富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「信仰による生涯」 ヘブライ人への手紙11章23~29節

2018-10-12 17:59:20 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

        日本福音教団 富 谷 教 会   週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

  聖霊降臨節第22主日 2018年10月14日(日)   午後5時~5時50分 

                             礼 拝 順 序

                                                司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 355(主をほめよ、わが心)

交読詩篇   23(主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ヘブライ人への手紙11章23~29節(p.416)

説  教     「信仰による生涯」   辺見宗邦牧師 

祈 祷                 

讃美歌(21) 461(みめぐみゆたけき)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                             次週礼拝 10月21日(日) 午後5時~5時50分

                                聖 書  ヨハネ黙示録7章2~4、9~12節

                                説教題    「天国に市民権を持つ者」

                                讃美歌(21) 358 579 24 交読詩編146

       本日の礼拝出席者紹介 日本キリスト教団京都教会の会員、酒井弘美兄です。表千家茶道の先生です。東日本大震災のあと、毎年のように被災地を訪れ、 呈茶の奉仕活動をなさっています。

    本日の聖書 ヘブライ人への手紙11章23~28節

 11:23信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。 24信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、 25はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、 26キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。 27信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。 28信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。29信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。

      本日の説教

 ヘブライ人への手紙11章は、旧約聖書の優れた人々をあげて、希望を確信して歩む信仰についてのべます。アベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセといった旧約聖書の人物たちが、すべて「信仰によって」ということばで紹介されて登場します。1節では「信仰とは」、まだ実現していない希望を確実なことと信じ、見えるものの奥にある見えない神の業に信頼することであると定義します。信仰は私の確信ですが、聖霊によて与えられるものであり、その奥に神の約束があり、また神の事物を造り動かす働きがあります。「信仰によって」とは、人間に頼る生き方から、神に頼る生き方へと、信仰によって選択し、新しい歩みを踏み出すことです。

 今日の聖書の箇所、11章23-31節は、出エジプト記に記されている、信仰の旅路を走り抜いた証人、モーセに焦点を当てて述べます。出エジプト記一章には、モーセが生まれた頃のことが記されています。

 ヤコブの一族が、その子ヨセフがエジプトの宰相であったことから、住んでいたカナン地方が飢饉のため食料が不足したとき、エジプトのナイル川河口付近の「豊かなデルタ」の東側の恵まれた土地ゴシェンを与えられて住むようになりました。それから三百年五十年近い年月が流れた時代のことが記されています。もはや、ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れました(出エジプト1:6-7)。これは、エジプト第19王朝ラメセス2世(紀元前1290-1224年在位)が、エジプトを支配していた時代のことです。

 「信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。」(11:23)

 まず、モーセの両親が生まれた子を守った信仰が語られます。ラメセス2世は、国内に増え広がる異邦の民イスラエルの人々が強くなったことを恐れ、彼らの力を弱める目的で、最初は苛酷な強制労働によって弾圧を試みます。それが失敗に終わると、すべてのイスラエル人に対して「生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込まなければならない」と命じました。しかし、両親は、モーセを隠しきれなくなるとパピルスの籠を防水加工し、その中にモーセを入れて、ナイル川の葦の茂みの中に置きました。母の必死の努力により、たまたまナイル川に水浴びに来ていたファラオ(王)の王女に川から拾われて、モーセは命をとりとめたのです。モーセという名は「引き出す」という意味があり、この出来事に由来します。モーセは王女の養子となるが、乳飲み子の間モーセの母は乳母となり、両親は、王の命令を恐れず、三ヶ月間モーセを隠し育てました。その信仰は、<その子の美しさを見>たことによると言われています。<美しさ>とは、外見的な美しさを指すのではなく、神が与えてくださった命の美しさであり、神の選びのしるしをも意味しています。両親はファラオ以上に神を恐れたのです。その信仰によってモーセの命を救ったです。

 「信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。」(11:24-26)

 モーセは、王女の子としてエジプトの宮廷で育てられるようになりました。しかし、成人したモーセは、自分の同胞であるイスラエル人が虐げられている現実を目の当たりし、エジプトの王女の子として権力や富を持つことよりも、<信仰によって>、奴隷の民であるイスラエルの中に<神の民>を見出だし、彼らと共に奴隷のくびきを負い、苦しみを共にする決断をしました。

 <キリストのゆえに受けるあざけり>とは、モーセの苦難が正にキリストの苦難の予め示された形としてとらえられているのです。<エジプトの財宝よりまさる富>という言い方によって、地上の富に対する天上の富、将来の富が考えられています。

 信仰とは、神に期待することです。人生には様々な選択をせまられる岐路がありますが、満足しているわけではなくても、現状維持に走ってしまうことになります。結局、自由な生き方をそこで失うことになるのです。信仰とは神への期待をもって決断する行動を生む力なのです。

