↑ 羊飼いのイエス
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
聖霊降臨節第十六主日 2020年9月20日(日) 午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
礼 拝 順 序
司会 齋藤 美保姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 476(あめなるよろこび)
交読詩編 23(主は羊飼い)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書10章7~17節(新p.186)
説 教 「イエス様は良い羊飼い」 辺見宗邦牧師
祈 祷
聖餐式 81(主の食卓を囲み)
「マラナ・タ(主よ、来てください)」第1コリント16:22、黙示録22:20
讃美歌(21) 458(飼い主わが主よ)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 9月27日(日)午後5時~5時50分
聖 書 エフェソの信徒への手紙3章14~21節
説教題 「キリストの住まい」
讃美歌(21) 311 492 27 交読詩篇 103
本日の聖書 ヨハネによる福音書10章7~17節
10:7イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 9わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 11わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 12羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 13彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。 14わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 16わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 17わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 18だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
本日の説教
今日のの礼拝には、初めて教会に来られる方がいるので、分かり安い聖書の箇所に変更いたしました。ご了承下さい。
ヨハネによる福音書10章7~10節
イエス様は御自分を<わたしは羊の門>であると言われます。<羊の門>とは羊が出入りする羊の囲いの門です。ここでは主イエスが神の国、神の領域に人々が入る場合の唯一の入り口であることを、<わたしは羊の門>にたとえて言われています。<わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である>とは、ユダヤ教の指導者たちを指しています。当時のユダヤ教の指導者(ファリサイ派の人々)や長老たちへの自信と傲慢に対するイエス様の痛烈な批判です。過去においても、旧約聖書のエゼキエル書34章1節以下に記されているように、イスラエルの指導者たちに、主なる神はこう言われる。<災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。…お前たちは群れを養おうはしない>と厳しい裁きの預言がなされています。これまでの偽りの指導者たち、救済者たちの盗人はやって来て、群れの羊を<盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするため>であった。
わたし(イエス)は柵内の羊を、盗人から守る羊の門である。わたしを通て入る者は救われ、門を出入りして牧草を見つけ食べることが出来る。わたしが世に来たのは、羊が命を守られ、しかも豊かに養われるように、人々が永遠の命を与えられ、豊かな恵みと祝福とを受けるためである、と主イエスは言われます。
11~13節
7節ではイエスは<羊の門>に御自分を例えて語られましたが、11節では<わたしは良い羊飼いである>と御自身を<羊飼い>になぞらえています。この背景にもエゼキエル書があると思われます。そこではイスラエルの指導者たちを牧者に、民を羊に譬えて語り、その牧者たちが羊を食いものにしている罪を裁きましたが、この牧者たちの代わって羊である民を養い救うメシア(救世主)の預言がなされました。<わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる>(エゼキエル書34・23)。この預言の成就(実現)としてイエスは来られたので、イエスは御自分を<わたしは良い羊飼いである>と宣言されています。<良い羊飼い>は羊を守るために命を捨てると言われます。羊飼いの生活の中では外敵に対して羊を守るために羊飼いたちが勇敢に戦い、ある場合には傷を負い、またある場合には命を失うことがあったようです。<自分の羊を持たない雇人>とは、自分自身の利益のため、生活の手段として羊を託されて羊を飼っている者のことで、偽りの指導者たちをたとえています。彼らは狼が来ると、羊を守らずに逃げ出します。偽りの牧者にとっては、彼は危険に直面すると、羊を捨てて逃げ去るのです。雇人は羊ことを心底から心にかけていないからです。すると狼は羊を襲い、羊たちを追い散らし餌食にするのです。羊のために本当に自分の生命を棄てる覚悟を持つ者、これが真の牧者です。最も深い意味において、真の羊飼いは主イエス一人のほかにいません。主エスは人々に永遠の命を与えるために自らの命を捨てられました。
14~15節
イエス様は良い羊飼いです。良い羊飼いは羊との間に、互いに深く知り合う関係をつくります。主イエスは人々と愛と信頼の関係をつくってくださいます。<わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている>と、主は言われます。<知る>という言葉で、わたしと羊の一体的な関係が語られています。さらに羊飼いと羊の関係を、父なる神と御子とのゆるぎない関係にたとえています。そのゆるぎない関係は、羊飼いイエスが羊にために命を捨てるということで保証されています。イエスの十字架の贖いの死が語られています。
16節
羊飼いイエスには、自分に身近な囲いの羊だけでなく他の囲いの羊のことも心にかけておられ、その羊も導かなければならいと言われます。ユダヤ人の救いだけでなく、異邦人を救うことを目指しておられます。御自身の前におられる人々への伝道だけでなく、広く世界を展望しておられるのです。地の果てに至るまで、イエスの証人となるように弟子たちを復活のイエスは派遣しています(使徒言行録1・8)。その羊もイエスの声、福音を聞き分け、信徒となるのです。こうして、世界の羊は一人の羊飼いイエスに導かれ、一つの群れになるのです。今日の教会は、現実には多くの教派、分派に分かれています。<一つの群>、<一人の羊飼い>こそ福音にふさわしい姿です。そのためには、わたしたちが福音に堅く立つこと、大牧者であるイエスを仰ぎ、その声に聞き従わなければなりません。
