富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「主なる神は我らと共にいます」 ゼファニヤ書3章14~18節

2018-12-11 21:44:34 | キリスト教

                   ↑    預言者ゼファニヤ

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

         日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

        待降節第3主日 2018年12月16日(日)   午後5時~5時50分 

                            礼 拝 順 序

                                                司会 佐藤 洋子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 132(涸れた谷間に野の鹿が)

交読詩編   85(主よ、あなたは御自分の地をお望みになり)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ゼファニヤ書3章14~18節(旧p.1473)

説  教  「主なる神は我らと共にいます」辺見宗邦牧師

祈 祷                 

聖餐式    72(まごころもて)

讃美歌(21) 236(見張りの人よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                                 次週礼拝  クリスマス礼拝12月23日(日) 

                                     礼拝:午後4時~4時50分 愛餐会:5時~6時

             聖 書  ルカによる福音書2章!~20節

             説教題 「キリストの降誕」 

             讃美歌(21) 231 235 24 交読詩編97

     本日の聖書 ゼファニヤ書3章14~18節

 3:14娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。
15主はお前に対する裁きを退け、お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。
16その日、人々はエルサレムに向かって言う。「シオンよ、恐れるな、力なく手を垂れるな。
17お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」
18わたしは、祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。彼らはお前から遠く離れ、お前の重い恥となっていた。                                            19見よ、そのときわたしは、お前を苦しめていたすべての者を滅ぼす。わたしは足の萎えていた者を救い、追いやられていた者を集め、彼らが恥を受けていたすべての国で、彼らに誉れを与え、その名をあげさせる。                                20そのとき、わたしはお前たちを連れ戻す。そのとき、わたしはお前たちを集める。わたしが、お前たちの目の前で、お前たちの繁栄を回復するとき、わたしは、地上のすべての民の中で、お前たちに誉れを与え、名をあげさせると、主は言われる。

           本日の説教

     ゼファニヤは紀元前640年頃、預言者として主に立てられた、南王国ヨシヤ王時代(前640-609年)に活動した預言者です。ヨシヤが八歳で王となった頃です。1章1節は次のように記されています。

 「ユダの王アモンの子ヨシヤの時代に、クシの子ゼファニヤに臨んだ主の言葉。クシはゲダルヤの子、ゲダルヤはアマルヤの子、アマルヤはヒズキヤの子である。」(1:1)

 彼は、四代前のヒズキヤ(ヒゼキヤ)王の血を引く王家の人です。このゼファニヤの預言活動が、ヨシヤ王が27歳の時に始めた神殿改革(列王記下23:1-3)をもたらしたと言われています。

  ゼファニヤ書の時代は、アッシリアの滅亡(B.C.609年に首都ニネベ陥落)を預言をしているので(2・13)、その主都ニネベがまだ存在している時代の預言と思われます。ユダ王国の社会の悪弊を訴えているので、ヨシヤ王の宗教改革(621~622年)の前と考えられ、ヨシヤ王(32年間在位)の時代の初期、すなわち紀元前640~621年の間の預言と思われます。預言者エレミヤ(627~586)やナホム(686~612)と同時期に預言活動を行った人と考えられます。<ゼファニヤ>の名は「主が隠される」、あるいは、「主が隠し、秘め置いている事柄」という意味になります。それは同時に、秘められた事柄が主を尋ね求める者によってのみ開示されることを示唆しているとも考えられます。

 ヨシヤ王以前、ユダはアッシリアの植民地とされ、ヨシヤ王の父アモン王(B.C.642~641)と祖父マナセ王(前687-642年)はアッシリアの祭儀を取り入れ、国中に異教礼拝が蔓延していました。異教礼拝の蔓延は政治の堕落、民の倫理の低下を招き、不正がはびこっていました。そのような時代にゼファニヤは主の裁きの日が来ることを預言して、社会に警鐘を鳴らしました。

