富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「『子供のようにならなければ』とは」マルコによる福音書10章13-16節 

2022-08-20 18:19:25 | キリスト教

  「子供たちがわたしのところへ来るのを許しなさい。」1854年作

   メキシコ人画家:Juan Urruchi (1828~1892)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第12主日 2022年8月21日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 404(あまつましみず)

交読詩編  127(主御自身が建ててくださるのでなければ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)  マルコによる福音書10章13-16節(新p.417)

説  教  「『子供のようにならなければ』とは」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                       

聖餐式    72(まごころもて)

讃美歌(21) 371(このこどもたちが)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019

の牧師の電話に、申し込みください。

           次週礼拝 8月28日(日)  午後5時~5時50分

           聖 書  エフェソの信徒への手紙4章17~32節

           説教題  「新しい人間」

           讃美歌 204 523 27 交読詩編 8 

本日の聖書 マルコによる福音書10章13-16節

10:13イエスに触れていただくために、人々が子供たち連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 14しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 15はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 16そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

本日の説教

 「イエスに触れていただくために、人々が子供たち連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。」(10:13)

 人々が自分たちの子供をイエスに祝福していただこうとして連れてきました。<子供>とは、幼児から12歳までの年齢に用いられています。古代世界では子供は一般に軽んじられていました。<触れていただくために>とは、「触れる」ことによって、治癒の力が伝わるように、祝福の力も伝わるものと信じられていました(創世記48:14)。当時有名な律法学者の所に子供を連れて来て、触れて祝福してもらう習慣がありました。この場合はすでに有名になっているイエスの所に連れて来たのです。イエスに触っていただければ、子供たちが無事に健やかに成長するだろうと期待したからです。

弟子たちはこの親たちを叱りました。弟子たちが咎めたのは、たかが子供のことで、自分たちの先生を煩わせないようにいう、間違った思い遣りによるものでした。弟子たちの気持ちも分かりますが、彼らには主イエスの心が分かっていなかったのです。

「しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。』」(10:14)

 その弟子たちを見て、イエスは激しい憤りを表しました。子供たちに対するイエスの愛と、子供たちを軽んじる者たちに対するイエスの激しい態度が示されています。<子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない>とイエスは命じました。<神の国はこのような者たちのものである>と言って、<妨げてならない>理由を告げました。

 神の国とは、神の御支配を意味します。人々をそれにあずからせるためにイエスはこの世に来られたのです。神の恵みの御支配にあずかることが出来るのは、子供のような者たちなのだ、だから子供たちをわたしところにこさせなさい」と言われたのです。もちろん神の国は子供たちに限定されません。それは<このような者たちのものである>と言っています。

神の国についてイエスは、ある場合には未来において実現すると語られ(ルカ11:2)、またある場合には現在すでにイエスとともに来ていると語られました(ルカ11:20)。その何れであるにせよ子供たちのような者たちは神の愛の対象であり、イエスの福音はその様な者たちに向けられています。

この当時のユダヤは、子供を物の数として扱われることがなく、軽んじられていました。それに比べてこのイエスの発言は、この時代の考え方をはるかに超越しています。日本でも憲法で男女の平等が保証されるまでは、男尊女卑の風潮があり、婦女子は、尊ばれませんでした。

「『はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』」(10:15)

<はっきり言っておく>という厳かな導入のことばによって、弟子たちへの勧めがなされます。「子供のように」とは、子供のように純真な、汚れを知らないということではありません。日本の学校の子供たちの間で起っている陰湿ないじめの問題を例にとっても、子供には罪や汚れが無いと言えないことが分かります。子供は子供なりにやはり罪を持っているのです。<神の国はこのような者たちのものである>と言って、決して子供を理想化して言っているのではありません。神の国は純粋に恵みの賜物であるゆえに、人はただそれを受けることしかできません。子供のようにとは、ただ神の恵みをいただくしかない者です。イエスの祝福を受動的に受ける、その無力さと信頼を意味します。

このイエスの勧めは弟子たちに対する批判をも意味しています。彼らは神の国へ招かれた者として、地位争いをやめ、イエスの弟子としての優越感をもつことなく、神と人とに対して子供のように小さな者、低い者とならなければなりません。

また、当時の律法学者やファリサイ派の人々に対する批判がここにあります。彼らは律法を実行しているという誇りをもち、自分たちの功績によって、神の国に入る権利を主張し、彼らのように律法を守ることの出来ない人達を蔑視していました。

 「そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」(10:16)

子供たちを抱き上げ>は、小さい者へのイエスの愛を言い表しています。イエスは子供たちを喜んで迎え、抱いて、頭に手をのせ、祝福されました。<神の国はこのような者たちのものであると宣言して子供たちを抱き上げたイエスの姿は、神の国がすでにイエスにおいて現在の事実となっていることを示しています。子供たちは今や神の国の子供たちとされます。

一匹の迷った羊を一生懸命に捜し求めて歩く羊飼いのように、イエスは迷っている者、何の功績もない者、罪を犯した者、神から離れ去った者を神の国に迎え入れます(ルカ15:1-7)。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)と宣言します。神は救いを人間の業績に応じて与えるのではなく、神の愛と憐れみから、恵みとして与えるのです。それゆえに、子供たちのように助けを必要としている小さな者たちにこそ神の国が約束されているのです。

 「子供のように」なるとは、結局新しく生れ直すことです。イエスは、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることができない」(ヨハネ3:5)と言われました。わたしたちは、キリストに結ばれているなら、神の子とする霊を受け、この霊によって、神を「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来るのです(ローマ8:-15)。神を「アッバ、父よ」と呼ぶことこそ、子供のような者になることであり、神の国に迎えられる者となるのです。

 キリスト者は自分自身がキリストに全く依存しなければならない小さい者であることを自覚し、全き信頼をもって神を「アッバ、父よ」と呼び、小さな者を迎え入れる神の恵みを喜び、感謝しましょう。共に神の国の祝福にあずかる者として、小さい者たちを受け入れ、愛しましょう。弟子たちと同じように、キリスト者も陥りやすい差別や排他主義から自由にされなければなりません。

 

コメント
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