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富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「主にある共同体」使徒言行録4章32~37節

2025-07-07 18:19:54 | キリスト教

  ルナバの献金

  〒981-3302 宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番12                 

  • TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 
  • E-mail:munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

日本福音教団 宗教法人富谷教会週報

  • 聖霊降臨節第6主日    2025年7月13日(日)
  •               午後3時~3時50分
  • 礼 拝 順 序
  • 司 会                 
  • 前 奏             奏楽 辺見トモ子姉
  • 讃美歌(21) 355(主をほめよ、わが心)
  • 交読詩編  133:1-3b(見よ、兄弟が共に座っている。)
  • 主の祈り   93-5、A
  • 使徒信条   93-4、A
  • 司会者の祈り
  • 聖 書    使徒言行録4章32~37節(p.220)
  • 説 教     「主にある共同体」   辺見宗邦牧師
  • 祈 祷         
  • 讃美歌   390(主は教会の基となり)
  • 献 金
  • 感謝祈祷              
  • 頌 栄(讃美歌21)24(たたえよ、主の民)
  • 祝 祷             
  • 後 奏  
  •  
  • 次週礼拝 7月20日(日)午後3時~3時50分                                         聖書 1テモテ2章1~8 
  •       説教「祈り」
  •       讃美歌(21)495 492 24 
  •       交読詩編143:1~6

   本日の聖書 

   4章32信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。 33使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。 34信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、 35使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。 36たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ(「慰めの子」という意味)と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、 37持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。

   本日の説教

 「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していたして持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」(4:32)

 「信じた人々の群れ」とは、教会を意味します。教会はこの時すでに五千人の群れへ成長していました(4:4)。復活の主に対する信仰のもとで、心も思いも一つでした。聖霊による一致が与えられたのです。主の復活の福音は全く物惜しみをしない、大胆な生活を可能にしたのです。「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく」とは、自分が所有しているものは、全くキリストの恵みとして与えられているものであり、キリストの目的のために用いられるべきであるという心から、「すべてを共有」していたのです。

 「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。」(4:33)

 使徒たちは復活の主を奇跡的な力で、証しすることに忠実でした。大いなる恵みが彼ら一同の上にありました。

 「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。」(4:34)

 ここには、彼らが、貧困や欠乏から完全に守られていたというのではなく、その都度必要に応じて分配がなされていたことが語られています。すべての者がしばらくの間持ち物をわかち合ったのです。

 「土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。」(34b-35)

 「それを売っては代金を持ちより」の表現は、「その都度」と言う意味がこめられており、人々が、皆が皆、一度に、持っている物を皆売り払ったというのではないことを示しています。土地や家を持っている人たちは、自発的にそれを売り、その代金は使徒たちに預けられました。捧げ物とその分配は使徒たちの権威の下で行われました。

 たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ(「慰めの子」という意味)と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。」(4:36)

 どのような機会に使徒たちにバルナバ(慰めの子)というあだ名で呼ばれるようになったかは不明ですが、このことはバルナバの回心は使徒たちに負っていることを示しています。

 バルナバは、「立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちて」いた人で、アンティオキアへ派遣されたとき、「多くの人が主へと導かれ」ました(11:23、24)。本名はヨセフで、キプロス島生まれの、レビ族のユダヤ人です。レビ族は初めは祭司を職業としていたが、後にはアロン属の祭司の下で、神殿における供え物や儀式の準備のような下級の仕事に従事するに至りました。バルナバは、持っている畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちに差出しました。バルナバの財産提供は、特に賞賛のまととなったので、特記されたのでしょう。皆が皆、バルナバの様な提供をしたわけではないこと、またその提供は全くの自由において行われたことが示唆されています。

 次の5章1節から11節では、捧げ物をすることの自由です。アナニヤとサフィラの夫婦は、この自由を行使せず、土地を売った代金の一部を持ってきながら、全部であるかのようにごまかし、虚偽の報告をしました。その罪が厳しく問われたのです。ペトロはアナニヤに、「売らないでおけば、あなたのものだったし、また売っても、その代金は自分の思いどうりになったのではないか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と告げます。この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えました。奇跡的な神罰が起こったのです。

 バルナバの献金は、富める者が彼らの畑や持ち物の収入によって、貧しい兄弟たちの窮乏に応じたばかりでなく、彼らの所有地を取って置くことをしなかったほどに出し惜しみはしなかったことの例としてあげられています。

 ここでは、バルナバは愛の実践者として献金をした姿が描かれています。しかし、パウロの第一回目の宣教旅行は、バルナバとパウロの二人で行われたのです(13:4)。教会の共同生活は、財産の共有だけが理想的な姿なのだと考えることは、必ずしも正しくありません。このような姿は、彼らの霊的一致の意識が、異常に生き生きとしていた時のみ、維持されていましたが、やがて共有生活を維持することは、重大な困難にぶつかるようになりました。アナニヤとサフィラのような事件が起きるのです。「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた(5:11)。」

 この事件は神をあなどる者に対する警告でした。アナニアとサフィラについての厳粛な記述の最後に、記者は初めて教会という言葉を用いています。教会は貪欲や金がかかわる利己的行為と対決しなければならないのです。信徒は所有への執着心の放棄が求められているのです。

 共同生活、共有生活そのものが、わたしたちに模範として教えられているわけではなく、キリストの共同体にあっては、だれ一人として自分に与えられているものは、それが財産であれ才能であれ何であれ、それは自分自身のものではなく、神から委ねられているにすぎないことを自覚することにあります。わたしたちは神からゆだねられている良い管理人として、それらを使わなければならない責任があります。神のみこころは、愛の交わりである教会が形成され、教会は神のみこころを世に表し、宣教の業を行っていくことにあります。主にある共同生活は、当然、すべての人が自発的に自分のものを神にささげる献身の生活となっていきます。そして、献身の具体的な表れが献金です。信徒たちが捧げものを使徒たちのところへ持ってきたのは、神のもとへ持って来たことを表しています。教会がこのような愛の交わりを形成できるのも、また、教会が外に向かって力強い宣教ができるのも、主の復活の出来事が生み出す信仰によるのです。

 この生活が長く続かなかった理由は、死のからだを持つキリスト者が、神の国とこの世との二つの世界にかかわりをもって生きているからです。

 パウロは「善をなそうという意志はありますが、それを実行できない」のは、「わたしの中に住んでいる罪なのです」と告白しています(ロ-マ書7:18)。「わたしはなんと惨めな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるのだろうか」(ローマ7:24)と語りました。しかしパウロは、このあとすぐ「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」(ローマ7:25)と言っています。

 ローマ書6章4節には、「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。・・・キリストが、死者の中から復活させられように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:5)とあります。死のからだをもつわたしたちは、もはや死ぬことのない新しい命を生きる者、復活の命に生きる者とされたのです。このことに感謝し、歩んでまいりましょう。

 

 

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