 ゼファニヤ書は、1章2節~2章3節に、中心主題である「主の日」の告知がなされます。地上から悪を除き去る「主の日」が近づいていることが告げられます(1・7)。人間だけではなく、全被造物に対する裁きと滅亡が告げられる預言です。<地の面から>、<一掃する、絶つ>という言葉が繰り返して用いられ、裁きが徹底的であることが強調されています。人間の罪により、被造物全体が罪に染まったので、神の審判は被造物全体にも及ぶことが語られます。裁きの中心は神の民ユダとのエルサレムに対する裁きです。神は、南のユダ王国の人々、また、特に、神殿があるエルサレムに住みながら、他の神々を拝むエルサレムの住民に、御自分の強い手を伸ばして審判を行います。なぜなら、彼らは、偶像であるバアルの「あらゆる名残(なごり)」(1・4)を、すなわち、カナンの先住民族の神であるバアル礼拝をまだ続けていたからです。また、神は、バアルに仕える神官や祭司といわれる人々を審判し断ちます。また、「天の万象を拝む者」(1・5)、すなわち、アッシリア人の神々である太陽・月・星の天体礼拝を家の屋上の平らな屋根で行う者たちを審判します。また、<マルカム>にも誓いを立てる者を絶ちます。<マルカム>はアンモン人の神「ミルコム」のことで、天体(特に金星)と関係します。また、イスラエルの真の神に背を向け、イスラエルの真の神を尋ねもせず、求めもせず、心を向けない者たちを審判します。

 ゼファニヤは<主の怒りの日が臨まないうちに、主を求めよ>(2:2-3と叫びます。

  2章4節-15節は諸国民の滅亡の預言です。ユダ王国の東西南北の周囲の異教民族(ペリシテ2・5〔ユダ王国の西〕、モアブとアモン2・8〔東〕、エチオピア〔=クシュ〕2・12[南]、アッシリア2・13[北])は罪ゆえに審判されます。イスラエルの民、ユダ王国の周囲の異教民族は、イスラエルの民を苦しめ続けました。また、イスラエルの真の神を信じず、高ぶり、傲慢に嘲り続けました。神は、イスラエルの罪を審判するとともに、イスラエルの周囲の東西南北の異教民族の罪も審判します。ゼファニヤが予告した20年後頃に、ユダ王国はバビロン帝国に攻撃されます。主なる神は、バビロン帝国を用いて、諸国をも審判されるのです。しかし、バビロンもやがて滅ぼされます。

  3章1節~5節では、ヨシや王が宗教改革をする前のユダ王国の人々、エルサレムに住む人々の罪とを指摘します。この都は神の声を聞かず、神の律法を守らなかった。暴力に訴え、うそ偽りは平気でつき、他の人を騙し、裁判官は、わいろをもらって裁判を捻じ曲げ、にせ預言者たちは、神の御心でないことを平気で語り、エルサレム神殿の祭司たちは、神の聖なる律法を破った。不正を行う者は恥を知らず、平気で不正を行っている。明確な断罪のことばがエルサエムに向けられました。 

  3章6節では、主が諸国の民を滅ぼしたことが告げられます。7節では、エルサレムの人々が「必ず主を畏れ、戒めを受け入れる」ことを主は思い、主はエルサレムをどんなに罰しても、「その住む所が断たれることはない」と告げます。しかし、諸国の民はますます堕落を重ね、悪事を行った、と告げます。

 8節では、主は、「主が立ち上る日を待つがよい」とエルサレムの人々に言われます。主は諸国の民を集め、諸王国を呼び寄せて、彼ら、堕落した民を攻撃させ、焼き尽くすと告げます。

 9節から10節では、ゼファニヤは、これまで「主の日」の審判を預言しましたが、それは民を滅ぼすためではなく、救うために為されたのであることがわかります。「主の日」の裁きの後に、エルサレムの贖いの日、回復の日が来ることが告げられるからです。「その日」神は、世界の諸国民の罪を赦し、救い、清い唇を与えてくださるので、周囲の異教民族も、イスラエルの真の神の名を呼んで、ひとつの心となって、真の神を賛美し、礼拝するようになることが約束されます。「唇」をもって「主の名」を呼ぶことは、賛美や礼拝と関係しています。「クシュの川の向こうから」とは、エチオピアを指すので、地の果てからを意味する表現です。

 11節の「その日」とは、エルサレムの罪の贖い日であり、回復の日です。主は「勝ち誇る兵士」を追い払うのです。「残りの民」の特徴は「不正を行わず」、へりくだった人々であり、神以外に頼る者がいない人たちです。

 12節には、「苦しめられ、卑しめられた民を残す」とあります。卑しめられた民、イスラエルの民から、神を真実に信じて喜んで生きる残りの者たちが起こされるのです。

 13では、イスラエルの残りの者たちは「聖なる山」、エルサレムの小高い丘の上に、神殿を再建して、再び、神殿で神を礼拝できるようになります。残りの民は、おごり高ぶることなくへりくだって神を敬い、「不正を行わず、偽りを語らない」、「欺く舌」を持たない心の清い人々であることが明らかにされています。

  

  次の14節からが、今日の聖書の箇所です。

 「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。主はお前に対する裁きを退け、お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。」(3:14-15)

