↑ 「富は天に積みなさい。」マタイによる福音書6章20節。
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
降誕節第4主日 2021年1月17日(日) 午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
礼 拝 順 序
司会 齋藤 美保姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 355(主をほめよ、わが心)
交読詩編 71(主よ、身もとに身を寄せます)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)マタイによる福音書6章19~21節(新p.12)
説 教 「『富は天に積みなさい』とは。」 辺見宗邦牧師
祈 祷
聖餐式 72(まごころもて)
讃美歌(21) 518(主にありてぞ)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 1月24日(日)午後5時~5時50分
聖 書 テモテへの手紙一、6章11~19節
説教題 「信仰の戦い」
讃美歌(21) 288 536 27 交読詩篇 2
本日の聖書 マタイによる福音書6章19~21節
6:19「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。 20富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 21あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。22体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、 23濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」 24「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
本日の説教
主イエスは、弟子たちや群衆に「あなたがたは(あなたのために)地上に富を積んではならない」と命じています。ここで言われている富は、原語では「セサウロス」というギリシャ語が用いられています。富、財産、宝、蓄え、を意味する語ですが、永遠に価値あるものではありません。
なぜ地上に富を積んではならないのか。理由は二つあります。一つは、地上にせっかく富を積んでも、「虫が食ったり、さび付いたりする」からです。「虫」は、衣服などをむしばむ虫を指しています。「さび」は金属などの腐食作用によるさびを指しています。もう一つの理由は、「盗人が忍び込んで」、せっかくためた富を盗んでしまう可能性があるからです。いずれも地上の富の移ろいやすさ、はかなさが指摘されています。
主イエスは、「富は、天に積みなさい」と言われます。天に積む富について、マタイは具体的に記していませんが、ルカ福音書には、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れるこのない財布を作り、尽きるこのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」(ルカ12:33-34)とあります。施しをするにせよ、自分のためだけののために富を蓄えるのでなく、信仰にもとずく富の活用の必要性がここで示されています。
「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」と、富と心との相関関係の中に、地上における人間のあり方が示されます。人は、富を積んでいるところに心を寄せ、富を積もうとします。この二つは切り離すことができません。
主イエスは地上に富を積むことのむなしさを指摘し、天に富を積むことを求めました。「富」そのものが否定されてい」のではありません。富は神から与えられるものとして意味があります。キリスト者は富を嫌悪したり、否定すべきではありません。キリスト者は富を絶対視することなく、富を管理する者として、富を自由に活用しながら神に仕えていくのです。
主イエスのこの教えは、キリスト者が将来のために必要な資産を準備することを禁じたものではありません。むしろ、キリスト者は、この地上においた与えられているものを賢明に管理すべきなのです。それは信仰に矛盾するどころか、真の信仰者に要請されていることでもあります。金銭を蓄えることが問題なのではなく、金銭に対する執着心が問題なのです。地上の生活だけを視野に入れて金銭を蓄えようとしているのであれば、主イエスが言われた警告を真剣に聴かなければなりません。
次に主イエスは、人の目について言及します。目に、人間の性格や倫理的な思いが反映します。ここでは所有物との関係のことが依然として問題の中心なのです。「体のともし火は目である。」「体」とは、人間の身体を示すというより、人間の存在全体、人格をも表しています。目は人間の光の源です。「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。」「目が澄む」とは、文字通りには「単一の」とか「単純な」という意味ですが、真っ直ぐに直視する目のことで、施しをする気前の良さを意味するが、それ以上に、神に対する誠実さと正直さを意味します。ここで問題になっているのは、人間を光に満ちたものとするか、あるいは暗いものとする、人間の行為なのです。真っ直ぐな目で神に対するなら、その人の全身が明るくなり、天のいのちにあずかり、滅びない命を身に帯びるのです。