17~18節
<わたしは命を、再び受けるために、捨てる>とは、主イエスが十字架の死の後に、復活を信じていることが表されています。それが父なる神の御心に従うことになるので、父なら神は御子イエスを愛してくださっておられる。だれも父なる神とかたく結ばれているイエスの命を奪い取ることはできません。しかし、十字架の死は、神の御心に従う死ではあるが、同時に主イエスが自ら世の人々を愛し、救うための自主的な死であり、御自分でその命を捨てられるのです。イエスは自分の意志で命を捨てることもで、その復活の命を再び、父なう神から受けることも出来るのです。<父から受けた掟>とは、イエスの十字架と復活が神の計画、神の意志から発している命令である、ということです。
詩篇23篇1節に、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」といダビデ王の詩があります。まさに主イエスはわたしたちの良い羊飼いであり、真の羊飼いとなってくださいました。この羊飼いに従う群れであるわたしたちは、<何も欠けることが>あいません。わたしたちは主イエスに養われているのです。<満ち足りる心>をもたらすのは、羊飼いであられる神・主イエスです。
2節 「わたしの羊飼い」である主は、「わたしを青草の原に伏させて休ませる」方です。良い羊飼いとかかわることで、私たちに必要な休息が与えられるのです。主なる神は、わたしを「水ぎわに伴っていこわせてくださる」方です。静かな、穏やかな、心の落ち着く、しかも気持ちのよい水辺に、私を導かれる方です。
3節 主は、「魂を生き返らせる」神です。「魂」と訳された原語は、へブル語で「ネフェシュ」です。この言葉のもともとの意味は「喉」です。「喉」は食べ物や飲み物、声や息をする通り道であり、人間が生きる上で重要な部分です。そこから、魂(ネフェシュ)は「渇き」「渇望」を持った人間存在全体を表わします。
「神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。」(詩篇42:2,3)とあるように、神によって満たされなければ真に生きることのできない、そのような存在こそ「魂」なのです。「生き返らせる」とは、魂の内からの復活を経験させるということです。「命を得させ、豊かに得させるため…羊のために命を捨てた(ヨハネ10:10-11)」神がいますのです。
「主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる」方です。「御名にふさわしく」、「御名のために」とは、主がひとたび選んだ者に対して、ご自身の名誉にかけて、どこまでも全責任を負うということなのです。「正しい道、義の道」とは、神とのかかわりの道、いのちへと至る道です。主は、ご自身の御名にかけて、私を、正しい道へと導かれる方です。それゆえ、私たちに必要なことは、神の導きに従順であり謙虚であることです。
4節 「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。主よ、あなたがわたしと共にいてくださる(共に歩んでくださる)」。この告白は、「わたしはあなたと共にいる(創世記28:15)」と言われる主なる神の約束に基づいています。「死の陰の谷」とは、原語では「暗闇の谷間」です。それは、先が読めない、出口が見えない状況、だれも助けることのできない孤独の世界、まさに死の淵にある状況を意味します。しかしそんな状況にあっても、主の臨在によって、恐れないと告白しています。
「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」「鞭(むち)」と訳されている語は、羊を危険から守る棍棒のことです。「鞭」は羊をうつ道具であるより、羊を襲う獣と闘い、これを追い払う道具です。それは守りのための力の棒であり、「杖(つえ)」は羊を導くための用いるものです。「あなたの鞭」「あなたの杖」とは、羊に襲いかかる外敵と命懸けで戦う羊飼いが持っているものです。この二つの道具で、羊のために守り導く神が描かれています。それらが私を励まし、力づけるのです。羊のために命を懸けてくださる羊飼いがいます。その方が「わたしの羊飼い」として「わたしと共にいてくださる」が故に安心であると、この詩編は歌っているのです。
表面的には何不自由なく暮らしていても、真実に自分を愛してくださる方と出会い、その方の言葉を聴き、そしてその方を愛して生きることがないとすれば、それは不毛の大地を独りさ迷う羊や鹿と同じです。
私たちは、ここに歌われているように、豊かに養い、導き給う主である神様を礼拝しています。この主なる神が私たちの羊飼いであるならば、「何も欠けることはない」ことに感謝し、日々を過ごしましょう。
5節 ここには羊飼いに代わって家の主人がいます。敵によって苦しめられている者を受け入れ、豊かにもてなしてくれる家の主人です。食卓を整えること、香油を注ぐこと、杯に酒を満たすことは、すべて豊かなもてなしを表現しています。敵によって苦しめられている客人は、このもてなしによって力づけられ、喜びに満たされ、主の守りの確かさが歌われています。主の守りは、敵の前で食事ができるほど安全で、また敵を恐れる必要にないものなのです。このような神の接待を受けられるならば、これにまさるものは、他にはないでしょう。
6節 「命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り生涯、そこにとどまるであろう」とあります。神は私たちの命のある限り、恵みに満ちた愛をもって私たちを追いかけられる方なのです。迷い出た羊を、羊飼いがどこまでもどこまでも探し、救い出そうとするように、神は常に私を救おうと、追いかけて来てくださるのです。だから私は、これからの生涯がどのようなものとなろうとも絶望する事無く生きて行けるのです。
「生涯、主の家にとどまるであろう」とは、神との親しい交わりの生活をするのことです。道に迷った羊が探しに来てくれた羊飼いの胸の中に帰って行くように、私も生涯の日々、神様の御許に、神様の愛の中に帰り続ける、と歌っています。生涯にわたって私たちを導き、豊かに養ってくださったお方と共に、いつまでも、主の家にとどまりつづけであろう、と告白しています。
羊飼いのイエス様に養われる人々の交わりが教会です。死より復活して、父なる神のおそばにおられる神の御子イエス様は、私たちを差別することなく愛してくださり、私たちに聖霊を送り、いつも共にいて、守ってくださり、天国まで導てくださるのです。イエス様は私たちの羊飼いです。私たちは何も欠けることがなく、満ちたりた人生を送ることができます。