 「娘シオン」は、親しさ愛らしさを込めた、人格化された都、エルサレムを指します。エルサレムよ、イスラエルよ、と呼び掛け、歓呼の声をあげ、心の底から喜び躍れ、と告げます。主はお前に対する裁きをとりさげ、お前の敵を追い払われたと預言します。イスラエルの王であられる主なる神は、お前の中におられる。だからもはや災いを恐れることはないと告げます。「イスラエルの王なる主はお前の中におられる」との言葉は、今なお苦難の中にある民に向けられた言葉です。

 「その日、人々はエルサレムに向かって言う。『シオンよ、恐れるな、力なく手を垂れるな。お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。』」(3:16~17)

 お前の主なる神は<お前のただ中におられ>と、ここでも繰り返して、主が共におられることを告げます。イスラエルは敵を恐れる必要はなくなり、不安や恐れから解放されるのです。主が勇士であり、勝利を与え、安全と繁栄を保証するのです。

 14節で、エルサレムよ喜び躍れ、と語った主が、ここでは、<お前のゆえに>主御自身がその民を喜び楽しむというのです。主は愛によってエルサレムの人々を新たに造り変え、イスラエルの民のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる、というのです。ここには、神に選ばれた残りの民に大きな喜びが与えられ、神が民に臨在され、共におられることが歌われています。

 「わたしは、祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。彼らはお前から遠く離れ、お前の重い恥となっていた。」(3:18)

 イスラエルの民の回復は、最終的には「約束の地への帰還」につながります。18節は、離散の民に対する神の慰めの言葉です。「祭りを祝えず苦しめられていた者」とは、離散の地にいるので、主に対する祭りができないことを意味しています。わたし、主は、そのような苦しめられていた者を、主は集める、と告げます。 <彼ら>とは、離散の地にいるくるしめられていた人々です。<お前>とは、罪を赦されるエルサレムであり、イスラエル人です。離散の民は、エルサレムから追いやられ、遠く離れた地におり、外国で恥を受けた民となり、イスラエルの民の重い恥となっていました。

 「見よ、そのときわたしは、お前を苦しめていたすべての者を滅ぼす。わたしは足の萎えていた者を救い、追いやられていた者を集め、彼らが恥を受けていたすべての国で、彼らに誉れを与え、その名をあげさせる。そのとき、わたしはお前たちを連れ戻す。そのとき、わたしはお前たちを集める。わたしが、お前たちの目の前で、お前たちの繁栄を回復するとき、わたしは、地上のすべての民の中で、お前たちに誉れを与え、名をあげさせると、主は言われる。」(3:19-20)  

 <見よ、そのとき>とは、16節の「その日」であり、主の日です。人々がエルサレムに向かって言う日です。<わたしは>とは、主なる神です。19節の<お前>は単数形で、<エルサレム>・<イスラエル>を指しています。20節は<お前たち>と複数形で語られています。離散の民の一人一人を指しています。

 主の日に、イスラエルの民が受けた恥に対して、まず苦しめた者たちを罰し、滅ぼします。それから、「シオンの娘」を単に「集め」「連れ帰る」だけでなく、彼らに本来与えられていた名誉と栄誉という特権を回復してくださるのです。このことによって、彼らの恥辱が拭われます。そしてイスラエルの人々がシオンに帰還する喜びを述べます。特に20節は捕囚からの帰還を想定した表現で、後代の挿入とされています。厳しい神の裁きの言葉で始まったゼファニヤ書は、散らされた者たちが帰還し、安全と繁栄を与えられとき、地上のすべての民の中で、名誉と称賛が与えられることが約束されています。。

 ゼファニヤは、ヨシア王の宗教改革の先駆者でした。彼はユダの人々の罪に対して、主の裁きを告げています。周囲の大国が興亡する中で、彼は、生きる道を失い、乱れに乱れている民に対して、厳しい警告を告げると同時に、神は民を愛し、力づけてくださること、主に希望をおき主に立ち返る者が救われることを、神の怒りをしのぐ大きな喜びとして伝えます。

 ゼファニヤは、このような「主の日」の希望を後代の民に与えました。そして、「残りの者」については、イスラエルだけでなく諸国民をも含む広がりを与える救いの希望を与えた預言者でした。「主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない」との言葉を二度も繰り返して言っています。ゼファニヤのこの預言は、インマヌエル(「神は我々と共におられる」という意味)の主イエスを迎えたことで現実のものとなりました(マタイ1・22-23)。救い主イエス・キリストのご降誕を心から喜び、主の再臨の日の訪れを待ち望みましょう。

 

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