「信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。」(11:27)

モーセは、イスラエル人を救うためにエジプト人を殺すことになってしまいました。ファラオは怒り、モーセを殺そうとします。それを知ったモーセは、<エジプトを立ち去り>、ミディアンの地に潜み住むのでした。<王の怒りを恐れず>とありますが、出エジプト記2章13-15節を読む限り、ファラオの手を逃れてミディアン地方にたどりついたモーセは、ファラオを恐れたのではないかと思われます。しかし、重要なことは、その後信仰によって立ったとき、モーセは恐れを取り去られ、敢然としてファラオとの対決と交渉に向かったのです。<目に見えない方を見ているようにして>は、見えざる神が共にいまし続けられたことにより、モーセは見えない神を見ているようにして忍耐したのです。

 「信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。」(11:28)

 モーセはミディアンの地で、身を寄せている間に、祭司エテロ(出2:18では、レウエル〔神の友と言う意味〕)の娘と結婚し、二人の子をもうけました。(使7:29、出18:3)。四十年たったとき、エテロの羊を連れてシナイ山(神の山ホレブ)に来た時、燃え尽きない柴を見て、見届けようと近づくと、神は芝の間から、モーセよ、モーセよ、声をかけられました。「わたしはあなたの父の神である。…わたしは、エジプトにいるわたしの民の不幸を確かに見届け、その嘆きを聞いたので、彼らを救うために降ってきた。さあ、今あなたをエジプトに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と命じます。思いがけない使命の前におののくモーセに対して、「わたしは必ずあなたと共にいる」(出3:12)と告げます。こうして神はモーセを民の指導者また解放者としてファラオのもとに遣わしました(出3:4-10)。

 モーセは再びエジプトに戻り、ファラオとイスラエル人を解放するように交渉します。そのときモーセは八十歳でした(出7:7)。ファラオは相手にしようとしません。モーセは神に言われた通り杖で神の力を示し、エジプトに九つの禍を下しました。それでもファラオが抵抗したので、神様はエジプト中の初子を打つという恐ろしい禍をエジプトに下したのです。しかし、イスラエルの家からは一人の犠牲者も出ませんでした。モーセが神に信頼してその指示に従って、鴨居と門柱に屠られた小羊の血を塗ったので、災いが過ぎ越したからです。

  それ以来、イスラエルの人々はエジプト脱出のきっかけになったこの出来事を、神への感謝を思い出すために「過越祭」として毎年祝うようになりました。小羊のほふってその血を鴨居に塗ることによって、イスラエルの人々がエジプトの奴隷状態から解放されたことの意味は、イエス・キリストの十字架の血によって、全ての人々が、罪と死の奴隷的な支配から解放されることによってはじめて明らかになるのです。

 「信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。」(11:29)

 出エジプト記14章には葦の海(同15:22)での奇跡的な神による救出が伝えられています。モーセの指導のもと、イスラエルの民がエジプト脱出のした時代は紀元前1280~1230年の頃です。<紅海>を渡るに際して、モーセの信仰は彼の率いる全イスラエルの信仰となりました。イスラエルの民が絶対絶命の危急に立たされたとき、神が救いの業をなされ、エジプトからの解放をなしとげられたのです。ここで起こった奇跡は彼らの<信仰による>ものであったと言われます。イスラエルはモーセを通して神の命令を受け、それに全く信頼したのです。

 イスラエルの人々が、エジプトに住んでいた期間は四百三十年でした(出エジプト記12:40)。奴隷となって仕えていたイスラエルの民が出エジプトを果たし、約束に地に帰還し、自分たちの国を築くことができたのは、信仰によるものでした。もちろん、それは神のなさる業でした。それを敢えてここでは<信仰によって>と語っているのです。

 モーセの信仰による生涯のいくつかの断面を通して、信仰者の歩みは、神の計画と導きのもとにあり、神が共にいてくださる歩みであることが示されました。

 わたしたちはキリストの福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊の証印を押されました。「この聖霊はわたしたちが御国を受け継ぐための保証です」(エペソ1:14)。「わたしは神に対して生きるために、キリストと共に十字架に死んだのです。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。朽ちるものに執着せず、この世の旅人として、御国(さらにまさった故郷)を目指し、「わたしのうちに生きておられる」キリストとともに、キリストの溢れるばかりの愛と力を受けて、「人を愛する信仰による生涯」を全うしようではありませんか。「わたしは、決してあなたから離れず、決して置き去りにはしない」(ヘブライ13:5)と主は言わています。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる(ヨシュア記1:5)「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り」(創世記28:15)、御国にあなたを迎える、と主は言われています。

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