↑ 「新しい命(現実)に生きる」コロサイ3:1~11
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
復活節第3主日 2021年4月18日(日) 午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
礼 拝 順 序
司会 齋藤 美保姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 197(ああ主のひとみ)
交読詩編 116(わたしは主を愛する)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)コロサイの信徒への手紙3章1~11節(新p.371)
説 教 「新しい命に生きる」 辺見宗邦牧師
祈 祷
聖餐式 72(まごころもて)
讃美歌(21) 436(十字架の血に)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 4月25日(日)午後5時~5時50分
聖 書 コリントの信徒への手紙一、11章23~26節
説教題 「聖餐の意義」
讃美歌(21) 77 81 449 27 交読詩編 84
本日の聖書 コロサイの信徒への手紙3章1~11節
1さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 2上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。 3あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 4あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。 5だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。 6これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。 7あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。 8今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。 9互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、 10造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。 11そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。
本日の説教
コロサイの町は、現在のトルコ共和国の壮大な石灰棚で世界遺産となっているパムッカレの近くにあった町です。コロサイは、トルコのエーゲ海に面した港湾都市イズミールの南およそ75キロに位置するエフェソ=エペソ(現在名はエフェスー遺跡として有名)より東200キロほど内陸部にあり、東西の交通の主要道路に面していたことと、毛織物の産地であったことで繁栄した町です。パウロの時代は、小さな町になっていました。そこより30キロほど下流には、石灰棚で有名な世界遺産のパムッカレ(綿の城の意)があります。
キリスト教の福音がコロサイを含むアジア州に広まったのはパウロの第三伝道旅行(紀元53~56年)の途中、パウロがエフェソに約2年滞在中のことです。(使徒言行録19:1、10参照)コロサイ出身の異邦人エパフラスがパウロの伝える福音をエフェソで聴いて信仰に入り、コロサイに福音を伝えました(コロサイ4:12以下)。コロサイの信徒たちはユダヤ人ではなく異邦人が多数を占めていました。
コロサイ書は、フィリピ、フィレモン、エフェソ書とともに、パウロの獄中書簡と呼ばれています(コロサイ4:3、10、18)。コロサイ書が書かれた場所は、パウロがエフェソで約二年いた間(53~54年の前後)に投獄された期間とする説が有力です(コリント一、16:8)。エパフラスは、コロサイのキリスト者たちのキリスト・イエスに対する信仰と、すべての信徒たちに対して抱いている愛を、エフェソで捕らわれの身となっているパウロを訪ねて知らせたのです。パウロはそれを聞いて神に感謝しています(1:3~8)。しかし同時に、この教会は異邦人が多かったので(1・27、2・13)、欲望を欲しいままにする異教の習慣に逆戻りする危険性がありました(3:5~11)。そこで、パウロは道徳的にすぐれたキリスト者の生活を具体的に教える必要がありました(3:12~4:1)。更に、コロサイの教会に、キリストの信仰を危うくするような異端的教えが入ってきたので、パウロは黙しきれず筆をとったのがコロサイ書です。
この異端的な教えにより、「手をつけるな。味わうな。触れるな」といった戒律に縛られている信徒たちがいました(2:21、23)。これらは、人の規則や教えによるもので、独りよがりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えるが、何の価値もなく、人間の言い伝えにすぎない教えであり、自己満足させるだけなのだと、パウロは手紙で警告します(2:18、23)。
パウロはこうした霊力を信じる信仰の間違いであることを示すために、キリストは御使いも含めたあらゆる被造物の上に立つ方であって、創造に関与し、被造物を支えておられ(1:15~17)、キリストこそ宇宙の安定と調和の基礎であることを説き、彼こそ天への唯一の、神から遣わされた仲介者であることを信じて、高らかに歌い励ましています(1:15以下
の賛歌)。また御子・キリストは、その体である教会の頭であり(1:18)、初めの者、死者の中から最初に生まれた方であり、神は十字架の血によって、万物をただ御子によって和解させ
られたのであり、神はあなたがたと御子の死によってて和解し、聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました(1:22)、とパウロは説いたのです。そして、このキリストを信じて救われている信徒が、今更他の諸霊力を崇拝し、また戒律の規定に従うべき理由がないことを教えています(1:13~3:4)。
さらにパウロは、今日の聖書の箇所3章1節から~4章6節で、キリスト者の実際生活を論じます。
「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」(3:1-2)
「上にあるものを求めなさい」の「上にあるもの」とは、そこは神の領域であり、天であり、キリストのいるところです。「地上のものではなく、上のものを求める」(3:1,2,5)ようにと命じて励ますことの根拠は、コロサイの信徒たちが古い支配に死んだこと(2:20)であり、今はキリストと共に復活して、新しい命にあずかっている事実です。彼らの命の源は、彼ら自身の命ではなく、キリストの命を生きていることなのです。
「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(3:3-4)
