↑ ラファエルの「キリストの変容」1520年。バチカン美術館所蔵。
作品の説明:上部は伝説のタボル山でのキリストの変容を中心に右がモーセ、左がエリヤ。その下に横たわって目を蔽うているのは、左からヤコブ、ペトロ、ヨハネ。左端の二人は、この絵を依頼したメディチ家が支援する司祭と肖像画家のユスゥトス。下部の左側はキリストの使徒たち九人、右側は悪霊につかれた息子と父母や家族・親族たちのグループの九人。画面手前の婦人は母の妹と思われます。彼女は両手で男の子を指し、アンデレと若いフィリポに話しかけ、甥の癒しを求めているようです。弟子たちは癒すことが出来ず当惑し、キリストによる癒しを待ち望んでいます。息子は変容のキリストを見上げ、キリストにより悪霊から解放された瞬間を表現しています。右手で息子を指さしているのはタダイ、彼の左は 熱心党のシモンです。奥の左端はユダ、その右がアルファイの子ヤコブ。左手前の本を持っているのがマタイです。キリストを指さすのはバルトロマイ?マタイの後はトマス?と思われます。(Transfiguration (Raphael) - Wikipedia の説明を参考にしています。)
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日本キリスト教 富 谷 教 会 週 報
年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」
聖句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)
受難節第4主日 2018年3月11日(日) 午後5時~5時50分
礼 拝 順 序
司会 田中 恵子姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 402(いともとうとき)
交読詩編 27(主はわたしの光、わたしの救い)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
聖 書(新共同訳) マルコによる福音書9章2~10節(新p.78)
説 教 「主の変容とその意義」 辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 510(主よ、終わりまで)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 24(たたえよ、主の民)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 3月18日(日) 午後5時~5時50分
聖書 マルコによる福音書10章32~45節
説教題 「十字架の勝利」
讃美歌(21)436 535 24 交読詩編22篇
本日の聖書 マルコによる福音書9章2~10節
9:2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 3服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。 4エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。 5ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 6ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。 7すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 8弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。 9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。 10彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。 11そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。 12イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。 13しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」
本日の説教
「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」(マルコ9・2)
<六日の後>とは、フィリポ・カイサリアでペトロが、「あなたはメシアです>と告白したあと、イエスが弟子たちに自分がメシアとして受けなければならない苦難と死、そして復活について語り、十字架を背負ってイエスに従うとき、永遠の命が与えられる話をされてから、六日たったときを指しています。
イエスはペトロ(シモン)とヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて高い山に登りました。この三人の弟子は、十二人の弟子の中でも中心的な位置にあり、ゲッセマネで主イエスが祈ったときも、この三人を伴われています(マルコ14:33)。<高い山>は、「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った」(マルコ9:30)とあるので、ガリラヤ方面へ下る途中の、フィリポ・カイサリア周辺の山と思われます。伝説ではガリラヤのタボル山と言われています。
タボル山 現在のタボル山の頂上、「変容教会」が建っている。
タボル山はガリラヤ湖南端の西方約20kmの地点にあるおわん型の山で、標高575mで、ヘルモン山、カルメル山と並んでパレスチナでは有名な山です。
イエスは、度々人里離れた所に退いて祈られたり、祈るために山に行かれたりしています。主イエスにとって、父なる神との祈りの交わりは、霊の交わりでもあり、その使命遂行のための力と確信とを与えられるために欠くことのできない大切のものでした。この時も、イエスは苦難の道を歩み出すに当たって、神との霊的交わりを求められたものと思われます。
タボル山頂にある「変容教会」のフレスコ画
「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」(9・3)
イエスが「祈っておられるうちに」とルカ福音書にあります(ルカ9・29)。三人の弟子の前で、イエスの姿が神々しく変わり、服は真っ白に光り輝きました。イエスの服は<この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白く>なりました。この白い着物という言葉で、神のような姿が描写されています。栄光に輝く主イエスのお姿がここに示されたのです。
「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。」(9・4)