反対に、「目が濁っていれば、全身が暗い」。「濁っている目」とは、「悪い目」であり、物惜しみし、所有物に執着する貪欲な目です。神を仰ごうとしない目の人は、自らの内にただ暗黒を見るのみで、神の光はなく、闇のとりこになっています。それに対して、神を仰ぐ信仰者は、罪と死の世界の中にありながら、啓示の光に照らされ、あやまりなく神を仰ぎつつ生きていくのです。
「だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」「あなたの中にある光」とは、22節aの「体のともし火」であり、人間の心のことです。人間はその心、その行為が神に従順でなければ、その暗さは完全な闇なのです。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富に仕えることはできない。」
ここで用いられている「富(マモ―ナ)」という語は、「マンモン」という元来はアラム語で、へブル語としても使われた語です。富、財貨を意味しますが、それは単なる富、財貨を指すのでなく、頼りにする富、信頼を寄せる財貨、さらには信頼を寄せる蓄え、所有物です。それは人がそれを使用するとき、悪魔の力のように人を支配する「富の神」を表す語でもあります。
「だれも、二人の主人に仕えることはできません。」信頼するものを求める人間にとって、人間はあれか、これかの選択にせまられます。「一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらか」です。「憎む」は、「全き愛を注いでいない状態」を指します。奴隷は、「一方に親しんで他方を軽んじ」ます。これは一人の主人を重んじるなら、必然的にもう一人の主人を軽んじざるを得なくなる、ということです。二人の主人を同程度重んじることは、実際問題として不可能です。同じように、神と富との両方に仕えることは出来ない、と主イエスは宣言します。
主イエスが自分に従う者たちに要求したこの「あれか・これか」は、原則として財産を断念すべきであるということを意味するものではありません。金銭や財産から完全に離れることが求められているのではなく、決断の呼びかけは、金銭や富に仕えないことが求められているのです。この世の財産の奴隷とならないことです。この「あれか・これか」は、むしろ、「金銭」から自由になることを目指しています。この自由は神に仕えるとき実現します。「世と交渉のある者は、
それに深入りしないようにする」(Ⅰコリント7:31)ことによって、日常生活の中で神に仕えることとして現実化されるのです。生ける神をもたない者は、神をつくり、その前にひれ伏します。これはモーセの時代、モーセの兄アロンに金の子牛を造らせ、拝んだように、常に人間の世界でくりかえされてきました。金の子牛のまばゆい光は人間を迷わします。神々や諸仏を拝むだけが偶像崇拝でなく、「地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない(コロサイ3:5)」とあるように、「悪い欲望」に生きていること自体が偶像礼拝なのです。
今日、地上にひたすら富を積もうとする人がなんと多いことでしょう。神の恵みを信頼し、服従することを知らない人間は、自分の生活を支え、自分の将来を保証するのは金銭だと考え、富に執着する人が多いのが現状です。ここに問題があります。地上の富に目を奪われ、かえって自らの心の内なる光をなくして、暗黒の中に無意味な生活を送っている人がなんと多いことでしょう。
このような生き方は、結局、人間のもつ最大の問題である「自我」、「自己を世界の中心にする」、「自己を愛する利己主義」の問題を解決することはできません。自己の欲望がまるで神のようにあがめられる生活、そのような生き方が変えられて、本来あるべき自分、神が求めておられるような自分になること、それが「天に富を積む」ということです。
もし人が、「天に宝を積む」生き方をしないまま、死を迎え、死そのものに直面させられるなら、突然、何一つ持たないまでに裸にされている自分に気づかされるでしょう。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。(マタイ16:26)」これが「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者」(ルカ12:21)の徹底的な滅びです。
聖書の神は、人間の罪がどんなに深く、またその弱さによってどれほど繰り返し裏切られても、どこまでも赦そうとし、絶たれた関係を回復するために自らを低くし近くに来られ、自ら苦しみ血を流すことを通してわたしたちを受け入れようとする神です。主イエスは十字架に死に、そしてよみがえられました。そして、わたしたちの地上の生活をも、天に連なるものとしてくださいました。天から来られたキリストは、わたしたちにとっても天にふるさとがあることを教えてくださいました。
神が与えてくださる聖霊によらなければ、だれもイエスを主と告白することができません。主イエスのみことばは、それを聴く者に聖霊を与えてくださいます。聖霊によって、自己を世界の中心のように思って、ひたすら自己のために生きようとする自我が打ちくだかれ、自分をはるかに超えた存在であるキリストとの交わりが開け、他者を愛する正しい、豊かな関係が開かれます。神に仕えるとは、富から解放されながら、自由に信仰にもとずいて、神の御心を行い、出会うすべての人を大切にし、神と人を愛する生き方が与えられます。これこそが天に宝を積むことであり、思い煩いから解放された、罪と死の束縛から自由にされ、永遠の命に生きる、救われた人間ではないでしょうか。