカラを中心とする周辺一帯を指す地名でもあり(北ガラテヤ説)、またローマの属州とされた地域、従来のガラテヤ人定住地にフリギヤ、ピシディア、リカオニアといった南部地方を合わせた地域を指す場合(南ガラテヤ説)と、二つの説があります。今日の学会では北ガラテヤ説が有力視されています。

   

   

  「北ガラテヤ説」によれば、この手紙は、第三回伝道旅行中、おそらくエフェソに二年間滞在していた時(紀元53~54年頃)に書かれたと推定されています。使徒言行録18・23に「パウロは…ガラテヤやフリギアの地方を次々と巡回し」とあり、16・6にも、「彼らは…フリギア・ガラテヤ地方を通って行った」と、フリギアとガラテヤが併記されているからです。この場合のガラテヤは地方のガラテヤのことであり、北部ガラテヤを指すとしか考えられないからです。

  この手紙を書いた執筆の動機は、パウロがガラテヤの諸教会を立ち去った後にやって来たユダヤ人キリスト者に惑わされて、信徒たちが「真の福音」から離れて、ほかの福音に移っていく重大な事態が生じたからです(ガラテヤ1・6)。

  ユダヤ人キリスト者の教師たちは異邦人キリスト者に律法、ことに割礼の遵守を迫りました。彼らは教会を乱し、パウロの使徒職を疑問視し、パウロとパウロの教えを排除しようとしました。パウロにとって、彼らのそのような言動を放っておくことはできません。彼らの教えは福音が与える「律法からの自由」を失い、キリストの十字架の死によって成し遂げられた救いの業を無意味にし、「キリストの福音」そのものをユダヤ教に換えてしまうことに他なりません。

 そこでパウロは、福音とは何であるかを説明します。彼は先ず、自分が説く福音は、キリストの啓示にもとづくものであり、エルサレムの使徒から受けたのではなく、独自のものであることを、具体的な事実により主張します(1・11~2・21)。こうしてパウロは、自己の回心と召命の事実を語り、エルサレムの使徒たちと対等の立場にある、キリストによって選ばれた使徒であることを宣言します。次いで、すべての人は律法の行いによるのではなく、救い主キリストを信じる信仰によって救われるという「信仰義認」を説きます(2・15~

21)。

 パウロはユダヤ人の父祖アブラハムを諸民族の「祝福の源」として神が選んだのは、神は初めから罪人を信仰によって義と認める計画を立てていたからだと説きます。神がユダヤ人にモーセを通して律法を授けたのは、アブラハムから430年後のことであり、それは人が律法を行おうとして罪の意識と自覚を与えるためであり、キリストの救いに導く養育係りの役目を果たすためである(3章6~25)、と説きます。

 罪に支配されている人間は、神の律法を完全に守ることができません。(律法はキリストが山上の説教で教えたように、罪ある人間にとっては実行不可能な戒律です。)罪人が聖なる神との交わりを回復する救いの道は、キリストの十字架の死によるあがないと、罪と死に勝利した復活による救いを信じることによって開かれます。キリストを信じて神との交わりを回復した者は、神の子とされ、御子キリストの聖霊を受けます。人を律法の呪いから贖い出して、信じる者に御霊を与えて、神との生ける交わりのうちに歩む新しい生活へと導く入れることが出来るのは、十字架と復活のキリスト、この福音のみです。人はキリストを信じる信仰によってのみ、神によって義と認められ、神の子として受け入れられ、聖なる神との交わるにあずかることが出来るのです。このようにパウロは福音について教え、説いたのです。

 パウロの反対者たちは、パウロの福音は律法の行いを無視し、無律法主義の危険を招くと批判しました。このような非難や疑問に答えたのがガラテヤの手紙5章以下です。

 「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(5・1)

 キリストのあがないの業によってもたらされた存在と生き方の百八十度の転換―「古い契約のもとにおける律法への隷属」から「神の新しい約束に基ずく自由」への転換、<この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。<だから、しっかり立ちなさい>とパウロは勧めます。ここにはガラテヤ書全体の中心テーマとその説明の要約が見られます。これは有名なパウロの「自由」についての言葉です。

「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。」(5・2)

 パウロは、これまで<自分の福音>と<ほかの福音>、また「律法」と「信仰」について「あれか、これか」の二者択一を論じたが、その同じ「あれか、これか」を今度は「割礼(次節以下から知られるように、結局は律法のことです)」と「キリスト」という形で掲げます。しかし、内容からすれば、すでに2・15以下の段落の結論として述べられた2・21-(もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます>と全く重なり合う主張です。

 「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。」(5・3)

 パウロにとって、問題となっている「あれか、これか」にはいかなる妥協の余地もなく、中間的立場も認められません。そのことをパウロは、<そういう人(割礼を受ける人すべて)は、律法全体を行う義務があるのです>と言い表します。とこで、この発言は<割礼を受ける人すべて>に対する再度の警告という形をとっているが、ここはユダヤ化主義者に惑わされて<割礼を受けようとしている>異邦人キリスト者に対して、脅かしとも響く警告がなされています。

 「律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。」(5・4)

