富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「荒れ野の誘惑」 ルカによる福音書4章1-13節

2019-03-04 12:58:55 | キリスト教

↑サンドロ・ボッティチェリ (1445-1510)イタリアの画家「キリストの試練」   製作年(1480年から1482年)所蔵:ヴァティカン・システィーナ礼拝堂              (作品の説明:キリストは悪魔を追い払った後、天使たちの饗応を受ける。)

      981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

        日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

      受難節第1主日 2019年3月10日(日)   午後5時~5時50分 

                          礼 拝 順 序

                                                

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  83(聖なるかな)

交読詩編   66(全地よ、神に向かって喜びの声をあげよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ルカによる福音書4章1-13節(新p.107)

説  教            「荒れ野の誘惑」              辺見宗邦牧師

祈 祷                                

讃美歌(21) 377(神はわが砦)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                      次週礼拝 3月17日(日) 午後5時~5時50分 

                                      聖 書  ルカによる福音書11章4-26節

                                      説教題   「悪と戦うキリスト」 

                                      讃美歌(21) 297 441 24 交読詩編 140

           本日の聖書 ルカによる福音書4章1-13節

 4:1さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、 2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 3そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」 4イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。 5更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。 6そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。 7だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 8イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」 9そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 10というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』 11また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」 12イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。 13悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

                              本日の説教

 3月6日の水曜日から、40日間の受難節に入りました。今年のイ―スターは4月21日(日)です。受難節の間は、主イエスが荒れ野で誘惑に会われ、十字架への道を歩まれたことを思って感謝し、主の復活を祝うイースターに備えるための期間です。

 イエスの「荒野の誘惑」は、マタイ(4:1-11)、マルコ(1:12-13)、ルカ(4:1-13)の三つの福音書に記されていますが、本日はルカの福音書からみことばをいただきます。

 主イエスはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた時、聖霊を受け、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞きました。イエスは「神の子」の自覚をもって、聖霊に満ちて荒れ野に行かれました。荒れ野は、エリコから東3キロに広がる「ユダの荒れ野」と推定されています。そこには「誘惑の山」と呼ばれている所があります。

   イエスは、四十日間霊によって荒れ野の中を引き回され、悪魔から誘惑を受けられました。その間は何も食べなかったので、その期間が終わると空腹を覚えました。

  「誘惑する者」の第一の誘惑は、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」という誘いでした。メシアとして御国実現のために、奇跡をもって食に困らないようにせよ、という誘惑です。

   四十日も断食し、空腹を覚えているイエスにとって、パンはのどから手を出したいほど欲しいものでした。悪魔の言うように、イエスは神の子として権能を用いて石をパンにすることは、できないことではありませんでした。しかし、イエスは自分をお遣わしになった神の御心を行うために世に来られたことを自覚され、自分の意志を行うために神の子としての権能を用いることはしませんでした。

  イスラエルの民は、シナイ半島の荒れ野の旅で空腹だったとき、指導者のモーセとアロンに不平を述べ立て、必用なものを与えてくださる神を信頼せず、不信仰を表しました(出エジプト記16・3)。しかし、不平を聞かれた神は天からマナを降らせ、うずらの肉を与え、こうして民を守る神であることを知らせたのです。

   主イエスは荒れ野で、イスラエルの民と同じような空腹を味わいましたが、イスラエルの民と同じような不信仰の罪を犯しませんでした。悪魔の誘惑に対して、イエスは神によって命じられたのではない奇跡を行うことを拒絶しました。「『人はパンだけで生きるのではない。人は神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある」と聖書のことばを引用し、現実の空腹に目を留めるのではなく、神に信頼し、神のみ心に従って生きることを宣言したのです。

   イエスは、申命記8章3節のことばを引用しました。申命記には、荒れ野でのイスラエルの民の空腹をつぎのように伝えています。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」とあります。イスラエルの民は、神に対する謙虚な信頼を、すなわち、神のご意思と言葉を待ち、神の摂理の力に感謝することを学んだのです。

  「人はパンだけで生きるのではない」とは、生きるために人はパンを必要とするが、パンだけで生きるのではない。人は神が与える命のパンで生きる(ヨハネ6:35)、と解することができます。人の生死は神の計らいの中にあり、人は神に生かされている存在です。人には、いのちの霊の糧が必要なのです。

  「主の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」とは、どのように理解したらよいのでしょうか。イスラエルの民は、天から降るマナによって神に養われました。マナを与えるとき、主なる神は、モーセに「見よ、わたしはあなたたちのために天からパンを降らせる」(出エジプト16:4)と言われました。また、「あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する」(同16:12)と言われました。このように「主の口から出る一つ一つの言葉」によって、マナが与えられ、うずらが与えられたのです。このように、人は神のことばによって生かされるのです。

   天地の創造も神のことばによるものでした。万物は言(ことば)によって成りました(ヨハネ1:3)。神はことばによって、ご意思を示されます。活ける神は、ものを言わない偶像の神とは違います。神と人との関係は、人格的・霊的なものです。神の言葉は、荒れ野の旅におけるマナのように、私たちに、単なるパンとは違う命の糧を与えて生かし、神に信頼して歩む者としてくださるのです。私たちは、日用の糧とともに、日々神のみことばによる霊の糧で養われて生きるのです。