見ると、モーセとエリヤが現れて、イエスと語り合っていました。ルカ福音書によると、モ―セとエリヤの「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について話したいた」(ルカ9・30)とあります。モーセは旧約聖書の律法を代表し、エリヤは預言者を代表する人物です。イスラエルの民は、モーセの十戒によって、神のご意志が何であるかを知り、預言者によって救いの道を示されました。この二人がイエスの変容の際に共にいたことは、イエスが律法と預言、すなわち旧約聖書に示された神の約束を成就するために、神から遣わされた救世主(メシア)であることを示しています。エリヤは終末時に再来すると期待されていた人物なので、終末がいよいよ近いことを示しています。エリヤは死なずに天に上って行ったとされている紀元前850年頃の偉大な預言者です(列王記下2・11)。モーセは、ユダヤ人のあいだでは、だれも彼の墓を知らないという申命記34・6の記述から、死なずに天に上ったという伝承がある紀元前1200年前にエジプトからイスラエルを神の約束の地に導いた指導者です。イエスの変容と、モーセやエリヤとの語り合いは、イエスが超地上的・天的存在、神の子であることを示しています。
「ペトロが口をはさんでイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』」(9・5)
この神秘的な光景を見たペトロは思わず、口をはさんで、先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。会見の幕屋のような仮小屋を三人のため三つ建てましょう」とイエスに言いました。ペトロの提案は、天的存在としてのイエス、エリヤ、モーセと一緒にこの輝かしい山上の天的祝福の中にとどまりたいとの願望からなされたものです。しかし、イエスをエリヤやモーセと同列に置いているところから、イエスが神の子であることが分かっていません。
「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。」(9・6)
神々しいお姿に畏れを感じたペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのです。弟子たちは、聖なる神の子イエスの真の姿を目の当たりに見て、恐れていました。
「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け。』」(9・7)
ペトロが話しているうちに、雲が彼らを覆いました。雲は神の臨在を表わす象徴です。すると、雲の中から、「これはわたしの愛する子。これに聞け」という天からの声が聞こえました。<これはわたしの子>は詩編2・7にあるように、イエスが神の独り子・メシアであることの宣言です。<これに聞け>は、神の子イエスの言葉に聞き従へ、と弟子たちは命じられたのです。
「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。」(9・8)
弟子たちは辺りを見回したのですが、モーセとエリヤの姿はありませんでした。今や律法も預言も必要ないのです。イエスだけが真の救い主なのです。そのイエスだけが彼らと一緒におられました。
「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。』」(9・9)
イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられました。イエスの変容の意義は、復活のイエスにお会いして、初めて分かることです。その変容の真の意味を理解せず、ただその事実だけを人に話すことは、イエスを迷信の対象と思い込ませることになるからです。
「彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。」(9・10)
この三人は、イエスの言葉を心に留めて、イエスが<死者の中から復活する>ことがどういうことであるかを理解できずに、互いに論じ合いました。
「そして、イエスに、『なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか』と尋ねた。」(9・11)
三人の弟子たちは、イエスに、なぜ、律法学者は、メシア到来の前に、先駆者としてエリヤが来るはずだと言っているのでしょうかと尋ねました。律法学者は、マラキ書3:23-24をもとに、メシア到来の前にエリアが万物を回復すると教えていました。 「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように。」(マラキ書3:23-24) ところが、万物はいまだ回復されていないのだから、エリヤはまだ来ていないことになります。とすれば、まだメシア到来の時ではないのだから、今ここにいるイエスはメシアではないことになります。律法学者の言う万物を回復するエリヤとは誰になるのか、という疑問でした。
「イエスは言われた。『確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。』」(9・12)
イエスはエリヤの再来に同意します。<すべてを元どおりにする>は神の意に適う状態に戻すことです。イエスはヘロデ・アンティパスによって不法に処刑された洗礼者ヨハネが再来のエリヤと同一視しているのです。それなら、「人の子は苦しみを重ね、辱めを受ける」と聖書に書いてあるのはなぜか、と問いました。エリヤの再来と同じく、受難予告で告げられた人の子の苦難も聖書に書いてあるとおり(イザヤ書53・5、詩篇119・22)、神に意志によるものである、とイエスは言われるのです。
「しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」(9・13)
イエスは、エリヤはすでに再来した、と言われます。人々は彼を認めず、彼を殺してしまった。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。とお答えになりました。そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと気づき悟りました。
今日の聖書の箇所は、イエス様の姿が変わり、栄光に輝くお姿になられた記事です。この記事が私たちに教えていることは何でしょうか。イエスは神であるにもかかわらず、人間の罪を救うために、私たちと同じ人間の姿を取り、苦難の道を歩み、十字架にかかって死んだくださった、ということです。地上に来られたイエスは、どこまでも、私たちに対する愛のゆえに、イエスのへりくだった姿でした。地上の生涯においては隠されていたけれども、本当は栄光に輝く神の独り子であられるということです。しかし、弟子たちはその意味を、この時は理解できなかったと思われます。イエスの生涯が死をもって終わるのではなく、復活する神の子であることが明らかになるのは、イエスの復活後、復活されたイエスに会い、聖霊を与えられて初めて分かることでした。
十字架の死に至るまで、苦難のメシアとして父なる神に従順であったキリストを、神は高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました(フィリピ2・8-9)。イエス・キリストは死より復活して、天に上り、神の右に座し、父なる神と共に世を支配したもう神なのです。この主イエスの十字架と復活と昇天によって成し遂げられた救いを信じる信仰によってのみ、私たちの罪が赦され、聖霊を与えられ、罪と死の支配から解放され、神の子とされ、キリストと共に生き、永遠の命に生きる救いが与えられるのです。
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