 4節は、2節の主張の反復です。しかし、「割礼を受けようとすること」が「律法によって義とされること」と同じに見做されています。律法をよりどころにするならば、<キリストとは縁もゆかりもない者>とされます。「救い」は、人間の行為によらず、キリストを通じて神から与えられる恵みです。しかし、この神の救いの恵みは、<棚からぼた餅>式に人間が何もしなくても良いのではありません。いただいた神の恵みを失うことのないように、やがて本格的に展開される倫理的教え(勧告)も人間側に「行うことができ、また行うべきこと」を前提としているのです。

 「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。」(5・5)

 <わたしたち>は、「あなたがた」も含めて「キリスト者である人ならすべて」を意味するものと解されます。パウロは、ガラテヤの人々をもはやキリスト者でないなどとは決して考えていません。キリスト者となった人は、信仰と洗礼によって既に「義とされた者―神とのあるべき関係にある者」とされているが、そのことはこの世においてまだ決定的でも不変的でもなく(その証拠として、罪による神からの離反で失うことになる)、終末において初めて完全に実現し、確立します。それは単なる主観的な願いや夢想によるものではなく、<霊により、信仰に基ずく>客観性に支えられたものです。

「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(5・6)

 <割礼の有無が問題ではない>とは、割礼、したがってまた律法全体が救いのためには、もはや何の役にも立たなく、よりどころでありえないということであるからです。律法の遵守が無意味だとするなら、キリスト者の生活は無軌道、無規律であってよいのでしょうか。当然予想されるこの反問に対しパウロは、<愛に実践を伴う(愛によって働く)信仰こそ大切です>と答えます。「愛によって働く」は、「愛を通じて働く」、つまり「愛から生じるのではなく、愛の働きという形で現れる」の意味です。「信仰」こそ「愛」の原因・源であり、そして「愛」は「信仰」の証しなのです。

 「あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。」(5・7-8)

 パウロはキリスト者の生活をしばしば競争にたとえています。ここでは特にガラテヤの人々がパウロのもたらした福音に忠実に従って信仰生活を送っていたことを意味します。パウロがそのように好ましいものであった過去を彼らに思い起させるのは、好ましいものでない現状を指摘するためです。<それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わせないようにさせたのですか>。パウロはその責任を直接にはガラテヤの信者たちに帰せず、扇動者に帰しています。

 「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。」(5・9)

 パウロは「邪魔する者」の誤った教えや説得を<パン種>にたとえて、それがガラテヤの教会全体を次第にむしばむことになる危険を指摘します。

 「あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。」(5・10)

 パウロは、ガラテヤの信者の現状を憂うべきものとみなしはしても、彼らに対する信頼を失ってはいないと断言します。しかし、パウロの「信頼」は単なる主観的心情ではなく、<主をよりどころとして>の客観性に裏付けられた確信です。扇動者に対してあからさまに非難を投げかけています。この言う「裁き」とは、世の終わりにおける神の裁きー<最後の審判>のことです。

 「兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。」(5・11)

 パウロは「自分は彼らとは違って、割礼の必要を宣べ伝えたりはしていない」と主張します。そして、その証拠として<今もなお迫害を受けている>事実を持ち出します。<今なお割礼を宣べ伝えているとするならば>、迫害されるはずがないからです。<十字架>が<つまずき>なのは、ユダヤ人を意識しての発言です。ユダヤ人にとって、極悪人の死刑具である「十字架」は、忌むべきものであり、。その上で命を落とした者は「呪われた者」であり、結局、彼らはキリストにつまずいたのです。しかし、パウロにとって正にこの「十字架」の上で殺され、「呪われた者」となったキリストに対する信仰こそ、人間が救われるための唯一の道なのです。それゆえに、彼が宣教するものはもはや割礼ではなく、「十字架につけられたキリスト」以外の何ものでもありません。

 パウロの自由は、きびしい現実を逃れることによって保たれる自由ではなく、あえて迫害覚悟で真理を守り抜き、実現していく愛に生きる自由です。「自由」というと、社会的・政治的自由を考える人が多いと思いますが、パウロがここで述べているのは、いわゆる内面的・宗教的自由です。どこまでも主体的に愛に生きるの自由です。社会的、政治的自由の実現のためにも、愛に生きる自由が不可欠なのです。

 人は他人に気兼ねすることなく、自分のしたい通りのことができる自由を求めがちです。人は自己愛が中心にあり、自分と同じように自分以外の人を愛すことができません。それゆえ、この自由は日常生活のわずらわしさに倦み疲れて、孤立を求めることになります。

 しかし、パウロの説く自由、キリストの与える自由は、人を自己中心的な罪から解放し、神の愛と恵みを受け、自分の力や努力によってではなく、聖霊の働きを受け、隣人をも積極的に愛すことのできる自由を与えられるのです。

 この世の基準(律法)を手掛かりにして、他者との差をつけ、努力の末、自らの救いを達成しようとする生き方は、一種のエゴイズムであり、隣人は視野から消えます。この世の基準(律法)からの解放と自由とは、自己追及の欲望にふくれ上がった旧い自己からの解放される自由でもあります。キリストにある自由、キリストと共に生きる自由、聖霊の恵みを体感した者こそが、この支配と管理の、差別と偏見のみちている社会、真の愛、神の愛に渇いて意いる世にあって、あきらめることなく、愛に生きるキリスト者の自由に、希望をもって生き続けることが出来るのです。

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