富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「神の子とする霊」 ローマの信徒への手紙8章12~17節

2018-05-27 23:38:28 | キリスト教

          ↑ レンブラント 「放蕩息子の帰還」

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

           日本キリスト教 富 谷 教 会   週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」                                                                                                                                                                   聖句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

    聖霊降臨節第2主日 2018年5月27日(日)   午後5時~5時50分 

     礼 拝 順 序

                司会 水田 淳子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 155(山べにむかいて)

交読詩編   97(主こそ王)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳) ローマの信徒への手紙8章12~17節(p.284)

説  教     「神の子とする霊」   辺見宗邦牧師

祈 祷     

讃美歌(21)  12(とうときわが神よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

      本日の礼拝

 日本キリスト教団仙台川平教会の水田淳子姉が、当教会の支援のために、礼拝の司会をしてくださいます。このような教会間の交流と支援は、主にあって教会は一つということの具体的な表れと感謝する次第です。

            次週礼拝 6月3日(日) 午後5時~5時50分

            聖書 使徒言行録4章13~31節

            説教題「伝道する教会」

            讃美歌(21)289 405 24 交読詩編107篇

  本日の聖書 ローマの信徒への手紙8章12~17節

 8:12それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。13肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。14神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。15あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。16この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。17もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

    本日の説教

イエス様が世に来られた時代、イスラエルの祭司や律法学者たちは、律法の掟をすべて実行しているという自負心がありました。自分たちに都合の良いように、律法を解釈していました。そこで主イエスは山上の説教で、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」と、律法学者のようにではなく、権威ある者として律法について教えられたのです。

「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にはありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」と、ヨハネの手紙一1:8-9に記されています。自分たちの罪を神の前に認めなかったイスラエルの祭司たちは、罪から救うために世に来られた、神の子イエスを神を冒涜する者として死罪にしたのです。しかし、キリストは祭司たちによる苦難と死を予知し、そのこを弟子たちにも伝え、人類の罪の贖いのために十字架への道を歩み、復活によって昇天することにより、罪と死に支配下にある人類を救うう道を開かれたのです。

 パウロは、ローマの信徒への手紙で、人間はすべて、真の神を神として礼拝しようとしない、神に背く罪を宿していて、神の「律法」を守ることができない罪人であると説いています。律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです(ローマ3・20)。

 7章では、律法の掟を実行しようとすると、自分が望むことは実行できず、かえって憎んでいることをするようになってしまうと深刻な葛藤の体験を述べ、律法の実行によっては罪の自覚しか生じないことを明らかにします。自分の望まないことをしているなら、それをしているのは、もはや自分ではなく、自分の中に住んでいる罪であり、その罪のとりこになっているみじめな人間を誰が救ってくれのでしょうか、と苦悶の叫びをあげます。このような人間を、救ってくださるのがイエス・キリストだと神に感謝するのです。

 神は人間が宿している罪を取り除くために、御子キリストを罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を断罪されました。これがキリストの十字架の死です。わたしたちも洗礼によってキリストと共に葬られました。また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられ、新しい命に生きる者とされたのです。イエスを死者の中から復活させられた方の霊が、わたしたちの内に宿り、「神の霊によって歩む者」とされたのです。

 古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためです。死んだ者は、罪から解放されています。キリスト者は、罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのです。自分自身を死者の中から生き返った者として神に捧げて生きるのです。罪は、もはや、キリスト者を支配することはないのです。キリスト者は、霊に従って歩む者です。

「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。」(8章12節)

 ここでいう肉とは、人間の肉体という意味ではありません。肉とは、肉体と精神の両方から成る人間とその営みのことです。その全体が「肉の弱さ」の下に、つまり罪の支配下にあるのです。信仰者は新しいいのちに生きる義務を負っています。しかし、その義務は肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。

「肉に従って生きるならあなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を断つならば、あなたがたは生きます。」(8章13節)

 肉に従って生きるなら、それは死へと繋がっています。そこで信仰者は肉の働きと絶縁するのでなければないません。<霊によって体の仕業を断つ>というときの、<霊>とは、私たちの心の中にある何らかの霊ではなくて、神の霊、聖霊です。私たちの内側にある力によってではなくて、外から、神から与えられる力によって生かされ、導かれて歩むことによってこそ、私たちは新しく生きることができるのです。<霊によって体の仕業を断つ>とは、自分自身の力でやって行こうと努力することではありません。。霊の働きを求め、私たちを通してキリストに働いていただくことです。パウロの強い勧告は、道徳的な闘いを求めているのではありません。自力で肉の支配に立ち向かっても、罪の力には勝つことはできません。霊に導かれることによってのみ、神の御心に従うことができるのです。

 「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(8章14節)

< 神の霊によって導かれる>という表現は、自分の行動の主体が、神の霊であることを意味しています。この霊は、キリストを死者の中から復活させた神の霊です。この神の霊に導かれる者は皆、神の子なのです。わたしたち人間が<神の子>となることができるのは、神の子キリストによって罪を赦され、神の子キリストと結びついて、神の子等とされ、神の霊である聖霊を与えらえているのです。この神の霊に導かれる者は皆、神の子なのです。

 「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」(8章15節)

 主人の目を恐れる生活をしていた奴隷の身分より、キリストの霊を受けたわたしたちは、神の子である身分とされたのです。子供が父親に親しみかかわるように、神を父としてかかわることを許されたのです。あなたがたは、奴隷の霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって<アッバ、父よ>と呼ぶのです。<アッバ>は元来幼児語で、子供の父親に対する呼びかけのアラム語です。ここでは礼拝の中で会衆が挙げる神を呼ぶ声です。したがって、ここで個々の信仰者と神との父子関係は、教会と神との関係、民と神との関係としてとらえ直されています。

 「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」(8章16節)

 わたしたちのうちに神の霊が絶えず働かれて、わたしたちが神の子であることを証言してくださり、かつ保証してくださるのです。

 「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(8章17節)

 キリスト者は、<神の相続人>であり、また、<キリストの共同の相続人>でもあります。それは、イエスと栄光を共にし、苦難を共にすることにおいて父の世継ぎとして遺産を継ぐことが可能となるのです。相続する遺産とは、キリストが相続するところのものであり、キリストの受けるべき「神の栄光」であり、「永遠の支配」であり、「永遠の生命」です。わたしたちが受けるべき遺産を完全に所有するのは、終わりの時まで待たなければなりません。「聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである」(エフェソ1・14)と使徒パウロは述べています。

 律法のもとで、奴隷状態であった、古いイスラエルも、この世のもろもろの霊力のもとに縛られていた異邦の民も、御子キリストの十字架の贖いと復活により、すべてが神の子である身分を与えられる道が備えられたのです。わたしたちキリスト者や教会はその初穂なのです。キリストを信じている私たちは、「神の子」とされている自覚をもって、キリストとの交わりを深め、聖霊の力を受け、主の御名をほめたたえつつ、主の愛の証し人となりましょう。

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