わたしたちが、キリストと共にすでに復活したことは、わたしたちは死んだのであり(過去)、わたしたちの新しい命は、今はキリストの命と共に神のうちに隠されているのです(現在)。その完成は将来のキリストの現れを待つ必要があります(将来)。ここにキリストにある過去・現在・将来がはっきり描かれています。三回も「キリストと共にある」と記されています。だからこそ、使徒は信徒たちを励まして、「上のものを求めなさい」と命じています。キリストと共に信徒たちがすでに復活したと考えられるのは、頭であるキリストの体である信徒たちは、すでにキリストのものであり、彼と切り離すことができない一体なものであり、キリストの働きにより、支えられ、結び合わされ、神によって育てられているからです(2:19-20)。ここにわたしたちの自力によらない倫理的な歩みがあります。。
「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪
欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。 」(3:5-6)
まず、地上的な五つの罪があげられます。<①みだらな行い、②不潔な行い、③情欲、④悪い欲望、⑤貪欲>です。これらは欲望に属する罪として記されています。このような倫理的教えはすべて、わたしたちが神によって育てられていく姿にほかなりません。<みだらな行い>は、性的な不品行であり、<不潔な行い>は、汚れた放らつな生活であり、<情欲>は悪しき情熱、良くない<悪い欲望>であり、<貪欲>は、より多くを所有したいというむさぼりの欲望です。特に異邦人の信仰者は、ここにあげられている罪のリストに注意を払わなければなりません。異邦人は、性的不道徳に対して寛容な文化の中に育っており、地上のものに心を寄せるという意味で偶像礼拝者です。「貪欲」に対しても無頓着です。そこで異邦人は、そうしたことに厳しい態度をとっているユダヤ人以上に、警戒が必要なのです。
<捨て去りなさい>は、原語では「殺しなさい」という、とても厳しい命令であり、信徒たちはキリストと共に死に、彼の新しい命を生きる以上は、「地上的なもの」、即ち、罪の現れとしての性的な放縦、貪欲、ときっぱりと別れて、歩むように勧められます。これが「地上の肢体」への抵抗の根拠と力になるのです。わたしたちの「命」が「キリストと共に栄光のうちに現れる」ことが確実であるからこそ<地上的なもの>への闘いに立ち上がることができるのです。ところでこうした罪の根源は、「偶像礼拝」(5節)であり、それゆえ「神の怒り」の対象になります(6節)。従ってこれらの罪の克服は真の礼拝に立ち返る他ありません。罪に対して直接立ち向かうだけでは新しい道徳主義、自力主義になるだけで、それでは「ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではありません」(口語訳聖書2:23)。パウロの強い勧告は、道徳的な闘いを求めているのではありません。「上にあるものを求めよ」ということを前提にしているのです。
「上なるものを思い」、自らの「貪欲」による「偶像礼拝」を捨て、「霊の導きに従って歩く」ならば、「そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」(ガラテヤ5:16)。ローマ書にも、「霊ではなく、肉に従って歩む者は、肉に属することを考えます。…肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。…肉に従って生きるならあなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を断つならば、あなたがたは生きます」(ローマ書8章5~13)とあります。
「あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。」(3:7-8)
パウロははっきりと言います。「あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました」と。この「以前」の生活は、「今は」キリストと共にあることによって「過去」とされたのであり、「過去」のこととしなければならないのです。
先の5節の罪は自己に関する罪とすれば、8節の罪は他者に関わる罪です。①<怒り、②憤り、③悪意、④そしり、⑤恥ずべき言葉>、の五つの言葉や感情に関する罪をあげています。ここでも「捨てなさい」と命じています。
「互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」(3:9-10)
そして最も端的なまとめとして、「うそをついてはなりません」と警告しています。見えを飾ることも、過度の謙遜も、陰口も、この世に毒された「うそ」です。新しい人とされたわたしたちは、古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、<造り主の姿に倣う新しい人を身に着け>て歩むように勧めています。古いアダムの秩序ではなく、新しい人、神の姿に倣うキリストにある望ましいあり方に、日々新たにされて、この人格的に新たにされることこそが、「真の知識」に至るのです。それを完成させてくださるのは、「あなたがたの中で善い業を始められた方(神)」であり、「キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださるのです」(フィリピ1章6節)。
「そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。」(3:11)
<新しい人>には、人間的な差別はありません。民族的差別(ギリシア人とユダヤ人)、宗教的、習慣的差別(割礼を受けた者と受けていない者)、身分的、階級的差別(奴隷と自由人)、及び文化的差別(未開人、スキタイ人)の一切が越えられ、差別が取は払われるのです。性別の差別(男も女)もありません(ガラテヤ書3:28)。キリストがすべてであり、それは、「神の右に座しておられる」イエス・キリストの主権がこの世界の間化の機構のすべてを打ちこわし、自らこの世界の「すべて」となり、「すべてのもののうちにいます」という支配を確立するからです。わたしたちは皆、キリスト・イエスにおいて一つなのです。
わたしたちは、イエス・キリストの死にあずかることによって、全く完全な者になったのでしょうか。わたしたちは現在「神の子です」。しかし、そのことはもう完成したというわけではなく、まだ完成していない面があります。「私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。」(ヨハネ一、3・2)このように、今与えられている約束は、やがてその成就があります。「このような望みをいだいている者は皆、彼がきよくあるように、自らをきよくします。」パウロは、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです(フィリピ3:12)」、と言っています。目標をめざしてひたすら走るべきなのです。それぞれ、到達したところに基づいて進むべきです。わたしたちは、人間の力によるのではなく、救い主の力といのちにあずかる時、日々新たにされていくのです。