   第二の誘惑は、イエスの内面的な霊的戦いが描かれています。メシアになりたければ権力と富を求め、頼れという誘惑です。悪魔はイエスを高く引き上げ、マタイには非常に高い山に連れて行きとあります。一瞬のうちに世界のすべての国々を見せました。当時のローマ帝国の世界と思われます。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。

  この悪魔の言葉は、神の子の権威を表す言葉であり、「すべてのことは、父からわたしに任せられています。」というルカ10:22に類似しています。この誘惑はイエスにとって大きな誘惑です。この世の権力と繁栄は、すべての権力者が求めるものであり、この世の繁栄、栄華と富はすべての人を魅了するものです。わたしたちが人生において追い求める目標が、富とか地位とか世間での名誉とかいう地上の宝ではなく、「天において」、すなわち神との関わりにおいて、または霊の次元において、価値あるものでなければならないというのです。何よりもまず、神の国と神の義を求めることが大切です。ひたすら自分の能力を隣人に仕えるために用いることで「宝を天に積む」ならば、心はいのちの源である神に結びつけられて、地上の変遷を超えて、死によっても脅かされることのない、霊の喜びと希望に生きるようになります。

   この第二の誘惑は、神の子の権威を悪魔がわがものにして自分への礼拝を要求しています。第二の誘惑には詩編2:8の神の子への権威の約束が暗示されています。<求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする>と。悪魔はここで自らを神として、神の子イエスへ礼拝を要求したのです。悪魔は、「私を拝んで」、この地上のすべての栄耀栄華を手に入れて、思うようにやったらいいではないか、という誘いです。悪魔に、全世界を与える力も権限もあるわけありません。全世界は、神のものだからです。しかし、悪魔は、できもしないことを言って、自分を拝ませようとするのです。ここに人をだます悪魔の真の姿があります。悪魔にとっては、人間に神を拝まないようにすることが、その最大の目的です。

  その時、主は、何をなさったでしょうか。主は、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(申命記6:13)と言って、悪魔を退けました。この言葉は、モーセがホレブの山(シナイ山)で十戒を与えられたあと、イスラエルの民に神の言葉を取り次いだときの言葉です。「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないように注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。」とあります。

   第三の誘惑は、神の子メシアなら奇跡と不思議とを人々に示せ、という誘惑です。悪魔はイエスを聖なる都エルサエムへ連れて行き、神殿の屋根の端に立たせ、神の子なら飛び降りたらどうだ、と誘いました。当時のユダヤの人々は、いつの日か自分たちを救いに来てくれるメシアが登場する場所は、このエルサレムの壮大な神殿の、しかも誰からもよく見える屋根である、と信じていたのです。そこに救い主が姿を現して民に救いを告げる。そういう最もふさわしい場所を悪魔は選んだのです。

   悪魔は、「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」と書いてあると聖書のことばを用いて、イエスに対して、神の子メシアとしての力を魔術的に行使して自分が神の子たることを示しなさい、と誘ったのです。

  悪魔が引用した聖書のことばは、詩篇です。このように書かれています。「主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」(詩編91・11~12)とあります。

  悪魔が引用したこの詩篇は、神への全き信頼を示す祈りです。イエスは、悪魔の要求する奇蹟は自分のための悪用であり、神への偽りの信頼への誘いであることを見破り、イエスも聖書の言葉を引用し、「あなたの神である主を試してはならない」と言って誘惑をはねのけました。

 イエスが言われたこの言葉は、モ―セが民に語った言葉です。これは旧約聖書の出エジプト記で語られている出来事を背景にしています。荒れ野で民の飲み水がなかったとき、「イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試し」ました。

 主は、苦境にあるモーセの祈りを聞き、モーセが岩を打てば、そこから水が出て、民は飲むことができるようにしました(出エジプト記17:1~7)。モーセはこの時の出来事を回顧し、イスラエルの民に対し「あなたたちがマサにいたときのように、あなたたちの神、主を試してはならない(申命記6・16)」と語りました。主イエスはこの言葉を引用して悪魔を撃退したのです。イエスはイスラエルが犯した不信仰のあやまちを犯すようなことはしませんでした。

  悪魔はあらゆる誘惑を終えてイエスを離れました。<時が来るまで離れた>とは、次にイエスが悪霊と対立する時までと意味です。主イエスはこの後も悪魔と戦うことになります。罪深い人間を救うために、主イエスは父なる神の苦難の僕として、十字架への道を歩まれ、受難を迎えます(22:3)。

 悪魔・サタンは人を神から離反させようとして働く存在です。サタンは人を神への不服従に誘うのです。ヘブライ語の<サターン>は「告発人」「敵」の意味があります。ユダヤ教ではサタンは堕落した天使、神と人間との関係を壊し、破滅をもくろむ堕落した天使たちの主と見なされています。サタンが蛇の姿で現れ、「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものと」なります、とだまして、アダムとエバを誘い、罪を犯させたことが思い出されます(創世記3:1-7)。

 わたしたちの場合も、「敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し廻っています。」(ペトロ一5・8)利欲や情欲のように、「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて誘惑に陥るのです」(ヤコブ1・14)。「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます」(ヤコブ4・7)とあります。「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」との祈りをささげつつ、聖霊の力をいただいて、主に従ってまいりましょう。

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